1855年3月、薩摩藩主島津斉彬は帰国の準備を始めた昨年末に安政の大地震が発災したので帰国を遅らせていました。斉彬は国元で既に「洋式帆船 軍艦 昇平丸」が昨年12月に竣工したことを承知していました。
島津斉彬は江戸城本丸御殿の御用部屋の安部正弘と徳川斉昭そして松平春嶽を訪ねました。斉彬は「長崎海軍伝習所」開所に協力し薩摩藩士を伝習生として入所させることを約束しました。さらに斉彬は「昇平丸」を幕府に寄贈すると三人に伝えました。
「な…何と!」
三人は声を上げた。それは一橋慶喜次期将軍擁立派閥「一ツ橋派」おいて島津斉彬の幕政に対する影響力が増すからです。これは政敵である南紀派の井伊直弼に対してけん制になります。
斉彬は秋ごろに「昇平丸」と共に江戸に戻って来ると安部正弘と徳川斉昭そして松平春嶽に約束しました。そして斉彬は京に立ち寄り有力公家に会い一橋慶喜を次期将軍擁立を直接はたらきかけると徳川斉昭に約束しました。
安部正弘としては何としてでも「長崎海軍伝習所」と「講武所」そして「蛮書調所(洋学所)」の近代化三点セットとして開設させ幕政近代化改革を成し遂げたいと熱望していました。しかし安部正弘の顔色が悪く疲れ気味な様子だった。それを見た斉彬は安部に対して養生するようにと気遣いました。
斉彬は一ツ橋邸に立ち寄り直子と慶喜に会い帰国の挨拶しました。そして薩摩藩邸の戻り敬子に将軍家定と早く結婚できる様に左大臣近衛 忠煕にはたらきかけると約束しました。1855年3月初め島津斉彬は家臣を従え西郷吉之助も同行し一路京を目指し帰国の途につきました。
斉彬の近代国家構想である「近代科学を学びかつ産業を興しそして日本の軍政を近代化改革を行い西洋列強諸国と同等の国力を持たなければならない。」斉彬は幕藩体制を保ち有力大名による合議制を構想していて幕政の近代化改革を実行段階へと移行させました。
そして斉彬と入れ替わる様に土佐藩主山内容堂が江戸出府の準備を始めていました。
「江戸へ行くき!」
山内容堂コラム初登場!プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!(11)はこちら
『1855年3月初旬、萩城下の堀内東側菊屋横丁(きくやよこちょう)中士階級屋敷町に高杉小忠太の自宅(現萩市南方河町)があります。高杉家は戦国時代から毛利家に代々仕えて来た家臣です。小忠太の息子の高杉 晋作(たかすぎ しんさく)16歳はこの頃藩校の明倫館(現萩市江向) に入学して二年目でした。長州藩の官僚を将来約束された若きエリートの晋作。
明倫館での晋作は剣術が得意だったがあまり強く無くそれに学問が不得意でした。晋作が唯一得意だったのが文学や詩でした。晋作は詩と剣術の日々を送っていました。』①
だがお坊ちゃまの晋作は悩んでいました。
「おもしろくない…」と…
この頃、明倫館に通学する上士階級のお坊ちゃま達の間に吉田寅二郎の噂が流れ始めました。
『"脱藩浪人吉田寅二郎が国法を犯し野山獄に投獄された"吉田寅二郎は藩に対して不忠者でありまたご公儀(幕府)に対しての不忠者ではないのか!?その大罪人吉田寅二郎を処刑に反対したのが高杉小忠太殿らしいぃ!?』①
という噂である。
晋作は上士階級のお坊ちゃま達にその事を責められていたのです。上士階級のお坊ちゃま達の親達はみんな佐幕派なのです。
晋作はたまらずその事を祖父高杉春豊(たかすぎはるとよ)打ち明けました。
すると祖父は『お前は明倫館で学問すればいい!』
と祖父に誤魔化され晋作はちゃんと答えをもらえなかったのです。
「おもしろくない…」と…
晋作はその事を直接江戸に出府している父へ手紙で答えを求めました。
ところが父からの返事は…
『お前は明倫館で学問すればいい!』
いよいよ晋作は
「おもしろくない…」と…
『父も祖父もちゃんと答えてもらえない不満が若き晋作を悩ませまた。ある日、明倫館を通学するのをさぼり橋本川の土手で寝ていた晋作。そこへ久坂 義助(よしすけ 後に玄瑞 げんずい)が土手を歩いて来たのが見えた。晋作と久坂とは幼い時より同じ私塾に通っていた竹馬の友でした。』①
『いい身分ですね』と久坂は晋作に皮肉を言った。
久坂は晋作より一歳年下、藩医の息子で武士階級ではありませんでした。
『知っていますか高杉さん?イギリスやアメリカ合衆国という国には村々に療養所や病院があることを?』
『…』
『 そんな先進的な国に勝つためにはどうすればいいのです? 』
『…』
『だから私は西洋学を学び ”国家構想 ”を考えるのです!』
『…』
『久坂は晋作にそう言うと黙ってその場を立ち去った。久坂の”気”に触発されたのか晋作は立ち上がり明倫館へ急ぐのでした。この頃、長州藩内で政変が起きていました改革派の周布 政之助が失脚し佐幕派の保守勢力が政権を握ったのです。長州藩の政変に好むと好まざるとも巻き込まれている晋作。武家ではないが久坂はこの長州藩政変に敏感に察知していました。二人はやがで吉田寅二郎と出会うことになります。』①
『』① 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(2)より 要約
つづく
お日様とお月様の光と影
~東アジア近代化クロニクル(年代記)~
第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
第一章 西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(11)
≪参考文献≫
知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書
幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
歴史読本 徳川慶喜をめぐる女たち 1998年10号 新人物往来社
1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝 前半 より
2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より
文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より
突っ込みどころ満載!
筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
島津斉彬は江戸城本丸御殿の御用部屋の安部正弘と徳川斉昭そして松平春嶽を訪ねました。斉彬は「長崎海軍伝習所」開所に協力し薩摩藩士を伝習生として入所させることを約束しました。さらに斉彬は「昇平丸」を幕府に寄贈すると三人に伝えました。
「な…何と!」
三人は声を上げた。それは一橋慶喜次期将軍擁立派閥「一ツ橋派」おいて島津斉彬の幕政に対する影響力が増すからです。これは政敵である南紀派の井伊直弼に対してけん制になります。
斉彬は秋ごろに「昇平丸」と共に江戸に戻って来ると安部正弘と徳川斉昭そして松平春嶽に約束しました。そして斉彬は京に立ち寄り有力公家に会い一橋慶喜を次期将軍擁立を直接はたらきかけると徳川斉昭に約束しました。
安部正弘としては何としてでも「長崎海軍伝習所」と「講武所」そして「蛮書調所(洋学所)」の近代化三点セットとして開設させ幕政近代化改革を成し遂げたいと熱望していました。しかし安部正弘の顔色が悪く疲れ気味な様子だった。それを見た斉彬は安部に対して養生するようにと気遣いました。
斉彬は一ツ橋邸に立ち寄り直子と慶喜に会い帰国の挨拶しました。そして薩摩藩邸の戻り敬子に将軍家定と早く結婚できる様に左大臣近衛 忠煕にはたらきかけると約束しました。1855年3月初め島津斉彬は家臣を従え西郷吉之助も同行し一路京を目指し帰国の途につきました。
斉彬の近代国家構想である「近代科学を学びかつ産業を興しそして日本の軍政を近代化改革を行い西洋列強諸国と同等の国力を持たなければならない。」斉彬は幕藩体制を保ち有力大名による合議制を構想していて幕政の近代化改革を実行段階へと移行させました。
そして斉彬と入れ替わる様に土佐藩主山内容堂が江戸出府の準備を始めていました。
「江戸へ行くき!」
山内容堂コラム初登場!プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!(11)はこちら
『1855年3月初旬、萩城下の堀内東側菊屋横丁(きくやよこちょう)中士階級屋敷町に高杉小忠太の自宅(現萩市南方河町)があります。高杉家は戦国時代から毛利家に代々仕えて来た家臣です。小忠太の息子の高杉 晋作(たかすぎ しんさく)16歳はこの頃藩校の明倫館(現萩市江向) に入学して二年目でした。長州藩の官僚を将来約束された若きエリートの晋作。
明倫館での晋作は剣術が得意だったがあまり強く無くそれに学問が不得意でした。晋作が唯一得意だったのが文学や詩でした。晋作は詩と剣術の日々を送っていました。』①
だがお坊ちゃまの晋作は悩んでいました。
「おもしろくない…」と…
この頃、明倫館に通学する上士階級のお坊ちゃま達の間に吉田寅二郎の噂が流れ始めました。
『"脱藩浪人吉田寅二郎が国法を犯し野山獄に投獄された"吉田寅二郎は藩に対して不忠者でありまたご公儀(幕府)に対しての不忠者ではないのか!?その大罪人吉田寅二郎を処刑に反対したのが高杉小忠太殿らしいぃ!?』①
という噂である。
晋作は上士階級のお坊ちゃま達にその事を責められていたのです。上士階級のお坊ちゃま達の親達はみんな佐幕派なのです。
晋作はたまらずその事を祖父高杉春豊(たかすぎはるとよ)打ち明けました。
すると祖父は『お前は明倫館で学問すればいい!』
と祖父に誤魔化され晋作はちゃんと答えをもらえなかったのです。
「おもしろくない…」と…
晋作はその事を直接江戸に出府している父へ手紙で答えを求めました。
ところが父からの返事は…
『お前は明倫館で学問すればいい!』
いよいよ晋作は
「おもしろくない…」と…
『父も祖父もちゃんと答えてもらえない不満が若き晋作を悩ませまた。ある日、明倫館を通学するのをさぼり橋本川の土手で寝ていた晋作。そこへ久坂 義助(よしすけ 後に玄瑞 げんずい)が土手を歩いて来たのが見えた。晋作と久坂とは幼い時より同じ私塾に通っていた竹馬の友でした。』①
『いい身分ですね』と久坂は晋作に皮肉を言った。
久坂は晋作より一歳年下、藩医の息子で武士階級ではありませんでした。
『知っていますか高杉さん?イギリスやアメリカ合衆国という国には村々に療養所や病院があることを?』
『…』
『 そんな先進的な国に勝つためにはどうすればいいのです? 』
『…』
『だから私は西洋学を学び ”国家構想 ”を考えるのです!』
『…』
『久坂は晋作にそう言うと黙ってその場を立ち去った。久坂の”気”に触発されたのか晋作は立ち上がり明倫館へ急ぐのでした。この頃、長州藩内で政変が起きていました改革派の周布 政之助が失脚し佐幕派の保守勢力が政権を握ったのです。長州藩の政変に好むと好まざるとも巻き込まれている晋作。武家ではないが久坂はこの長州藩政変に敏感に察知していました。二人はやがで吉田寅二郎と出会うことになります。』①
『』① 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(2)より 要約
つづく
お日様とお月様の光と影
~東アジア近代化クロニクル(年代記)~
第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!
第一章 西洋列強諸国との外交攻防と内政攻防 (1)~(11)
≪参考文献≫
知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
オールコックの江戸 初代英国公使が見た幕末日本 中公新書
幕末バトルロワイヤル 井伊直弼の首 新潮新書 より
歴史読本 徳川慶喜をめぐる女たち 1998年10号 新人物往来社
1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 より
1998年放送 NHK大河ドラマストーリー 徳川慶喜 前半 より
2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝 前半 より
2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半 より
文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)より
新潮文庫 司馬遼太郎著 花神 (上) より
文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より
文春文庫 司馬遼太郎著 最後の将軍 より
突っ込みどころ満載!
筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。