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映画・演劇のレビュー

高嶺格ワークショップ&パフォーマンス『リバーシブルだよ人生は』

2007-09-22 08:30:25 | 演劇
 19人の一般公募で選ばれた出演者たちと高嶺格本人が、ほぼ出ずっぱりで見せるライブ・パフォーマンス。100時間のワークショップを通して彼らが見せた幾つもの表情をコラージュさせていきながら、1本の作品を作り上げる。アイホール恒例の企画である。

 最初、見初めた時、このチンドンヤみたいな衣装と、ひとりひとりのあまりに稚拙なパフォーマンスに辟易させられた。素人に自由にさせて、それを延々見せられてもたまらない。自己主張なんて、ただの独りよがりで、そんなものは自分の家でしてくれよ、と思う。

 しかし、気が遠くなるくらいにそれぞれの自己の内なるものを形にしていこうとする作業に付き合う高嶺さんの我慢にはちょっとカンドーする。表現として、定着させるための我慢強さは教師として、見習うべきものがある。でも、こんなのはただの発表会以下のものでしかない。見ていて徐々に疲れてきたのも事実だ。

 表現というのは、ありのまま、思いのままでは駄目で、いかなる形に変形させるか、またそのことで本質的なものに到達したときにこそ意味をなす。稚拙なパフォーマンスが(ドラカンの筒井さんが終わった後「このパフォーマンスは彼らの稚拙さゆえに思いがけない難解さを提示していて面白い」なんて言ってたが)《難解》なのではなく《崩壊》したものとして、舞台に展開していく。《へたうま》を狙ったわけではなく、《へた》そのものでいいと高嶺さんは思ったのだろう。辛抱強く彼らと付き合い、彼らの内側にあるものを掬い取っていくことで、気付けば、徐々にこのステージは異様な迫力を持ち始める。

 特に終盤、京都造形大を燃やしてしまいたい、と言う女性の延々と続くモノローグを聞きながら、彼女の個人的な体験が、ここにいるひとりひとりのそれぞれのドラマすら感じさせ、その後、別の女性が髪の毛を、ジョリジョリと切り刻むシーンにつながった時、このストレートな表現がなんだかとんでもない迫力で迫ってくるのを感じた。

 それまでのパフォーマンスさえ彼らの内面の無骨な表現として適切だったと思えてしまうくらいの勢いである。高嶺さんは言葉も含めてありとあらゆる表現手段を駆使して、本当の自分を見せろ、という指導をする。最初は上手く機能しないがそんなこと気にしない。やがて彼らの本気が伝わってきたときこのステージは圧倒的なものへと変貌することになる。

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