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映画・演劇のレビュー

『バンクーバーの朝日』

2014-12-17 21:56:40 | 映画
石井裕也監督がこれだけの大作を任されて、引き受けた。もう後戻りはできない。もちろん、失敗は許されない。昨年の映画賞を総なめした『舟を編む』の後、今年は家族の問題を描く『ぼくたちの家族』を撮った。どちらも、小さな話だった。だが、それまでの彼の映画から大きく踏み出す作品だった。もちろん前者は誰もが納得の傑作だ。だが、後者はとても癖のある作品で観客を選ぶ。だが、彼はそこで観客におもねらない。同じように自分が信じる映画を作る。それが観客に届かなくてもかまわない。それは独りよがりのわがままではない。信念を曲げないことだ。

そして、今回の大作である。やはり、石井裕也は変わらなかった。これだけのバジェットのお正月映画なのに、とても地味な作品に仕上がった。当時のバンクーバーの町を再現した巨大なセットを建造し、そこでじっくり腰を据えた撮影に挑み、一切妥協しない。怖いことだ。でも、監督である彼がそこで腰が引けたなら、すべてが終わる。「天皇」になれ、というのではない。「映画監督」になれ、と言われているのだ。だから、受けて立つ。

感動の押し売りなんかしない。ただ、淡々と異国で生きた日本人たちのドラマを見せる。彼らがそこにいて、生活した。迫害や差別に遭い、でも、歯を食いしばり生きた。野球だけが喜びだった。でも、それすら彼らの生活を圧迫する。野球なんかしている余裕はない、という気持ちもある。だが、果たしてそうか。どんなに過酷でも、喜びのない毎日には意味がない。みんなで野球をする。みんなが自分たちの野球を見てくれる。そして、楽しんでくれる。だから、生きていける。

そんな気持ちを丁寧に描く映画だ。2時間12分の長さは、クライマックスにむけて流れるドラマではない。日本人野球チーム「バンクーバー朝日」の優勝は、クライマックスではない。彼らの毎日の積み重ねこそがこの映画の感動だ。それは『舟を編む』と変わらない。あの映画の感動は、「辞書の完成」ではなかったはずだ。

この膨大な映画を手作りする過程こそが大事だった。作り手の苦しみや喜びがスクリーンの端々からちゃんと伝わってくる。さりげないシーンのひとつひとつがどれだけの労力をもって作られてあるか。もちろん、観客にとっては、そんな製作事情が透けて見えるようなことは必要ないかもしれない。だが、この映画のリアリティはこの映画の登場人物の物語のシンクロするのだ。だから、そこも無視できない。もちろん、気にしなくていいし、気にならないだけの完成度だ。

必ずしも、努力は報われる、わけではない。戦争が始まり、彼らがこの地で築いたものはすべて失われる。収容所に押し込められて、バンクーバーのこの日本人町は消滅する。彼らが必死に生きた歴史を描くこの映画の放つ一瞬の光を目撃することに意味がある。消えてしまったものは、なかったものではない。そこに生きたささやかなひとつひとつの彼らの小さなドラマの輝きがこの映画には刻みつけられている。それこそが石井裕也監督が望んだものだ。


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