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映画・演劇のレビュー

『家族の庭』

2013-04-21 08:35:58 | 映画
 マイク・リー監督の新作。(とは言え2010年作品)4話からなるオムニバス・スタイル。ある初老の夫婦の1年間の出来事を春夏秋冬の4つのお話で見せる。これは本当にさりげなくなんでもないスケッチなのだが、その中で、彼らの喜びや悲しみが確かに綴られる。

 日常のスケッチでしかない。特別なドラマはない。でも、2人と彼らを巡る友達の話は見ていて胸に突き刺さる。家族であること。ただそれだけのことがこんなにも愛おしいことなのか、と言われると、なんかここまで保守的な話をなぜ映画化したいと思ったのか、そちらのほうが気になる。

 主人公夫婦のもとを頻繁に訪れる妻の職場の同僚である女性(シングルの中年女性)のさびしい心情をこれでもか、これでもか、と見せていくのはなんだかなぁ、と思う。それは夫の親友(同じようにシングルの中年男性)の話も同じだ。この2人の話が、この映画が描く出来事の中心を担う。彼らがそれぞれひとりだから、さみしい、ということをわざわざ描くことにどれほどの意味があるのか、僕にはよくわからない。

 さらには追い打ちをかけるように、この夫婦の息子のエピソードが描かれる。1話では独身の彼が、3話で恋人を連れてきて、幸せそう、というのが描かれ、それに先に書いた妻の職場の同僚である女性が、嫉妬する(彼女は10歳ほど年下の彼のことが好き)という展開だ。これって余りと言えばあんまりだ。なんだかこれでは、独り身の中年は悲しいし、惨めな存在でしかない、ということを描く映画にしか見えない。本当にそんなことが描きたかったのか? いくらなんでもそれはないのではないか。

 最後には夫の兄の話もある。これも痛い。妻を失い傷心の彼を家に招き、しばらく同居させる。この主人公の夫婦はとてもいい人だ。それは認める。だが、このあまりに悲惨な話を通して家族であることの幸福を描こうとした、とは思えないから、じゃぁ、何が目的だったのか、やはり、気になるのはそこである。

 とてもいい映画である。そんなことはわかっている。ここに描かれる「ある1年」(映画の原題は『アナザー・イヤー』)は特別な1年ではない。この夫婦の1年のどこを切り取っても映画は成立するのではないか、とすら思わせるさりげなさである。でも、今、この瞬間であることの意味がきちんと描かれている。この1年の次にまた、次の1年がある。そして人生は続く。ほんのちょっとしたことで、事態は大きく変わる。でも、そんなことも含めて、どこにでもある家族に時間が描かれる。本当をいうと、別にここには何もなかったのかもしれない。夫婦とその友だちたち。なんでもない日々。ただ、それだけ。どちらがどうとか、あまり関係ないのかも。でも、なぁ、僕はと思う。





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