『話すのなら、今ここにないもののことを話たかった。今ここにないものの話ばかりをしようと思った』を改作・改題した。開場して劇場に入ると、すでに舞台には役者がいる。(青年団の芝居みたい)ごそごそと何かしている。鞄を置いて、舞台上に箱馬を運んできて並べたり、缶コーヒーを並べたり、出たり入ったりしている。開場と同時にすでに芝居は始まっている塩梅だ。もちろんたいしたことをしているわけではないから、見ないでもいい。上演開始まで、観客はいつも通りおしゃべりをしたり、チラシの束をチェックしたり、まどろんでいていい。だが、最後まで見たとき、この芝居は上演開始の30分前から始まっていたと気づく。アナウンスが入り、芝居は始まるのだが、そのアナウンスを舞台上の男は不思議そうに聞く。そして、明かりが消えて、主人公が舞台中央に現れ、彼の独白から芝居は始まる。だが、すぐにその芝居は止められる。先の男が止めたのだ。彼の台詞を聞いて、不思議がる。それは自分が演じるはずだった役の台詞だ、と。台本が大幅に書き換えられて、その役は消えてしまった。でも、その人物はそこに残る。ここにいる自分は何者なのだ、と。どこにももう存在するはずのない彼がこの舞台上にいる。そんな彼は、彼を演じるはずだった男と対面する。(なんだかややこしい!)そんなやりとりを観客である僕たちは見る。これはふたり芝居だ。軽妙な二人の掛け合いで、45分の芝居はあっという間に終わる。
だが、同時に終演後、この芝居はまだ始まってもいない、ということにも気づく。僕たちは芝居を見に来たのに、芝居を見ることなく劇場を後にすることになる。いや、芝居はもう終わったのに、誰も席を立てない。やがて「芝居は終わりましたよ」というアナウンスに促されてようやく拍手をして、席を立つ。
芝居のラストは、ヒーローと呼ばれるはずだった男(三田村啓示)が舞台から降りて、劇場の出口を開き、最初に去っていくシーンだ。なかなか感動的だ。だが、終わらない。その後がまだある。残されたもうひとりの男(七井悠)が舞台上にたたずむところに、劇団の面々が小屋入りしてくる声が聞こえる、ところで暗転。鮮やかな幕切れ。ここからこの芝居の準備が始まるのだ。
この芝居において観客は、安心して舞台上で演じられる芝居を見守る、という当然の立ち位置を用意されない。常に不安にさらされる。自分たちは今何を見ているのだろうか、と。舞台上で演じられる芝居は芝居になる以前のできごとで、舞台にはまだ何もない。これから仕込みが始まるところだ。その準備のためひとりの役者がメンバーに先駆けここに来ている。そんな彼のところにこの芝居の主人公になるはずだった男がやってくる。だが、作者によって台本が書き換えられ、彼はこの芝居には登場しないことになった。ヒーローと呼ばれるこの男を演じる予定だったのが冒頭から板付きで登場している男だ。この芝居は、台本の中に存在したはずの男と、そんな彼を演じるはずだった役者の対話である。
僕たちは何を見たのか、キツネにつままれた気分だ。この不思議な感触に酔う。舞台上で演じられたはずの芝居はまるで幻だ。見終えたのに、まだ何も見ていない気分だ。でも確かな満足が残る。