別役実の二人芝居を中心にして上演してきた当麻英始さんが、別役ではなく北村想の古典に挑む。いや、挑むとかいう言い方はそぐわない。もっと自然体に、『寿歌』をやりたいと、なんとなく思い、それを実現する。ただそれだけ。今何故寿歌なのか、なんて構えてないところがいい。いや、もちろん、当麻さんにはきっといろんな思いがあるはずなのだ。でも、そこを封印して、とてもさりげなく、今、寿歌。
もう30年くらいになる。オレンジルームで北村想演出による彗星86によるオリジナルヴァージョンを見ている。確か、『寿歌』の1と2の連続上演だった。もちろん、2本とも見た。あの時の衝撃は大きかった。「なんなんだ、この芝居は、」と思った。難しいことはどうでもいい。ただこの一見ふざけた芝居に魅了された。核戦争の後、終末の世界。モヘンジョダロとかエルサレムをめざす彼らの旅。いいかげなん設定と行き当たりばったりの展開。リアカーを引いて二人が旅する。そこに訳のわからない男が同行することになる。出会って別れて、旅は続く。
今回の芝居で最大の驚きはなんとリアカーがない、ことだった。たまたまこの劇場にリアカーを入れるのが困難だったから、と当麻さんはいうけど、もちろんそれだけではないことは明白だ。あえて、この芝居の象徴的存在であるリアカーを排除しても大丈夫だと踏んだ。
リアカーがないだけで、こんなにも寂しいし、不安にさせられるなんて思いもしなかった。だけど、彼らはまるでそんなこと意にも介さず.飄々としている。もちろんそれがこの台本の面白さなのだ。ゲサクどんとキョーコはんは、死の灰が降りしきる町を、行くあてもなく、どこまでも旅していく。そこにヤソ(ヤスオ)が加わる。
とことん、シンプルな舞台にする。そうすることで見えてくるものをさりげなく提示するだけでいい。当麻さんの意図通りの美しい舞台となった。寂しいくらいに何にもない世界をたった二人で旅するゲサクとキョーコの姿がしっかりと目に焼き付く。世界が終わってしまってもそれでも生きているし、生きていかなくてはならない。
まっしろの世界で、ふたりが心細そうに佇む。でも、表面的にはそんな気持ちはおくびにも出さない。バカバカしい漫才のようなやりとりが続く。オリジナルのよさを踏襲し、それ以上の色を重ねない。シンプルで丁寧にこの70分ほどの芝居を見せていく。とても気持ちのいい作品だった。