ゆめひこう 

日々の思いを

軽井沢 黙想会

2014-11-29 16:11:51 | カトリック
久しぶりに軽井沢の修道院へ行きました。

早く着いたので、軽井沢からバスに乗り、カトリックパウロ教会へ行きました。





旧軽井沢の横道を入ったところで、木造の小ぶりな教会でした。

「お祈りをする方はどうぞお入りください」と

優しいメッセージがありました。

以前から一度訪れたいと思っていたので、念願がかないました。



木製の椅子に、跪き台があって、故郷の教会を思いだしました。



旧軽の道をゆっくり散歩しました。

いつも車でスーッと通って、止まってもらえないから・・・。



夕方、中軽井沢のクララ修道院へ着きました。



部屋の十字架とマリア様です。


朝日は6時半近くです。

40人くらいの方が集まりました。

いつもお会いしている顔、お久しぶりの顔、初めてお会いする方・・・。

「家族」というテーマで。


神様が、人は一人で生きるのはよくないと、相手を作ってくださった。

3日間、このことについて、いろいろな方向から考えてみました。

いつも誰かとかかわりを持って暮らしています。

そのかかわりに心を込めているか・・・。




自分が軸足をどこにおいているか。

「この一人にしてくれたことは、私にしてくれたこと」

キリストの言葉は、私には、

「もっと地に足を付けて生きなさい」と

言われているように思いました。


頭の中で、信仰を考えているだけの、理屈っぽい自分を。



修道院の庭を歩きました。


マリア様にも祈りました。



聖堂での司祭のミサは、心が和むものでした。

少しいつもの自分から距離を置いて・・・。

振り返りながら・・・。

良い時を過ごしました。


中軽井沢の駅舎が、新しくなっていました。

雲仙・島原巡礼 

2014-11-14 22:28:02 | カトリック
4日目






雲仙教会

ミサをあげていただきました。

「死者の月に入りました。

世の終わりにイエス様に会うまでの自分の生き方について思いを深めましょう」

同行してくださった神父様のお話とミサは、とても心がこもっていて感謝の気持ちいっぱいになります。



雲仙地獄で殉教したアントニオ石田にささげられた教会。

ヨハネパウロ2世も訪れたそうです。

信徒の数は少ないそうですが、ホテルのご主人が守っておられると。

とても温かい愛情あふれる教会でした。


雲仙地獄を見て、島原に渡りました。





ここでたくさんの方が拷問に会い、殉教されたと伺いました。





原城跡

世界遺産に向けて、整備がされていました。

何年か後に来たら見違えるようになっていることでしょう。



天草四郎の像



誰かが密かに置いたお地蔵様3体。

隠れの人ではないかと、ガイドさんが言っておられました。


島原教会。

残念ながら誰もいなくて訪問することはできませんでした。


庭にあった放蕩息子を迎える父。

とてもユニークでした。



福者堀内兄弟の像



口の津港よりフェリーで天草に渡りました。




最後の宿泊は天草のモダンなホテルでした。

ご馳走がたくさん出て・・・

みなさん修道院の食事を懐かしがっていました。

ホテルのお風呂にゆっくり浸かれたのは、やはりよかったです。





5日目

天草を回りました。



大江天主堂でこの巡礼最後のミサに与りました。


天草にはキリスト教に関する資料がたくさんあるようで、

記念館とか資料館とかありました。


天草四郎メモリアルホール

崎津集落というところは、今は入れなくなっているそうです。


遠くから崎津集落。

住民のみなさんは、観光バスが入るのが迷惑なのかもしれません。

カトリックの信者さんはほとんどいないそうです。

古い教会はありますが、島原の乱で全滅し、そのあと四国の方から人を移住させたということです。

コレジョ館、ロザリオ館、千人塚。天草四郎メモリアルホールなど、たくさん見ました。

世界遺産になるということはここに住んでいる人にとって、

またカトリックの信者さんにとって、どんな気持ちなのか、

機会があったら、聞いてみたい気持ちがします。

天草から熊本まで、何本も橋が架けられていて、どんどん走って夕方。熊本空港につきました。


長い巡礼でした。

信仰のために命を落とした人の話を聞き、今信仰を守って、教会を守っている人。

今回は神様が私の中にいるのではなく、日本の歴史を動かし、

その中で戦った人のことを考えました。

2000年の歴史を持つカトリックの中で、私の信仰の意味と果たすべき役割について

深く考えるものとなりました。


ド・ロ神父帰天100年記念ミサ 

2014-11-14 10:24:31 | カトリック
3日目

神の島教会

白い教会がきれいでした。

大浦天主堂に次いで2番目に古い教会だそうです。

九州の教会にしてはユニークな建物です。





ここでもマリア様は航海の安全を祈って海の方を向いておられました。


外海へ

遠藤周作記念文学館

 

沈黙の碑

こんな静かなところに遠藤氏はおられるのですね。

お幸せです・・・。


出津文化村

 
ド・ロ神父様

 

記念館内部

たくさんの業績を残されて、今も息づいているのが感じられました。






枯松神社

隠れキリシタンを祭った神社だそうで、黒崎地方の人々が集まってこられたそうです。

周囲にキリシタンの墓地もありました。



バスチャン屋敷への道


バスチャン屋敷

火をたく煙で見つかったと伝えられています。

バスチャンは、「バスチャンの予言」といわれる次のような予言を残しています。

①お前たちを7代までは我が子と見なすが、その後は救霊は難しくなるだろう。

②コンヘソーロ(告白を聞く司祭)が、大きな黒船に乗って来て、毎週でも告白ができるようになる。

③キリシタンの歌を、どこででも大声で歌って歩けるようになる。

④ゼンチョウ(異教徒)に道で出会ったときは、先方が道を譲るようになる。

こんなに苦労して隠れとなり、今を預言していた人があるのに、

今はあまりにもゆるくなりすぎている世の中です。





大野教会

明治時代にド・ロ神父様によって建てられました。

しっかりした石の作りが当時の手仕事の見事さを表しています。


大野教会のマリア様



大野教会内部



いよいよ 出津教会にて、ド・ロ神父様帰天100年記念ミサです。

除幕式の前に雨が上がり日が差してきました。

不思議な光景でした。













いっぱいの人でした。

ミサの声が聖堂内に響き渡りました。




出津教会は大きくて美しい教会でした。

信者のみなさんの熱意も伝わってきました。


私たちは、雲仙へ向かいました。

雲仙のホテルは、信者さんが経営されているホテルです。

長い一日で、雲仙の温泉にゆっくり浸って疲れを取りました。



ド・ロ神父帰天100年記念ミサ 巡礼

2014-11-13 13:57:05 | カトリック

羽田から福岡へ。

ずっと雲の中でした。




今村教会を尋ねました。

江戸時代に隠れキリシタンが多く住んでいたそうです。

プチジャン神父様によって発見されたそうです。

信仰を固く守っていたのですね。

レンガ造りの立派な教会でした。










  
一泊目は、福岡黙想の家です。

とてもきれいで、静かなところでした。

ここで10日間くらい黙想ができたらよいのにと思いました。



部屋の十字架と、魚のついた鍵。

ここの神父様が、私たちの巡礼の同行司祭になってくださいました。

翌朝聖堂でミサに与りました。





2日目



バスで長崎まで移動しました。

大浦天主堂


町は賑やかでしたが、天主堂の中は入場料を取っているせいか、あまり人はなく、静かでした。

コルベ神父様の印刷所や昔の道具も見ました。



信徒発見の碑



15年前ここの案内所でロザリオを買いました。

それが家のどこかにあるはずなのにずっと見つかりません。

それで、やっと念願のロザリオを買うことができました。

神父様に聖別していただきました。

よかった・・・。

中町教会を訪問しました。


大村藩の屋敷跡に建っているそうです。



にぎやかな街中でした。

祭壇には微笑みのキリストという十字架がありました。

ザビエルの国スペインに微笑みの十字架があって、そのレプリカだそうです。

イエスがほほ笑んでいる十字架はほかにはないそうです。

十字架・復活・私たちを救ってくださる喜びなのでしょうか?



聖堂のお掃除をしていられて、神父様のお話とオルガン演奏のおもてなしをいただきました。

とても温かい教会でした。

それから伊王島の馬込教会へ





海を航行する人や船を守っているのでしょう。

庭のマリア様もキリストも海の方を向いておられました。


ヨハネとキリスト像。

珍しいし、リアルでした。

長崎の黙想の家宿泊



部屋の十字架とガラスのマリア様です。

高台にあり。長崎の夜景が美しく見えました。


イエスはなぜわがままなのか

2014-11-11 13:39:00 | カトリック
                    

この本を読み終えて、読書メーターに登録しようとしたら、再読となっていました。

2012年に読んでいるのだそうです。

それでどんな感想を書いているか、見たかったのですが、感想はありませんでした。

残念・・・。

今回は面白く読みました。

参考になったところを抜書き。

忘れないように・・・
~~~~~~~~~~~~~~

罪とは悪ではなく、神に背を向けていることが罪。

ということは神の方を向いていることが罪でないこととなる。

神の方を向くためには、神を知らなければならない。



キリスト教ではイエスを通してのみ神を知ることができる。

つまり、

①イエスキリストの存在に出会う。

②イエスを通して神を知り、自分が生かされ、愛されている存在だと知る。

③これまでの自分が神の方を向いていなかった、すなわち罪の状態であったと知る。


祈りとは

神と対話することを意味する。

神と自分が何らかの形でコミュニケートしていること、関わっていることが祈りの基本であり定義でもある。

これは神の方を向くとも通じる。

またイエスが人間として表れてくれていたと信じているので、イエスを通して、

神と親しく交われる感覚が持てる。


価値観の転換

もし神(真実)以外のものがすべて絶対でないのならば、

私たちは神(真実)以外のものに支配されることはない。

つまり、この世のどのような事柄にも(地位や名誉金)支配されない

価値を見出さなくなる。


信仰

私たちの「信仰」とその対象である「神」という存在は区別されなければいけない。

信仰は人間の営みであり、絶えず不完全なものだが、

その対象となっている神は完全な絶対的なものである。

「私たちの信じている神は絶対だ。だから私たちの信仰も絶対だ」

となると原理主義に陥る危険がある。


神はこのままの自分を知っている。

しかもこのままの自分を認めて受け入れてくれている。

そう考えるとただここにいる自分をみとめることができるようになる。

この確信によって自分自身から解放される。