このタイトルには少し抵抗がある。内容にマッチしない気がするのだ。大阪弁のこの言葉は確かにこの芝居全体を象徴するわけだが、お話全体の中でこの言葉が生きていないから、浮ついた言葉に思える。いろんなことがあるけれど、彼女の(もちろん、主人公である与謝野晶子)想いをそこに集約するだけのものとして、この言葉が芝居の中で描き切れてない。彼女のわがままで個人的な想いが作品全体を覆うのならばこれでいいのだが、芝居はそこまではいかない気がした。
ただ、それは演出のしまよしみちのアプローチの問題でもある。晶子と寛という夫婦の物語を史伝として、重く、シリアスに描くのではなく、徹底して晶子サイドからの一方的なものとして、(寛は蚊帳の外に出される)軽いユーモアを交えて描いていく。冒頭パリへと旅立つ寛の見送りのシーンから始まるから、その後、彼は芝居の中では不在となる。留守宅での晶子の奮闘振りが描かれることになる。ただ遊学中である寛がなぜか舞台上で、晶子の周囲をフラフラしている姿も折り込んで滑稽に描かれる。(もちろん、それは実際にそこに居るわけではなく、イメージとして登場するのだが)芝居は、彼女にフォーカスして、テンポよく駆け抜けていく。90分というランニングタイムはこの手の作品としてはありえない短さだ。あれもこれもと欲張ることなく定点観測で、彼女の日々を見せていく。夫の前妻、今の愛人の間で、イライラしたり、腹を立てたり、さらにはお金のこと、仕事のこと、子育てのこと、と悩みは尽きないけど、へこたれることなく、エネルギッシュでバイタリティー溢れる女性の日常のスケッチとして、彼女をじっくりと追いかけていく。
本来なら、これは劇団創立55周年を記念して森本景文さんが演出するはずだった作品である。きっと森本さんならもっとバランスの取れた安定感のある作品仕上がったはずだ。だがしま演出はそうはいかない。この仕事を引き継いだしまよしみちは、無理して自分に引き寄せることもなく、かといって森本さんのコピーをするわけでもなく、(そんなこと不可能だし)自然体で、この題材と取り組み自分らしさを失わない芝居として成立させた。台本のままなら2時間になる作品から、登場人物を取捨選択し、切り詰め半分にして、上演時間も30分短くする。先にも書いたが、これは重くなってはならない芝居だ。与謝野晶子、鉄幹夫婦の歩んだ人生を描く大河ドラマではない。ピンポイントで彼女の想いを描くスケッチなのだ。軽やかさが身上だ。ラストで「私もパリに行くわ」と言い放って旅立って行く彼女を受け入れられなくては、成立しない。
日々の生活という現実に疲れながらも、バカな夫に愛想を尽かせつつも、それでも彼が好きだからついていく、というとてもわかりやすいスタンスを受け止めることで、このいささか安易に思われるタイトルも受け入れられるはずなのだ。そんなふうに考えるとこれはとてもよく健闘している。タイトルの持つイメージを生かせるように、考えた作劇だ。それだけに彼女の旅立ちがもっと軽やかなものとして伝わってきたならよかったのだが。
惜しむらくは、キャストの年齢。そこが全体的にもう少し若かったなら、演出の意図はもっと明確になったはずなのだ。だが、それだけは老舗劇団だけにどうしようもない。