ゆめひこう 

日々の思いを

狭き門より入れ

2013-10-31 14:54:33 | カトリック



旧約聖書の勉強の前に、お昼のミサに与かりました。
今日の聖書朗読は

「狭き門より入れ」  ルカ13章

私が一番初めに知った聖書の言葉です。

13歳の時。

といっても、ジッドの「狭き門」を読んだのです。

大学生のいとこが私のお誕生日に、
「これからは文学小説を読むといい。
 ちょっと早いけれど」
と言って、プレゼントしてくれたのです。

だから狭き門では、アリサとジョロームの悲恋が浮かびます。

後になって聖書の狭き門を知ってからは、

私は広い門の誘惑に勝つのは難しいだろうと、絶望的な気持ちになりました。

今日神父様のお説教は

「広い門は、金銭欲とか名誉欲など、心の中の欲です」

「そして狭い門は、今日の答唱のように、神のみ旨を行うことです」

と、言われました。

何か気持ちがふっと明るくなりました。

狭い枠の中に自分を閉じ込めて、門を入ろうとするのではなく、

神様のみ旨を行うこと。

それも決してやさしいことではありませんが、

お祈りをして、お祈りをして、いつも神様を思うこと。

そういうことかなと・・・・。

ローマ帝国とイエス・キリスト

2013-10-26 20:22:32 | カトリック
イエス・キリストの世界史的意味を、当時の世界帝国の背景から解明します――。

序章には
ガリラヤの人イエスは、エルサレムの思想的な状況をよく知り、おそらく、われわれが想像する以上にローマ文化の価値意識や思考様式をよく知っていた。
と、ありました。

なるほど。

イエス様は30歳まで大工を仕事としていたといわれます。
ナザレの村だけでなく、いろいろなところに仕事で出かけていられた。
だからローマ帝国のことを抜きにしてはキリスト教は語れないと。



聖書の中でいつも聖書の言葉を読んで、聞いて味わってきました。

それを外側から読んで、考えてみるというのは、ちょっと違った感覚でした。

著者は活躍されている聖書学者の説に次々疑問を投げかけています。

法学部で学んだ人だそうですが、どのような経緯でキリストを研究するようになったのでしょうか。

私としては今までちょっとわからなかった部分が、すっきりすることがありました。
たとえば、ぶどう園の労働者のたとえです。
朝から働いた人も1タラント、お昼から働いた人も1タラント、夕方から働いた人も1タラント、不公平ではないか。
登場する労働者はみな朝から働きたいと思っていた。
朝から働いた人も、夕方から働いた人も、働きたいという思いは同じ用に朝からあった。その思いに対する代価というわけです。

ユダは裏切ったわけではなく引き渡した。
イエスは毎日神殿でに来ていたわけだから顔は知られていた。
合図の必要はない。
ユダの福音書にもこういうことが書いてあったように思い出しました。

イエスを置き去りにして逃げ去ったほかの弟子たちも罪は同じと。

聖書が1世紀近くになって書かれたものであることも、改めて考えました。



マカバイ記と優勝旗返還

2013-10-19 16:59:00 | カトリック
台風が関東付近を直撃しました。
伊豆大島で大きな被害が出ました。

知人が転勤で大島に勤務しています。
友人がメールを送りましたが、返信はありません。
返ってこないで届いているということは、無事なのではないかと、
みんなで話しています。

大島のすべての方のために、お祈りいたします。



水曜日は、聖書の勉強の日でしたが、休講になりました。

講座が始まる1時には台風一過の秋晴れでしたが・・・。

遠くから来られる方もあるので、お休みは当然だったのでしょう。

今週はマカバイ記Ⅱに取り組んでいます。

担当してくださっている神父様は、音楽が堪能で、聖歌隊の指導をされたりもします。

それでよく音楽のお話をされますが、今回も。

「スポーツ大会で優勝旗返還などで流れる音楽は、このマカバイ記ですよ」
とハミングして教えてくださいました。

みんな知らなかったので、大喜びしました。

運動会で優勝旗返還というと、吹奏楽が演奏を始め、
赤白の主将が優勝旗や優勝カップを持って厳かに前に進みます。


ゲルク・フリードリッヒ・ヘンデル  オラトリオ
「マカベウス・ユダ 見よ勇者は帰る」

が流れるのです。




マカベウスは、アッシリアを倒し、神殿を奪回して、もとのように清めました。
どんなに誇らしかったでしょう。
ハヌカー祭というユダヤ教のお祭りもこの時の記念です。
クリスマスにつながるような気がします。

今度から優勝旗返還のたびに、マカベウスを思い出すでしょう。

旧約の勉強はいろいろ面白いところにつながります。




旧約と新約のつながり

2013-10-15 09:53:30 | カトリック
久しぶりの癒しのミサです。
この聖堂に入ると、それだけで気持ちが柔らかくなります。



今日の聖書はルカ11章29
「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」

というところでした。

ヨナが神様から逃げて、魚の腹の中に3日間入っていたという話は、
昔から知っていました。

でも旧約の通読の勉強を進めているので、その前後の事情なども以前よりはわかって、
救い主が目の前にいられるのに信じることのできないその当時の人々を諭されているのだと思いました。

そしてそれは私たちのことでもあると。
聖書の言葉をどんなに勉強しても、それが信仰に結びつかなければ、イエス様の時代の人と変わらないということ。

神父様のお説教

苦しんでいる人が
「普通に生きたい。普通に暮らしたいのです」
と言われたそうです。
そこで神父様は
「普通に暮らすなら、信仰はいらない」
と答えられたそうです。

これはどういうことでしょうか?
と考えているうちに、話が進んでしまって、次からを聞き逃しました。


ミサの後のお話会で、
お説教の続きのように話されました。

一人ひとりの苦しみを神様からのしるしとして受け取る。
そのしるしは復活につながるしるしであることは間違いない。

自分自身が神様のしるしとなる。
それは十字架であって、復活につながる。
自分の与えられている場の中で、神様からの愛のしるし示そうとして生きる。
自分自身が神様のしるしとなって生きてゆこうとする。

こうしたことは、一人ですることであって、他から強制できないし、
勧められることでもない。

またこういう考えもある。
自分をささげることによって、他の人の力になる。
自分の苦しみを通して、他の人が助けられる
(ファチマの聖テレジア)

祈ることがとても力になる。
私のこの苦しみの実りを見せてくださいと、神様に願う。
これは必ず叶えられます。

神様に祈るのが一番だけれど、
マリア様に祈るのも力になる。

そして秋田のマリア様のお話になりました。
私は6月にお会いしてきたばかりだったので、とてもうれしかったです。




いやしのミサでは、いつも心を深める力を与えられます。


五島巡礼

2013-10-03 18:12:38 | カトリック
五島巡礼に行ってきました。
福岡空港から、一番南の島、福江空港について、バスや水上タクシーでめぐりました。
一番南の島福江島から、人が住まなくなって教会だけが残っている野崎島の野首教会まで、19の教会を巡りました。

                   ◎野崎島はこの辺りです




福江空港に到着した飛行機、他は広々していました。

そんなにたくさんの教会を見たって、ごちゃごちゃになってしまうでしょうと言われます。
一日1回ミサにあずかった教会は、さすがに印象に残っています。



1日目のミサ
井持浦教会
日本最初のルルドのマリアさまです。


今回の巡礼を前に、九州のキリシタンの本を読んだり、教会の写真集を見たりしました。
それでいろいろわかったつもりで行きましたが、圧倒されました。

一番良かったことは同行の神父様が五島出身の方で、子供の頃のことや、島の人の暮らしをお話してくださったことです。
そして教会に着くと必ず、その教会の歴史や特徴もお話してくださいました。ご自分の思い出も含めてです。

2日目のミサ
土井の浦教会




神父様が子供のころから通われた所属教会です。
ミサの後で、ご両親やご親族が一緒にあずかったことを紹介され、皆さん大感激でした。
お父様から貴重な資料の説明もしていただきました。


もうひとつは4日間一緒だったバスガイドさんも地元の方で、一族が信徒でした。
それで今の人たちの様子をガイドさんからも聞くことができました。
ガイドさんが子供のころと比べてどのように変化しているかなども説明を受けることができました。



ガイドさんの所属の中の浦教会です。
今はすっかりきれいになっているけれど、子供のころ床に座ると板の隙間から入ってくる風が冷たかったなど・・。
天井のツバキの花の絵がきれいでした。



3日のミサ
頭ゲ島教会


4日目のミサ仲知教会見事なステンドグラス。
イタリアで作られたそうです。


巡礼に行って感じたことは、神様の密度が違うような印象です。
静かな落ち着いた島の風景の中で静かに暮らしている人たちには神様がずっと寄り添って支えていられるような。



教会とは見えない、素朴な聖堂です。
旧五輪聖堂。
信徒たちの手造りの意図が伝わってくるようでした。






人が住まなくなった島の野首天主堂です。
きれいに手入れがされていました。
島にはキャンプ場などの施設もありました。

巡礼に行って、記念にミサのときに使うベールとか、まいにち祈るときのロザリオとかを買いたいと思っていましたが、どこにもそのようなお店はありませんでした。
島の人たちは信仰は商売にしないということでしょうか。

世界遺産に登録とか話題になっていますが、地元の信徒にとっては毎日の信仰の中での生活が一番大切なのかもしれないと思いました。




4日間の五島巡礼は、信仰についても改めて思いを深くする旅となりました。