船場サザンシアターが出来てもう5年になる。だから、「SSTプロデュース」も5周年。5年間で8本の作品を上演してきた。当麻さんが自分の劇場を作り、そこを拠点にしてSSTプロデュースとして自分が好きな作品を好きな役者を集めて上演する。ここはそんな夢の場所だ。妥協することなく、自由に贅沢な時間を使い、作品を作る。なんて素敵なことだろう。
もちろん、私財をなげうって、とんでもない困難を引き受けながらの劇場運営である。(たぶん) それでも、自分のしたいことを全力ですることが可能な生き方って、素晴らしい。一切妥協のない芝居作りは、別の意味での怖さもあるはずだ。でも、そんなふうにして彼は5年間芝居を作り、劇場を運営している。
さて、今回初めて唐十郎を取り上げた。今まで基本別役実作品だけを上演してきたのだが、(一度だけ、久野那美さんの『たとえば零れたミルクのように』をしているけど、それは別役作品に近いテイストだった)なんと唐である。出演の2名が当日パンフで声を揃えて「アングラ」と叫んでいるあの唐十郎だ。おどろおどろしくて、わけのわからない「アングラ」である、ときっと若い人たちは思うのだろうが、そうじゃないことは、自分の目で唐組を見たならわかる。(いや、わからんかぁ。表面的な理解では難しいかも)
今、この芝居を上演するのは、かなりの英断だ。時代が違うし、あの頃の気分も今の人たちには伝わらない。描かれるものの意味すら伝わらない部分も多々ある。しかし、そのまま演じる。ここで語られる言葉はもともと、理路整然としたものではない。断片だ。イメージの羅列でもある。それを感情のまま吐露する。言葉はキャッチボールしない。前半なんか、ふたりはほとんどお互いモノローグしている。伝わりきらない個と個。壁一つ離れただけなのに。
ここがどこで、ふたりの関係はどうなっていて、どこに話が向かうのか。定かではない。だが、お互いの孤独な心情は伝わる。だから、お互いがお互いを求める。男(織田拓巳)
と女(白亜)が共鳴するまでのお話だ。戦場や独房や、壁というイメージが70年代と今とではまるで違うものとして受け止められる。感情的に理解出来たものが今ではその残滓すら伝わらない。だがこの絶望的な状況下で支え合い、伝えあうものは、確かにある。
当麻さんはとても優しい。この作品がこんなにも胸を打つのも彼の優しさゆえだ。別役作品を演出する時と同じような感触がここにはある。これはやはり当麻作品だ、と思う。感情的なセリフも彼のフィルターを通過すると、なぜかとても落ち着いたものとなる。安心できる。