ゆめひこう 

日々の思いを

グレゴリオ聖歌

2015-10-25 17:12:12 | カトリック


主日の朝ミサの後、グレゴリオ聖歌を練習しています。

春から参加させていただいて、2曲目に挑戦しています。

春ころの1曲目は、マリア様の聖歌でした。

今は11月の死者のための聖歌です。

ラテン語が分からなくて、全部、仮名を振りました。

仮名の発音が間違っていて、よけい混乱しました。

家にグレゴリオ聖歌のCDのセットがあるので、

その中から、死者のCDを探し出し、聞きました。

習っているのと同じのがありました。

これをスマホに取りこんで、何回も何回もなぞりながら歌い、

やっと皆さんについてゆけるようになりました。

次の主日には、早目に行って、一度声を出すことになりました。

うまくゆくといいです・・・。
 

イエスの祈り

2015-10-20 16:06:53 | カトリック
イエス様はよく祈ったと聞いていました。

朝早く起きて、一人で、山の中へ行って祈った。




ところが福音書によって、違いがあると聞きました。

ルカでは3章で、洗礼を受けて祈っておられると,天が開け・・・

マタイ3章 イエスは洗礼を受けるとすぐ水から上がられた。

そのとき天が開き・・・



ルカ 6章・9章 イエスは祈るために山に行き

マタイ5章 イエスは群衆を見て山に上られた。

   17章 イエスはペトロ…連れて、高い山に上られた。


洗礼やご変容のところでも、書き方が違うというのです。

マタイとルカでは、祈りに対するとらえ方が違う。

マタイには祈りよりも大事なものがある。

祈りがなくても何かがあれば大丈夫。

その何かを聞きのがしました。


マタイではゲッセマネの園でだけ、それもひれ伏して祈りました。

やはり祈ったのですね。

でも、こうなるとマタイの祈りには、深い意味があるのか・・・



友人に話したら、ルカは異邦人に向けて福音書を書いたから、

祈りを強調したのでしょう。

マタイはユダヤ人に向けて書いたから、祈りは身についていたのでは?と。

なるほどそういうこともあるでしょうか。




でも、私はこの話を中途半端に聞いた気がします。

もう一度、その話題を取り上げて聞ける機会があるとよいです。


友情セラピー

2015-10-10 21:15:44 | カトリック

                       

手のひらに載るほどの小さな本です。

「○○○・・セラピー」

というタイトルで、もう20冊以上出ています。

ちょっと手元において、セラピーされるのもいいし、

何かの時にお友達にちょっとしたプレゼントにもなります。

29
 友達の領分を尊重するのと同じく
 
 自分の領分を大事にしましょう。 
 
 自分の領分のすべてを
 
 さらけ出す必要はありません。
 
 自分の持っている何を分け合い
 
 何を心の中にそっと納めておくかを
 
 区別しましょう。


30
 友達に肩車をしてもらっているときは

 より多くのものが見えます。

 背中合わせでいるときには

 怖いものが少なくなります。

 肩を並べているときには

 荷が軽くなります。
 
 ともに上を見つめているといには

 宇宙の偉大さに息をのみます。


おなじぺーじに、英文がついているので、

英文も覚えられます。

若い人たちには一石二鳥かもしれません。

馬の時代

2015-10-03 13:41:39 | カトリック
                

本の整理を始めました。

とても古い本が出てきました。

1972年版 「馬の時代」井出雄太郎

1926年生まれの神父様が、46歳のころに書かれたエッセイのようです。

バブルのころですね~

タイトルにもなっている「馬の時代」の話がとても面白かった。

ハンガリーのものだそうです。


神さまは、初めに人間を作られ、その寿命を25年と決められた。

次に神様は馬を作られて、その寿命を100年とされ、そのあとに犬、

そして、サルを創造されて、彼らにもそれぞれ100年の生命を与えられたというのである。

しかし、最初につくられた人間は、自分だけが25年といは、あまりにも短く、

あっけないと考えて、あなたは100年もあるのだから、その一部を分けてくれと

馬のところに頼みに行く。

馬は、「自分は100年間も、重い荷物を運んだり、人間から酷使されることを考えると

うんざりする」と、快く25年を分けてくれる。

欲張りな人間は、犬のところにも行く。

「100年も吠え続けるとは気が遠くなる」と25年を割いてくれる。

サルのところにも言って無心すると、

「自分は100年も見世物になるのは嫌だから」と、提供した。

神様から最初に与えられた25年は人間らしい生活ができるのだが、

次の25年は、馬のように働き、犬から与えられた25年は犬のように吠えつき、

最後のサルからの25年は見世物のように他人からえさを与えられて暮らすようになるのだ。

2015年の今、このお話は、笑って聞くことができない気がしました。

ハンガリーの人たちはふるくから、深い人生観を持っているということでしょか。