アジア・オセアニアNews blog ~お日様とお月様の光と影~

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19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した(11)

2013年08月24日 | お日様とお月様の光と影
 16世紀戦国時代四国土佐(現高知県)を支配した長宗我部氏(ちょうそかべ)は関ヶ原の合戦の時に西軍に加勢し敗走しました。徳川家康は容赦無く長宗我部氏の領地土佐を没収し長宗我部氏は改易となりました。そして家康は豊臣家臣の外様大名である山内一豊 (やまうちかづとよ)に土佐を与えました。山内一豊は武勇だった!とか武功があった!とか…無い人物でただ律儀な人でした。山内一豊は西軍が挙兵した時に家康に対して二番目に加勢することを宣言しました。二番目に加勢を宣言する所が一豊の控え目で律儀な性格がうかがえますよね。

 土佐20万石を家康から与えらた山之内一豊は国入りしました。がしかし長宗我部氏家臣の豪族は新領主山内氏に反発し土佐国内で多くの内戦が起きました。そこで一豊は旧領地から連れて来た家臣団を「上士」とし長宗我部氏の家臣を「下士」とし徹底した差別待遇政策を行いました。この土佐藩の身分制度は19世紀幕末まで250年間も続きました。

 19世紀1827年、山内の分家である山内南家に豊信(とよのぶ)が生まれました。分家で身分が低かった豊信は高知城下(現高知市)で育ちました。さて彼は常に瓢箪を持っていました。その瓢箪には栓が付いていてお酒が一升ほど入る大きさで彼は常に水の代わりの様に酒を呑んでいまた。また豊信は詩を書く程のインテリで酒を呑み詩を構成を考える日々を送っていました。豊信は分家の身分なので動乱が起きない限り自分が表世界に出ていくことはほぼないと思っていました。

 ところがその動乱が起きたのです!13代藩主山内豊熈(とよてる)その弟で14代藩主山内豊惇(とよあつ)が次々と病気で亡くなったのです。そこで分家の豊信が藩主候補になったのです。豊信は江戸に下り江戸城に出府しました。幕閣阿部正弘の推薦もあり1848年12月27日幕府から許可を得て豊信が15代土佐藩主に就任しました。世捨て人から一転藩主になった豊信はまさに「瓢箪から駒」です。この時豊信には幕府と徳川家に対する忠誠が深く心に刻み込まれたのです。

 土佐藩主と就任した豊信は名を容堂(ようどう)と名乗りました。やはり容堂は藩主になっても「動乱」を望んでいました。容堂はどの大名よりも幕府と徳川家に対する忠誠心を見せたいと熱望していたのです。 

 しかし今度は本当に動乱が起きたのです!

 ペリー艦隊の浦賀来航です容堂は徳川斉昭の「尊王攘夷論」を支持しました。また容堂は幕府に送った意見書には「アメリカの国交を拒否せよ!」と書きさらに「拒否すればアヘン戦争で清がイギリスに敗れた様に容赦なくアメリカと戦争となる。今は西洋式軍備を整うべき!」と書き送ったのです。
容堂は直ちに沿岸部の大砲台場建設・近代兵器による軍政改革や藩士の長崎留学などの藩政改革を行いました。また容堂は藩政改革に藩主代理の参政に吉田東洋(よしだとうよう)を採用し藩政改革を推し進めていきました。
 
 容堂の手には瓢箪がありグイっと酒を呑み東洋にこう言いました。

 「異国の奴らこの土佐の海を素通りしたぜよ!
ええか今度は奴らの黒船を撃つがじゃ!」



 容堂は土佐藩独自で異国船打払令を出しました。そして1853年年末、東シナ海を航行する九隻の艦隊が日本を目指していました。
ペリー提督が率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊だった。


つづく
 
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候 より要約



お日様とお月様の光と影~東アジア近代化クロニクル(年代記)~ 
 
 第一部 19世紀清と李氏朝鮮そして江戸幕府は国家の近代化に失敗した
  プロローグ ペリー来航と黒船カルチャーショック!(1)~(11)

 参考文献 
 知れば知るほど徳川十五代 実業之日本社より
 江戸300藩最後の藩主~うちの殿様は何をした?光文社文庫

 1990年放送 NHK大河ドラマストーリー 翔が如く 前半 
 2010年放送 NHK大河ドラマストーリー 龍馬伝  前半 
 2013年放送 NHK大河ドラマストーリー 八重の桜 前半

 文春文庫 司馬遼太郎著 世に棲む日日(1)~(2)
 文春文庫 司馬遼太郎著 酔って候


 筆者は司馬遼太郎の作品とNHK大河ドラマにかなりの影響を受けているようです。
また筆者はこのコラムの様なNHK大河ドラマを観たいそうです。
 
 


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