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映画・演劇のレビュー

原田マハ『ジヴェルニーの食卓』

2013-07-08 21:17:30 | 演劇
 4つの中編小説は、いずれも画家のもとで寄り添って生きた人たちの姿を描いたものだ。巨匠たちを描くのではなく、彼らのそばで彼らを信じて、見つめ続けた視線。

 マティスを見つめた家政婦。そして、彼女のいた時期に、たった一度、彼のもとを訪れたピカソ。ドガのモデルになった踊り子。彼を見つめた女流画家。セザンヌを評価して、応援した画材屋のおやじ。ふたりを見つめたその娘。モネを支えた義理の娘。4人の画家と4人の女性。これはその8人を中心にした物語、そして、さらにはその周辺にいた人たちのドラマだ。

 去年、パリに行ったとき、まず、美術館を回ってしまった。本当は町歩きだろ、と思うのだが、それと同じくらいに絵や彫刻を見てしまった。特にオランジュリーのモネの睡蓮は圧倒的だった。いつまでもここにいたい、ずっとみつめていたいと思った。(でも、30分くらいしか、いなかったけど)モネがロダン美術館にこの絵を飾ることを求めたなんて、この本を読むまで、当然知らなかったし、オランジュリーに行く直前、ロダン美術館に行ったのも、たまたまだ。(もちろん、両者の途中でオルリーにも行っている。物見遊山の観光客はそんなものだ)ロダン美術館に行って初めてここでウディ・アレンが『ミッドナイト・イン・パリ』の撮影をしていたことに気付いた。「おおっ」と思ったが、映画を見たときには、まるで、気にも留めてなかったのだ。あの映画を見て、パリに行く気になったくせに、である。呑気者だ。

 余談ばかりだが、パリの町を歩くのは楽しかった。1日じゅうフラフラ歩いても、飽きることはない。そんなこんなを思い出しながら、この小説を読んだ。

 二束三文で、彼らの絵が売られていた時代。(もちろん、それでも誰も買わないし)そんな時代、彼らは自分の才能を信じ、夢を見た。そんな時代。原田マハは『楽園のカンヴァス』に続き、その延長線上に、これを据える。芸術の都、パリ。そんなものにはまるで興味のない僕だけど、たて続けにパリを舞台にする小説を読み、映画を見てしまったから、まぁ、たまにはヨーロッパもいいかぁ、なんて軽いノリで行ってしまった。

 俗と聖。その狭間で、どちらにも属さない普通の人々の生きざまがとても気になった。庶民目線で見たパリ。そこで、クリスマスのパリで1週間を過ごすことになった。(もちろん、日程はたまたまそこしか、時間がなかったからだ。しかも、おかげで、とても困ったことになったけど)得たものは大きい。見たことではなく、そこで感じたこと、あの感触は貴重だ。

 さて、本題に戻る。この小説が描くのは、まだ、自分たちが何者でもないということ、それを巨匠として崇められる「今」という視点から、第三者によって見つめられることで見えてくるものとして描く。では、それってなんだ? 小説を読みながら、ずっとそんなことを考える。でも、答えは出ない。だからこそ、おもしろい。

 あの頃の彼らにとって、今という時代は(というか、あの時代は)彼らを評価しないが、やがて時代が彼らに追い付く。そのことを理解していた人たちのドラマだ。そんな人たちの「今」の視点から巨匠たちの横顔を描く。そこには一点の曇りもない。あの頃も今も変わらない。4つの話はいずれも2つの時間を往還して、彼らが見つめた画家の素顔を描く。偉人伝でも苦労話でもない。ありのまま、見えたとおりの彼らの姿に、今僕たちがすべきことも見えてくる。自分の信じたことを為せ。それだけ。


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