土曜の朝、東生駒にある「ギャラリー宗」というところに行く。古民家を改装して多目的スペースにした空間だ。朝、生駒山上にある両親と祖父母の眠るお墓に行ってから下山して、東生駒駅に到着したのは10時過ぎ。開演までの時間、街歩きをする。でも、駅周辺には何もない。しばらく歩いて火葬場にたどり着く。上り坂にある火葬場の裏山には墓地が広がる。頂上まで登りきると見晴らしがいい。生駒山が見える。この小さな誰もいない山の上の墓地でまどろむ。一体これは何なんだろうか。年末のお墓参りは予定にはなかったけど、この公演を見るために東生駒に行くことになったから、それなら母親に会いに行こうと思った。天気はよかったけれども、でも生駒山の登山口にある墓所はとんでもなく寒くて蠟燭も線香も風が強くてなかなか点火できないので困った。花を生ける筒も凍っている。下山したのに、また今度は知らない人たちが眠るお墓にいる。なんだか不思議で笑える。
さて、今回の芝居である。劇団大阪の杉本さんが久々に舞台に立つと知り、それだけで見に行きたいと思った。「大阪春の演劇まつり」でお世話になっている。しかも今回のこの小公演は熊本一さんの地域文化功労者表彰の報告会も兼ねているということだ。杉本さんも熊本さんもほんとうに素敵な方で、お話するとそれだけで幸せな気分になる。ほんの少しだけど、いつも勇気をもらう。いくつになっても変わることなく好きなこと(もちろん演劇!)を全力でする。そんな当たり前のことがこんなにも美しい。
長い歳月をずっとお芝居と過ごし、これからも当たり前のこととして、ずっとそれを続ける。自分は60を越えて定年退職し、現役から引退したけど、自分なんかまだまだひよっこだ、と思う。この先、どんなふうに生きていけばいいのか、毎日考える。新しい仕事に就くということも考えたけど無理。40年間高校の教師しかしたことのない自分にできることなんかないし、何よりしたいと思えることがない。これまで好きなことだけをしてきた。だからこれからはもっと好きなことだけをしていたい。40年以上芝居を見ている。映画は50年以上見ている。高校時代映画監督になりたいと思った。あるいは小説家に。でも本当は映画を見たり小説を読んだりするだけの仕事があればいい、と思っていた。作るよりも見るほうが好きだ。それじゃぁ、映画や小説のことを見てそれを書くという仕事はどうか、とも思った。でも評論家はなんだかなぁ、と思う。小難しいことは嫌いだ。好き嫌いだけでいい。なんともわがまま。長い歳月を経て、今、思うのは別になんでもいいじゃないか、ということだ。好きを仕事にすることで40年過ごした。高校が好きだった。「高校」という場所と時間とそこにいる子供たちが好きだった。結局今も非常勤で高校に行っている。だけど、この先どうなるかはわからない。
今日この芝居を見に来て、客席で熊本さんとお話する機会を得た。熊本さんが杉本さんのことを「杉本くん」と呼ぶのがなんだか微笑ましい。ともに80代になる人生の大先輩のおふたりの姿を見ているだけで、なんだか勇気がもらえる気がする。さて、今回はいつまでたっても芝居のお話にはならない。ようやくここから少し芝居のことを書く。
朗読劇『宙を跳ぶ犬たち』は30分ほどの掌編。中西康子さんと杉本さんが演じる。妻に先立たれひとりぼっちになった老人のもとになんと空から昔(80年前!)生き別れになったはずの白い犬がやってくる、というなんだかスケールの大きなファンタジー。一人寂しく公園で缶ビールを飲む老人を杉本さんがさりげなく演じる。
第2部は夏原幸子さんによるひとり芝居『ほんのしあわせ』。夏原さんはなんとテキストを手にしたままで演じる。そこには何色ものラインマーカーで線が引かれ、様々な書き込みもされているのが客席からも見え隠れする。もちろん彼女はそのテキストを見ながら演じるわけではないが、テーブルの上に、片手にと常に台本を手にしてこの1時間に及ぶ一人芝居を演じる。町にあった小さな本屋さん。40年に及ぶ歳月この場所を夫婦でずっと守ってきた。しかし、夫は認知症になり介護をすることになり、一時は店を閉めた。夫に先立たれ再びひとりでこの店を切り盛りしているが、もうほとんどお客さんは来ない。そこにあるお客がやってくる。彼は昔ここによく来ていたようだ。彼女は彼に語り聞かせる。この店を開き、夫と二人で生きてきた歳月のことを。
老人を主人公にしたこの2つの作品を無理せず、地に足をつけ、老人がしっかりと演じる。なんだか胸がいっぱいになった。畳の部屋でゆったりと20席用意して演じられる小芝居。小さな空間を贅沢に使い、演じられる2作品。役者はほとんど動かない。じっくりと語り聞かせる。いい時間だった。