4時間に及ぶ長尺である。しかも、話自体はその日の朝から翌朝に届かないくらいの短時間の出来事だ。中国の何の変哲もない小さな町が舞台になる。あるマンションの三つの家から始まる。主人公はそれぞれの部屋にいた3人の男たちだ。たぶんまだ30前後の男、高校生、そして、60代の老人。彼らの姿を追っていく。3人は映画が始まって1時間半くらいが経つまで出会うこともない。もしかしたらいつもと同じ「その日」だったかもしれない「ある日」が始まる。男がいた部屋の窓から彼の友人が飛び降り自殺する。少年が学校でクラスのいじめっ子を突き飛ばし階段から転落死させる。老人は同居する娘夫婦からこの家から引っ越しするので老人ホームへの入居を迫られる。そんなこんなの彼ら3人の1日だ。交錯することがなかったはずの人生の「ある日」が始まる。
映画はあまりのそっけなさで、最初は何が描かれているのか、それすらよくわからない。疲れていたので、少しうつらうつらしてしまい、ますますわからなくなる。しばらくして(1時間くらい見たところで)、これはだめだ、と思い、もう一度最初から見直す。そうすると、お話がすっきり頭に入った。
でも、これは実に不親切な映画だ。最初は誰が主人公なのか、それすらわからない。それに、ミディアムからアップでの長回しが延々と続くのにも閉口する。何も起こらないまま、同じ場面を凝視しなくてはならない苦痛が続き、結局大きな動きもないまま次のシーンに、なんて展開すらある。5分近くの長回しもあるのだ。そこでは不要なほどの緊張は続くが、大きな変化は起きないから肩透かしを食らう。
でも、当然のように彼らは少しずつ、追い詰められていく。3人だけではなく周囲の人たちのお話も必要以上に挿入されていく。映画はバランスが悪い。一直線にドラマが流れていくことはない。停滞し、行き詰まり、紆余曲折をたどる。だから見ていて少しイライラさせられる。でも、映画はそんなこっちの気持ちなんかにまるで頓着せず、悠々たるタッチで彼らを凝視する。監督のフー・ボーは確信をもってこの映画を作る。これがデビュー作なのに、この自信はどこから生まれるのか。自らのスタイルに対して迷いは一切ない。これが当然のことで、これしか道はない。その確固たる姿勢に僕たちは導かれる。
描かれるのはこのどん詰まりのような場所で息を潜めて暮らす彼らの最後の1日だ。まさかこの日がこんな日になるなんて思いもしなかったことだろう。いつもと同じようにこの日はあり、明日がある、と思ったはずだ。もちろん、それでも彼らはただただ目の前の現実を受け止めるだけで、表情も変えない。理不尽だと、憤るわけでもない。人が死んでも、自分が死にそうになっても驚きもしないポーカーフェイスのまま。
満州里へと旅立つラストも、そこに何かを求めるわけでもない。ここから去って理想郷へと旅立つなんて感じとはほど遠い。しかも列車が運休して、バスで向かうことになる。その途上で映画は終わる。
この物寂しい映画が描く何気ない終末は一体何なんだろうか。ドラマチックというわけではないが、でも、確かにここから彼らの日常が終わっていくのは事実だ。静かにそれを受け入れて、その先には何があるのかもわからないまま、ただそこにいるだけ。こんな映画を作り死んでいったフー・ボーという青年は(彼にとってこの作品はデビュー作であるだけではなく遺作にもなった)何を思ったのか。声高に何かを訴えかけるのではなく、ただ諦めるように生きている彼らに寄り添い、彼らの現実を見つめ、その先に連れていく。ここには答えなんかないけど、これを見つめることで、何かが見えてくる。そこには確かな光がある。