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映画・演劇のレビュー

『罪の手ざわり』

2014-06-15 20:34:55 | 映画
 ジャ・ジャンクーの新作である。何はさておき、まず、これを見なくては始まらない。その他の映画なんか見ている場合ではない。

 初めて彼の『世界』を見た時から、僕はいろんなことを考えなおすことにした。10年ほど前の話だ。その時、まず、中国に行かなくてはならない、と思った。世界ではとんでもないことが起きていると思ったのだ。そしてこの世界が終るのではないか、と思った。それくらいに衝撃的な映画だった。北京郊外にある「世界公園」というテーマパークを舞台にしたドラマだ。そこで働く人たちと、そこを訪れる人たち。さまざまな人々の姿を通して、中国だけではなく、この世界が抱えるいくつもの問題が浮き彫りにされる。世界の中心である北京に立つことで、世界の終りをそこに見る。そんな大げさな想いを抱いて、初めて中国に行った。それから何度となく中国には行っているけど、最初のショックは今でも忘れられない。

 今では寂れてしまった世界公園にも、行った。廃墟のような場所だった。どこを訪れても、さびしい気分にさせられる。この世界はこうして終っていくのか、と思う。北京オリンピック前の騒然とした町、どんどん建物を壊して表面的な繕いをする。今、経済成長を遂げて飛ぶ鳥を落とす勢いの町。でも、果たしてそうなのか、というといささか心許ない。

 ジャ・ジャンクーが啓発したように、この国はおかしい。でも、そのいびつさの犠牲になっている人々は、今もそこで苦しんで生きている。今回の新作で描かれることも同じだ。激しい怒りが作品の底には流れる。描かれる暴力のあまりのストレートさに眩暈がする。今までのジャ・ジャンクーとは明らかに違う。ここまであからさまに描いたことはなかった。4つのエピソードがいずれも、暴力的で、あきらめはない。切実な想いの迸り。もうどこにも逃げ道なんかない。だから、たとえどうなろうとも、戦うしかない。人間がここまで追い詰められるような世界。それが今の中国なのだろう。一部の特権階級の人たちの横暴。大多数の貧しい人たちの呻吟。爆発するしかないではないか。いつまでもそんな暴力に甘んじているわけにはいかない。すべてが「お金」に還元される。富める者と、虐げられる者。この単純な構図。

 ここにはいくつもの殺人が描かれる。でも、殺すべきなのは、彼らだけではない。権力の側に立って、自由を満喫している人たちがいる。この国でクーデターが起きないはずはない。この危険な状態を打破するすべはないのか。ジャ・ジャンクーは告発する。正しい世の中を作らなくてはこの世界は滅んでいくだろう、と。最後に自殺する青年に象徴される気分は、『世界』でも描かれたものだ。だが、今回、一番、心に残るのは、最初のエピソードだ。権力に対して屈することなく戦いを挑む中年男を何の屈託もなく見せていく。やがて彼が殺人に至る図式の中に、危険な構図は見て取れる。そうはさせないために、何が必要なのかを、考えるべきなのだ。彼がヒーローにはならない世界は間違っている。それを仕方ないで済ますわけにはいかない。

 2つ目の話の男は、強盗をして簡単に金を奪う。富める者から奪えばいい。しかも、殺しは胸のすく快感だ。どうして彼がそんな風になったのか。問題はそこにある。

 3つ目の話の女は、自らの尊厳のために金で横面をはたく男たちを刺し殺す。お金で体を売るわけではない。不倫しているけど、男は妻と別れる気はないけど、彼女は堂々として生きている。なんら疾しいことはない。反対に、わけのわからない男たちを雇って彼女を痛めつける卑劣な彼の妻なんかより、ずっと立派に見える。(それにしても、あの夫は何をしているのだろうか)彼女はくだらない男たちに立ち向かう。

 最後のエピソードだけ、少し趣が異なる。しかも、最初に書いたように、この話だけ、殺人者は出てこない。反対に主人公は何もせずにあきらめてビルの上から飛び降り自殺を遂げる。戦うことに疲れてしまって命を絶つ。そのほうが簡単だ。世界を終わらせる一番の方法。だが、それが答えではないことは自明のことだろう。ここからどこへ向かうのか。ジャ・ジャンクーの映画から目が離せない。

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