誤解のないように先に書いておく。これは面白い芝居である。このけだるい時間が、延々続く。たった90分がとても長いと思わせる。なのに、面白い芝居なのである。この長さは意図的なものだ。この不快感も同じ。それがこの作品の魅力で、そのためにわざわざ、必要以上の間を役者たちに取らせている。観客の我慢のギリギリのその先まで、演出がねばらせる。イライラと不快感が募る。
あの男は死んでいたのではないか、と思わせる。たまたまにしては、あまりにできすぎている。それを言うなら、東京でたまたま再会し、付き合って結婚する、というのも出来すぎだろう。ここに描かれる日常の「ある日」は、それ自体がまるで蜃気楼だ。彼らは現実ではなく、幻想の中を生きているように見える。しかし、これはすべてが現実で、そんな現実の中を生きている。断水もほんとうのことで、水を汲んで坂を登ってアパートに帰ってくるのも現実。アンテナもないのに、NHKの受信料を支払うことになるのもそう。
まるで、砂漠の中で、水もなく、たたずんでいるような。乾ききった大地で、ぼんやりと、うずくまって渇いている。冒頭の椅子に座ったまま同じ方向を見つめる妻と、その背後で水を入れたタンクを持ってきて、同じ方向を見る夫、という図式が作品全体を象徴している。彼らは同じ放火卯を見ているはずなのに、ひとりひとりだ。
20年の歳月を経て、ふたりの同級生だった男がやってくる。亡霊のように。そして、ともに一夜を過ごす。あれは何だったのだろうか、と夫婦は思う。幻のようにやってきて、去って行く。2人は彼が死んでしまったことにしていたかっただけ。たった4人の同級生だった。田舎の村。2組の男女。ひとりの女は結婚して子供もいる。彼らはもう40歳になる。
水不足の夏。給水のためポンプ車に水を汲みに行く。クーラーもない部屋。うだるような暑さ。失業した不安。まとわりつく紙片。リアリズムとはほど遠い不条理劇なのに、ここにあるいろんなことがやけにリアルなのだ。