先にNHKで放送された90分のヴァージョンを見ている。あの時は困った。これは一体何事だろうか、と不安にさせられる。この映画が何を意図したものなのかがよくはわからなかったからだ。8年ぶりのイ・チャンドンの新作だから、とても期待していたし、原作が村上春樹の『納屋を焼く』なのだ、どんな作品になるのか、想像もつかない。それだけに、唖然とした。僕にはこの映画(TVドラマ、というべきなのか)が何がしたかったのか、よくわからなかった。
その後この完全版が劇場公開され、きっとこれを見たなら納得がいくのだろうと、安心した。だが、ようやく見ることができた2時間30分(1時間も長い)を目撃して、なんと前回と同じように呆然とすることになった。わけがわからない。この映画が何を言いたいのか明確にならない。
すべてが曖昧なまま、何の方向性も提示されないまま、映画は茫漠とした想いを残して終わる。3人のそれぞれの立ち位置が提示するものは、わかる。でも、その先は見えない。この映画が指し示す未来が見えない。だけど、その見えない未来こそがこの映画の答えではないか。わけのわからない鬱屈がこの映画には詰まっている。失踪したままの恋人。彼女を殺したのではないか、と疑う。ラストはその鬱屈からの解放か。指し示す答えがそこなのか、と言われると、それもはぐらかされた気がする。ただこの映画が描く不安は大概なもので、それがこの映画の意図だったのか、と思うことにした。
映画の中盤、3人がマジックアワーを見るシーンがこの映画のラストだと思う。その後は蛇足だ。でも、その蛇足がこの映画のポイントだ。幸福な時間の後の人生。3人の抱えるそれぞれの物語は明確にされない。提示されたお話の断片から想像するしかない。しかし、それもまた実に曖昧なままだ。そこにある不安な気持ちこそがこの映画の見せたかったものなのかもしれない。つかみどころのない不思議な映画だ。