フランソワ・オゾンの映画は見逃さない。初期の頃から、必ず見てきた。最近はどんどんまるくなってきて、以前の毒は薄まっているが、それはそれで悪くはない。今回、なんとカトリーヌ・ドヌーブにジャージを着せた! あのポスターは衝撃的だった。天下のドヌーブさまが映画でジャージ、である。
しかも、本編の方も冒頭からジャージ姿を披露する。お年を召し、かなり肥満体になられた天下の美女が、オゾンの映画で、何を見せるのか。ドキドキさせられる。しかも、お相手はトリュフォーの晩年の傑作『終電車』で共演したジェラール・ドパルデューだ。ドヌーブ以上に凄まじい肥満で、もう見てられない体型をしている。この重量級のコンビが、老いらくの恋をするのだ。きゃぁ、である。
70年代を舞台にしたコメディー映画の体裁を取る。幸せな家庭に籠って、社会との接点のない飾り物でしかなかった妻が、夫に変わって会社を立て直す、という話だ。なんだかのんびりしていて、ドヌーブもおっとりしていて、映画も軽やかなタッチで、楽しい。
後半、仕事を奪われた夫が反撃をしてきて、危機一髪になるのだが、さらなる大逆転で、大団円を迎える。ただのコメディーのフリして実はそうではない。でも、難しいことなんか考えず、思いもしない展開を楽しめばいい。いつも深刻な映画を作ってきたオゾンなのに、前回の天使の羽を持つ赤ちゃんの話といい、最近はなんだか感じが変わってきた。でも、彼の本質は変わらない。このおおらかな映画に盛られた毒はきっと、あまりに薄味で、気付かない。でも、それでいい。
一見、ただのお嬢様に見せて実はかなりのしたたかさ。猫を被っていた彼女が、自分らしさを発揮して、会社を切り盛りするシーンが気持ちいい。快哉を叫びたい。更には、回想シーンとして幾度か挿入される若かりし日の絵に描いたような描写(もちろん、大林映画ではないのですから、今の本人が演じてたりはしない。ちゃんと若い男女に演じさせる)のわざとらしさ。それもいい。この映画全体がなんだか嘘くさくって、でも、その嘘くささの先にあるものは、思いのまま生きることの心地よさだ。ずっと彼女は変わらない。自分のペースで自分らしく生きている。そして、女性が社会を変えていく。そういう図式が心地よい。(もちろんそんなにも単純ではないよ。)
しかも、本編の方も冒頭からジャージ姿を披露する。お年を召し、かなり肥満体になられた天下の美女が、オゾンの映画で、何を見せるのか。ドキドキさせられる。しかも、お相手はトリュフォーの晩年の傑作『終電車』で共演したジェラール・ドパルデューだ。ドヌーブ以上に凄まじい肥満で、もう見てられない体型をしている。この重量級のコンビが、老いらくの恋をするのだ。きゃぁ、である。
70年代を舞台にしたコメディー映画の体裁を取る。幸せな家庭に籠って、社会との接点のない飾り物でしかなかった妻が、夫に変わって会社を立て直す、という話だ。なんだかのんびりしていて、ドヌーブもおっとりしていて、映画も軽やかなタッチで、楽しい。
後半、仕事を奪われた夫が反撃をしてきて、危機一髪になるのだが、さらなる大逆転で、大団円を迎える。ただのコメディーのフリして実はそうではない。でも、難しいことなんか考えず、思いもしない展開を楽しめばいい。いつも深刻な映画を作ってきたオゾンなのに、前回の天使の羽を持つ赤ちゃんの話といい、最近はなんだか感じが変わってきた。でも、彼の本質は変わらない。このおおらかな映画に盛られた毒はきっと、あまりに薄味で、気付かない。でも、それでいい。
一見、ただのお嬢様に見せて実はかなりのしたたかさ。猫を被っていた彼女が、自分らしさを発揮して、会社を切り盛りするシーンが気持ちいい。快哉を叫びたい。更には、回想シーンとして幾度か挿入される若かりし日の絵に描いたような描写(もちろん、大林映画ではないのですから、今の本人が演じてたりはしない。ちゃんと若い男女に演じさせる)のわざとらしさ。それもいい。この映画全体がなんだか嘘くさくって、でも、その嘘くささの先にあるものは、思いのまま生きることの心地よさだ。ずっと彼女は変わらない。自分のペースで自分らしく生きている。そして、女性が社会を変えていく。そういう図式が心地よい。(もちろんそんなにも単純ではないよ。)