畠中恵 著
「しゃばけ」シリーズ
初めて手に取ったのは図書館で借りたものだった。
理由は何だったか忘れたけど、どうにも頁をめくる手が進まずロクに読まずに返した。
しばらく経って、テレビで実写化された映画版を観た。
(多分、妖怪好きの次男坊にせがまれて録画したんだったと思う。)
で、見事に登場人物のイメージが固定されてしまった。
それからまたずいぶん経った先日、友達がシリーズを貸してくれたので読んだ。
ここのところ目の調子が悪いので文字を追うのは辛いけど、面白いから読み出したら止まらない。(色々立て込んで来ていて、それから逃避したい気持ちが本への没頭にも繋がってるのも否定できない。)
改めて読んでみると、映画版はちょっとイメージが違う。
原作者がどう思ってるか分からないけど、私には微妙だなってとこがある。
それでも読んでる頭の中では映画版のキャラクターで動くし喋る。(笑)
映画版を喜んで観ていた次男坊は本には入り込めなかった。
多分、時代劇の要素がすんなりとは読めなかったんだろうと思う。
見たり聞いたりする分には大丈夫でも一つ一つ言葉で表されても想像が追いつかないから面白いと思うとこまで行かないんだろう。
その点、映像なり漫画なりは便利だと思う。
あとは時代劇的会話のテンポで読めるかどうかもあるかな?
で、私はシリーズ第四弾まで読み進んだんだけど、この刊の一話目はなんとも哀しいくも考えちゃったお話でした。
話の軸になる妖怪は“孤者異”。
名前からしてなんとも哀しいです。
“妖であるから、孤者異は平素、人とはまじわらない。だが、己と同じ妖にも受け入れられない。孤者異は孤者異として生まれた初めから、その存在そのものが、他の者からはじき出されていたのだ。”とはやっぱり哀しい。
「孤者異と言う妖は、妄念と執着の塊なんですよ。元々そういうものなんです。孤者異のことは御仏でさえ、呆れて嫌うと言われています。」とメインキャラクターの一人の仁吉。
「恐ろしい思いをしたときなど、怖い、と言ったりするでしょう?それはあの孤者異から出た言葉だと聞いたことがあります」
「そう…孤者異は大層可哀相な生まれということになりましょう。人の目から見たらなおさらに」
関わると不幸の三つや四つが降ってくるのは当たり前。さらには関わった者の周りにも災難が及ぶというとんでもない妖怪。
「孤者異も、長く長く不幸と共にいすぎたのかもしれません。とにかく何とか救って欲しいと思うから、死にものぐるいで相手にすがりついてしまう。水練の出来ない者が川で舟から落ちると、助けに飛び込んだ船頭にしがみついて、二人とも泳げなくなり溺れることがあると言います。似ているのかもしれませんね」と仁吉。
孤者異によって巻き起こるエピソードが落ち着いた後のラスト。
主人公の若だんなが何とか孤者異を救おうと招き入れるのに、他の妖達と仲良くなるために耳に痛い事を言われても初めは辛抱するように言い含めるのに、孤者異は「なんで皆、おいらに優しくしてくれないんだ!我慢なんて嫌なこった。酷いよ。」と怒りをぶつける。
若だんなは善の塊みたいな人なので、そんな悪態をつかれても捻くれ妖怪を気遣うけれど、普通、怒るよね。
自分には落ち度は何も無い!の一点張りは。
誤解があったとしても「それ誤解です」って言われたって「ああそうですか」とはなかなかいくもんじゃないし。
孤者異の起こした騒動が人間の欲や弱さをついたのが原因だとしても、それを誤解として説明してみせる事すら拒絶されたら事は好転しませんて。
たまにうちの次男坊が、孤者異のように聞く耳を持てなくなるのに手を焼きます。
絶対引かない妖怪と違ってコロッと「あ、そうなん?ゴメン、ゴメン!」って事もありますが、それはそれで「なんだコイツ、調子よすぎだろ!」と反感を買う事だってあります。
ムカついてもなんとか一旦停止して、物の道理を確かめて、余計な摩擦を起こさないで済むようになって欲しいです。
誤解が誤解を読んで二次障害の被害妄想にとりつかれてしまう発達障害者は少なくないんじゃないかと思います。(ひょっとしたら、昔昔のそんな人が根本にある認識や常識のズレが理解されずに妖怪“コワイ”として認定されたのかも!?)
多勢に無勢とも長い物には巻かれろとも違うんだけど、そこでも譲らず「なんだい!皆して!」じゃ、そりゃつまはじきにされますって。
人と違う事が何が何でも悪いというわけではないけど、そこは単純に嫌がられるんだと割り切って自分を変える必要も出てくるんですよね。
誰か一人だけ我慢すれば良いってのも違いますし。
何を基準にするかが難しいところもあります。
何はともあれ、先ずは冷静に。しかないですかね。
「しゃばけ」シリーズ
初めて手に取ったのは図書館で借りたものだった。
理由は何だったか忘れたけど、どうにも頁をめくる手が進まずロクに読まずに返した。
しばらく経って、テレビで実写化された映画版を観た。
(多分、妖怪好きの次男坊にせがまれて録画したんだったと思う。)
で、見事に登場人物のイメージが固定されてしまった。
それからまたずいぶん経った先日、友達がシリーズを貸してくれたので読んだ。
ここのところ目の調子が悪いので文字を追うのは辛いけど、面白いから読み出したら止まらない。(色々立て込んで来ていて、それから逃避したい気持ちが本への没頭にも繋がってるのも否定できない。)
改めて読んでみると、映画版はちょっとイメージが違う。
原作者がどう思ってるか分からないけど、私には微妙だなってとこがある。
それでも読んでる頭の中では映画版のキャラクターで動くし喋る。(笑)
映画版を喜んで観ていた次男坊は本には入り込めなかった。
多分、時代劇の要素がすんなりとは読めなかったんだろうと思う。
見たり聞いたりする分には大丈夫でも一つ一つ言葉で表されても想像が追いつかないから面白いと思うとこまで行かないんだろう。
その点、映像なり漫画なりは便利だと思う。
あとは時代劇的会話のテンポで読めるかどうかもあるかな?
で、私はシリーズ第四弾まで読み進んだんだけど、この刊の一話目はなんとも哀しいくも考えちゃったお話でした。
話の軸になる妖怪は“孤者異”。
名前からしてなんとも哀しいです。
“妖であるから、孤者異は平素、人とはまじわらない。だが、己と同じ妖にも受け入れられない。孤者異は孤者異として生まれた初めから、その存在そのものが、他の者からはじき出されていたのだ。”とはやっぱり哀しい。
「孤者異と言う妖は、妄念と執着の塊なんですよ。元々そういうものなんです。孤者異のことは御仏でさえ、呆れて嫌うと言われています。」とメインキャラクターの一人の仁吉。
「恐ろしい思いをしたときなど、怖い、と言ったりするでしょう?それはあの孤者異から出た言葉だと聞いたことがあります」
「そう…孤者異は大層可哀相な生まれということになりましょう。人の目から見たらなおさらに」
関わると不幸の三つや四つが降ってくるのは当たり前。さらには関わった者の周りにも災難が及ぶというとんでもない妖怪。
「孤者異も、長く長く不幸と共にいすぎたのかもしれません。とにかく何とか救って欲しいと思うから、死にものぐるいで相手にすがりついてしまう。水練の出来ない者が川で舟から落ちると、助けに飛び込んだ船頭にしがみついて、二人とも泳げなくなり溺れることがあると言います。似ているのかもしれませんね」と仁吉。
孤者異によって巻き起こるエピソードが落ち着いた後のラスト。
主人公の若だんなが何とか孤者異を救おうと招き入れるのに、他の妖達と仲良くなるために耳に痛い事を言われても初めは辛抱するように言い含めるのに、孤者異は「なんで皆、おいらに優しくしてくれないんだ!我慢なんて嫌なこった。酷いよ。」と怒りをぶつける。
若だんなは善の塊みたいな人なので、そんな悪態をつかれても捻くれ妖怪を気遣うけれど、普通、怒るよね。
自分には落ち度は何も無い!の一点張りは。
誤解があったとしても「それ誤解です」って言われたって「ああそうですか」とはなかなかいくもんじゃないし。
孤者異の起こした騒動が人間の欲や弱さをついたのが原因だとしても、それを誤解として説明してみせる事すら拒絶されたら事は好転しませんて。
たまにうちの次男坊が、孤者異のように聞く耳を持てなくなるのに手を焼きます。
絶対引かない妖怪と違ってコロッと「あ、そうなん?ゴメン、ゴメン!」って事もありますが、それはそれで「なんだコイツ、調子よすぎだろ!」と反感を買う事だってあります。
ムカついてもなんとか一旦停止して、物の道理を確かめて、余計な摩擦を起こさないで済むようになって欲しいです。
誤解が誤解を読んで二次障害の被害妄想にとりつかれてしまう発達障害者は少なくないんじゃないかと思います。(ひょっとしたら、昔昔のそんな人が根本にある認識や常識のズレが理解されずに妖怪“コワイ”として認定されたのかも!?)
多勢に無勢とも長い物には巻かれろとも違うんだけど、そこでも譲らず「なんだい!皆して!」じゃ、そりゃつまはじきにされますって。
人と違う事が何が何でも悪いというわけではないけど、そこは単純に嫌がられるんだと割り切って自分を変える必要も出てくるんですよね。
誰か一人だけ我慢すれば良いってのも違いますし。
何を基準にするかが難しいところもあります。
何はともあれ、先ずは冷静に。しかないですかね。