こういうタイトルがついているにもかかわらず、この映画にはハワイのシーンはない。だいたいタイトルの「ハワイ」とは夢の中のリゾート地を象徴させたものであろう。この映画は台湾の花蓮を舞台にして、兵役に就いている2人の若者が、脱走した仲間を捜すために、上官の命令で兵舎の外に出て、ほんのささやかな旅をする時間が描かれるだけである。
しかも(実を言うと)この話にはなんだか説得力がない。ほんとに、こんなにも簡単に銃を持ったまま行方をくらました脱走兵の捜索がなされていいのかと思う。秘密裏に捜索をしようとするにしても、こんないい加減な奴らに任せるなんてありえない。しかし、この映画の魅力はこの説得力のなさにある。
台湾では(はっきりとした時期的な指定はないようだが)だいたい高校を卒業後くらいから1年半、兵役に就くことが義務付けられている。ホウ・シャオシェンの傑作『恋恋風塵』も、この兵役によって別れ別れになった恋人たちの悲劇が描かれるが、この映画の脱走兵もまた、兵役中に恋人から別れ話を切り出されたために脱走してしまう。
彼を見つけ出すことを命令された2人は、本気で彼を探す気はなく、久々の現実世界を謳歌している。あと少しで兵役も終わるので、完全にリラックスした状態。主人公は家に帰り、幼なじみの女の子を訪ねる。彼らは脱走兵の実家も訪ねるが、それ以上本気にはならない。脱走兵はいきなり彼らのもとに現れる。その唐突さがこの映画のスタイルである。彼が殺される場面も突然すぎて驚く。
だが映画全体はとてもホンワカしていて、タイトル通り「夢の中で遊んでいる」ような雰囲気だ。彼らを囲む現実は、この映画が描くように甘く優しいものでは決してあるまい。しかし、この映画は厳しいことは一切描かず、すべてがうまくいき何一つ嫌な事は起こらない。
この映画は現実から目を逸らしたメルヘンの様相を呈しながら、その実、現実の厳しさを十二分に知った上で、全てを夢の中のお話のように心地よいものとして見せていこうとする確信犯である。これはあくまでも作者の強い意志によって作られた虚構の物語なのだ。脱走した男は憲兵により殺されてしまうし、夢の中で見た小学校の頃優しくしてくれた女の子は、受験ノイローゼから精神病院に収監されている。
映画はこの女の子が海辺で死んでいるという不吉な夢を見るシーンからスタートする。そんな夢を見た事で、彼は今の彼女に会いに行こうと思いたつのだ。再会した彼女は心を病んでいてもう現実を生きることが出来ない。そんな彼女を病院から連れ出し(彼女が勝手について来たのだが)旅をする、という基本ストーリー自体も本当はありえないようなお話なのである。映画は一切何も言わず、そんな嘘のような話を淡々と見せていくだけだが、ちょっと考えればこの映画で描かれることは、すべて自分に都合のいい嘘ばかりだということは一目瞭然である。
永遠にこの夏が続くかのように、蝉の声はずっと聞こえている。海は美しく、彼ら以外誰もいない。まるで幸せな時間の中にどっぷり浸っているような夢見る時間が描かれる。
ラストで除隊した主人公が再び彼女を病院に訪ねる。しかし、もう退院していてここにはいないと言われる。もしかしたら、すべてが彼の見た夢の話だったのではないか、と思わせる。過酷な軍隊での時間が終わり、夢に見た現実世界に戻ってくる直前のほんの少しの時間。その心の休暇を残酷な現実の断片を挟み込みながら、あくまでも夢の中をたつたうように描く。
僕にはこの映画の全てが夢の出来事にしか見えない。脱走兵も、要領のいい友人も、幼なじみの美少女も、すべてが夢である。海辺でいつまでも遊び続ける姿が印象的だ。あのシーンには、まるで北野武の映画を見てるような気分にさせられた。
新人シエー・フーチュン監督が描くこの少し歪な夢の世界に魅了された。台湾からまた新しい才能が生まれたことを心から喜びたい。
しかも(実を言うと)この話にはなんだか説得力がない。ほんとに、こんなにも簡単に銃を持ったまま行方をくらました脱走兵の捜索がなされていいのかと思う。秘密裏に捜索をしようとするにしても、こんないい加減な奴らに任せるなんてありえない。しかし、この映画の魅力はこの説得力のなさにある。
台湾では(はっきりとした時期的な指定はないようだが)だいたい高校を卒業後くらいから1年半、兵役に就くことが義務付けられている。ホウ・シャオシェンの傑作『恋恋風塵』も、この兵役によって別れ別れになった恋人たちの悲劇が描かれるが、この映画の脱走兵もまた、兵役中に恋人から別れ話を切り出されたために脱走してしまう。
彼を見つけ出すことを命令された2人は、本気で彼を探す気はなく、久々の現実世界を謳歌している。あと少しで兵役も終わるので、完全にリラックスした状態。主人公は家に帰り、幼なじみの女の子を訪ねる。彼らは脱走兵の実家も訪ねるが、それ以上本気にはならない。脱走兵はいきなり彼らのもとに現れる。その唐突さがこの映画のスタイルである。彼が殺される場面も突然すぎて驚く。
だが映画全体はとてもホンワカしていて、タイトル通り「夢の中で遊んでいる」ような雰囲気だ。彼らを囲む現実は、この映画が描くように甘く優しいものでは決してあるまい。しかし、この映画は厳しいことは一切描かず、すべてがうまくいき何一つ嫌な事は起こらない。
この映画は現実から目を逸らしたメルヘンの様相を呈しながら、その実、現実の厳しさを十二分に知った上で、全てを夢の中のお話のように心地よいものとして見せていこうとする確信犯である。これはあくまでも作者の強い意志によって作られた虚構の物語なのだ。脱走した男は憲兵により殺されてしまうし、夢の中で見た小学校の頃優しくしてくれた女の子は、受験ノイローゼから精神病院に収監されている。
映画はこの女の子が海辺で死んでいるという不吉な夢を見るシーンからスタートする。そんな夢を見た事で、彼は今の彼女に会いに行こうと思いたつのだ。再会した彼女は心を病んでいてもう現実を生きることが出来ない。そんな彼女を病院から連れ出し(彼女が勝手について来たのだが)旅をする、という基本ストーリー自体も本当はありえないようなお話なのである。映画は一切何も言わず、そんな嘘のような話を淡々と見せていくだけだが、ちょっと考えればこの映画で描かれることは、すべて自分に都合のいい嘘ばかりだということは一目瞭然である。
永遠にこの夏が続くかのように、蝉の声はずっと聞こえている。海は美しく、彼ら以外誰もいない。まるで幸せな時間の中にどっぷり浸っているような夢見る時間が描かれる。
ラストで除隊した主人公が再び彼女を病院に訪ねる。しかし、もう退院していてここにはいないと言われる。もしかしたら、すべてが彼の見た夢の話だったのではないか、と思わせる。過酷な軍隊での時間が終わり、夢に見た現実世界に戻ってくる直前のほんの少しの時間。その心の休暇を残酷な現実の断片を挟み込みながら、あくまでも夢の中をたつたうように描く。
僕にはこの映画の全てが夢の出来事にしか見えない。脱走兵も、要領のいい友人も、幼なじみの美少女も、すべてが夢である。海辺でいつまでも遊び続ける姿が印象的だ。あのシーンには、まるで北野武の映画を見てるような気分にさせられた。
新人シエー・フーチュン監督が描くこの少し歪な夢の世界に魅了された。台湾からまた新しい才能が生まれたことを心から喜びたい。