新キャストになり、なんと主人公が変わって、一新した再演、というわけではない。くじら企画は再演ではなく、「再現」だから。今回、主人公の永山則夫を秋月雁が演じた。少年時代を森川万里。意表を突くキャスティングではなく、すでに既視感がある。初演も再演も風太郎、川田陽子が演じた。なのに、今回のふたりがまるで違和感なく収まる。そこがくじら企画らしい。オリジナルを大切に守る。大竹野なら、どうするか、ではなく、大竹野はこうした、というスタンスだ。
大竹野正典の死去から始まった今のくじら企画の再演シリーズ(本人が死んでいるのだから新作が上演できるわけはない)が、今ではなんだか常態にすらなっているのは凄いことだ。
しかも、くじら企画だけではなく、いろんなところで彼の芝居が上演されている。その流れの中に本家であるくじら企画も、ちゃんとあるのだ。というか、くじら企画がその中心にある。後藤小寿枝とその仲間たちの団結は凄い。
さて、15年振りの再演は、当然、「今、永山則夫なのか、」ではなく、まず、時代の片隅にある暗い闇を描くことを旨とする。そこにひとりの男がいる。4人の男たちを殺して獄中にいる。死者たちが彼のもとを訪れる。男は実在した人物ではなくても構わない。実際に起きた犯罪ではなく、象徴でも構わないのだ。永山則夫に縛られなくても理解出来るのが、大竹野作品の普遍性だ。大竹野作品が今でも古くなることはなく上演されるのは作品自体の力もあろうが、この誰にでも通じる心の闇を描いたからだ。
今回主人公を秋月雁さんが演じたことで、これはまるで『密会』の続編のような印象を受ける作品になった。演じたのが同じ彼だから、というだけではなく、その佇まいが似ているからだ。秋月が『密会』の狂気と同じような空気を醸し出す。なんだか不思議だ。風太郎の時にはそんなことは一切感じなかったのに。
閉じ込められた部屋の片隅で(実際は牢なのだが)たったひとり、体を丸める。ラスト直前の死者の4人が上手に雁首を並べ、下手では小さくなる彼の姿を描くそのシーンがとても印象的だ。彼が怯えていたのは、何に対してなのか。貧困や孤独。
犯罪者になるなんて、思いもしなかった。だけど、人をひとり殺し、やがて、4人殺すことになる。逃げ出したかっただけなのだ。ここにいるわけにはいかないから。自転車で東京に向かう。東京に何がある訳でもない。だが、そこには「何か」がある。その危ういものに縋るようにして、旅に出る。やはり、これは普遍性にあるドラマだ。誰もが感じる想いがその根底に流れる。森川万里が素晴らしい。
この作品を見て、改めて、今の時代にこの芝居が受け入れられるのは必然だろう、と思わされた。