習慣HIROSE

映画・演劇のレビュー

『虹の女神』、現実という壁の前に立つこと。

2006-10-30 10:19:53 | 映画
映画が終わったとき、「あまり、泣けなかったね」という隣に座っていた女の子たちの会話が耳に入った。そりゃそうだろう。これは泣かすための映画ではない。そして、残念ながら高校生の<子供>が見る映画でもない。

 大学生を描く映画というのは、実はそんなに多くない。学園ものの舞台は、ほとんど高校と決まっている。そんな中で、この映画は大学の校内を舞台にする稀有の映画だ。大学には高校のような夢物語はもうないから映画の装置にはなりにくい。でも、この映画にとっては、そこが大事なのである。映画の中で夢を見たい子どもには、この映画は難しすぎてわかるまい。

 これは痛みについての映画である。悔恨についての映画なのである。そして、ひとつの事実をある種の距離をおいてそのままに提示しただけの、味もそっけもない映画なのだ。表面的には、恋人にすら出来なかった大事な友の、突然の死を扱う【悲恋物】の衣装を纏いながらも、その実は、ひとつの時代を生きる気分を切り取って見せただけの映画なのだ。22歳から24歳まで。子どもと大人のあわいの、ほんのわずかな時間の持つ哀しみを【虹】に象徴させて掬い取ろうとする。

 大学の4年から社会人となった最初の数年間。人がまだ何ものにもなりきれてない不安定な時間。なりはもう立派な大人であり、確かに大人の居場所にも所属しているが、どこにいてもまだしっくりこないし、なじめない。自分で自分をもてあましている。そんな時間の物語だ。夢の残滓としての大学生活が、8ミリ映画を撮るという行為を通して描かれる。もう過去のものとなり、現実世界ではほとんど流通しない8ミリ映画への拘り。それだけでも胸に痛い。世界の終わりをテーマにした映画を彼女は監督する。そして、彼はその映画で主人公を演じさせられる。劇中劇と同じようにこの映画は彼ら2人の物語だ。

 ヒロインの上野樹里は、夢を追って映像に携わる仕事に就く。8ミリカメラをビデオカメラに持ち替えてドキュメンタリーを作る。ある日、職場の上司(佐々木蔵ノ介)から酒の席で「アメリカにでも行って、世界を見て来いよ」なんて言われて、そんな戯れごとを信じ会社をやめて旅立つ。もちろん佐々木の言葉に嘘はない。しかし、それは自分が現実には出来なかった夢でしかない。なのに若くて、自分の本当の居場所が分からない彼女は、そんな彼の言葉を受け入れることで、生きる縁とする。

 主人公の市原隼人は、偶然に出会った女(相田翔子)に、突然家まで押しかけられ、そのまま同棲することになる。2つ年上の彼女は自分ひとりで強引にすべてを仕切っていく。彼はそれにただ振り回されていく。彼女が嫌いなわけでもない。だから妊娠したと言われたらそれを受け入れるし、むこうの両親にもしっかり挨拶にも行く。そんなふうにして大人になるのならそれもいいのかもしれないと思う。だが、若く見えた彼女が実は自分より10歳も上で34歳だったという事実を知った時、彼は初めて彼女を拒絶する。それは騙されていたからではない。自分には、まだ現実を受け入れていく力がないということを実感したからなのである。

 ヒロインはアメリカに旅立つことで、主人公は恋人を拒絶することで、それぞれの現実と向き合うのである。しかし、それはまだ始まりでしかない。ここから彼らの現実との闘いが始まるのだ。突然のヒロインの死は、これから始まるそんな人生に対する世界からの拒絶である。

 僕らははたしてこの世界から正しく受け入れてもらえるのだろうか。映画はそんな疑問を投げかけてくれるだけだ。ただ、それだけ。それだけなのに、この映画はこんなにも胸に沁みてくる。

 岩井俊二は『花とアリス』で高校生の夢の時間を描き、『リリィシュシュのすべて』では中学生の悪夢の時間を描いた。そして、今この映画で、大学生の夢でも悪夢でもない<現実そのもの>の時間を描く。今回は敢えて監督をせず、プロデュースという立場で自分の映画を撮りあげてみせた。熊沢尚人という才能を生かすためであると同時に、作品をある種の距離感をもって見つめるためのひとつの試みだったのか。まぁ、そんなことはどうでもいい。この素晴らしい作品と出逢えたことを心から喜ぼう。

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