新聞の細い広告だったのですが、目に留まりました。
タイトルか、写真の雰囲気か・・・
主日のミサの帰りに渋谷まで行きました。
お昼の部なのに、ほぼ満席でした。
(小さい劇場ですが)
2050年の地球はどうなっているか。
私もこのままで地球は人が住み続けられるのだろうかと考えます。
教会の苦悩も描いています。
脚本はタクシードライバーを書いた人で監督もしています。
主演のイーサン・ホークがすごくよかったです
新聞の細い広告だったのですが、目に留まりました。
タイトルか、写真の雰囲気か・・・
主日のミサの帰りに渋谷まで行きました。
お昼の部なのに、ほぼ満席でした。
(小さい劇場ですが)
2050年の地球はどうなっているか。
私もこのままで地球は人が住み続けられるのだろうかと考えます。
教会の苦悩も描いています。
脚本はタクシードライバーを書いた人で監督もしています。
主演のイーサン・ホークがすごくよかったです
神父様のお説教
「一緒にいるとはどういう状態をいうのでしょうか?
通勤の満員電車では、人がすぐそばにいます。
くっつくように近くにいます。
でも、その人は一緒にいる人ではありません。
関係ない人離れてゆく人です。
カーナビはどうでしょう。
ずっと傍にいます。
離れません。
そして行く道を間違えても怒りません。
では次に行く道はと教えてくれます。
神様も同じです。
いつもそばにいます。
間違えても、大丈夫です。
次の道を教えてくださいます。
神様はどれほど、私のそばにいるか、今日から改めて
考えましょう」
ほんとに神様はいつも、すぐ近くにいてくださいます。
ヨハネの福音書20章6節
シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを 見た。
8節 それから、先に墓についたもう一人の弟子も入ってきて、見て、信じた。
ペトロとヨハネの信仰の違いと、以前聞いたことがあります。
でも翻訳がどうなのでしょうね。知りたいところです。
聖木曜日のミサを終えて、御聖体安置室をお参りする人の列です。
洗足式には若い人や子供たちが並びました。
パパ様が、宗派を超えて、民族を超えて、足を洗われたように、
思いもよらない大きな好意を表しましょう。
ご聖体が運び出され、何もない聖堂です。
ぽっかりさみしさだけが存在します。
帰宅途中で見た月は、まさにもうすぐ満月でした。
今日もミサに与れない人と一緒のつもりのミサでした。
枝の主日です。
聖歌隊も枝を持て歌いました。
「キリストは神の身分でありながら、神と等しい身分であることに
痼疾しようとは思わず、却って自分を無にして、しもべの身分になり、
人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、
死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
お説教では、宗教の神は上にあってあがめられる存在になっている。
けれどキリストは一度死んで一番下目で下ってゆき、すべてを見られた。
そして天に上げられた。すべてを知る神である。
と、言われました。
すべての人間のためにキリストはおられる。
深く深く祈ります。
ゲッセマネの園の絵を典礼に使える機会は少ないそうです。
今日の第一朗読の
「初めからのことを思い出すな。
昔のことを思いめぐらすな。
見よ、新しいことを私は行う」
という箇所が、心に響きました。
祈っているときに、自分に言い聞かせていました。
第二朗読の
「キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、
それらをちり芥とみなします」
パウロの言葉が、良く分かりました。
お説教では、この姦淫の女と、シモンの家に
香油を持ってきた女と、イエス様のかけた言葉は違う。
みな同じように赦されたというのではない」
四旬節に自分の罪を見つめましょうと。