今日の午後、蝉の大合唱を聞き、暑さを縫ってベルギーの
ゲント美術館名品展 The Collection of the Museum of Fine Arts, Ghent に世田谷美術館まで出かけた。今日はこじんまりしたところに行って、芸術を味わいながら暑さを忘れようという魂胆であった。
砧公園の中を緑と空の青と雲を楽しみながらゆっくりと歩く。美術館に着くとその庭には何げなくいくつかの彫刻が置かれている。なかなかいいところにあるな、というのが第一印象であった。外の彫刻を写真に収めた後、気持ちよく中に入る(最近
エアコンなしで生活しているためか、冷房が異常に効いていることにまず驚く)。
中に入ると、人が少ない。一月前にパリで行った美術館にいるような錯覚に陥る。有名な画家の作品は非常に少ない。私の知っている画家はカミーユ・コロー Camille Corot (「シェーズマリーの石切り場、フォンテーヌブロー」)、ギュスターヴ・クールベ Gustave Courbet (「ルー側の岩壁」)、ポール・デルボー Paul Delvaux (「階段」)、ルネ・マグリット René Magritte (「パースペクティブII:マネのバルコニー」)、アンリ・マルタン Henri Martin (「谷あいの黄昏」)、ジェームズ・アンソール James Ensor (作品多数)くらいである。他の画家の背景は全く白紙なので、絵の雰囲気を味わうだけであった。
気になった絵もいくつかあった。例えば、
ピーテル=フランス・デ・ノーテル「冬のゲント風景」(1838): 凍ってしまった川の上で人々がさまざまな動きをしている。中にはスケートをしようとする人までいる。当時の生活が蘇る。
フランソワ・ジャン・ピエール・ラモリニエール「マルシュ=レ=ダムの山岳風景」(1853): 空の青が目に入ってきた。
イッポリート・ブーランジェ「嵐のあと」(19870-71): 空の雲が印象的な絵。これはカタログでは味わえない。
レオン・フレデリック「告別の食事」(1886): 緊張感溢れる瞬間をとらえた絵で、その場の雰囲気が伝わってくる。
グスターヴ・デン・ダイツ「冬景色」: 夕暮れの雪景色であるが、手前が異常なくらい明るくなっている。昔経験したことのある風景で懐かしさが募る。
アンナ・ド・ウェールト「6月の私のアトリエ」(1910)、「8月の朝」(1915-15): いずれも田舎の緑溢れる景色が淡い色で描かれている。前者には花が前面に、後者では麦の束が配置され、空の雲が夏らしさを存分に出している。
レオン・デ・スメット「室内」(1911): この絵が今回の展覧会のテーマになっているようだ。天井の高い室内のソファでは男女が抱き合っている。壁には数枚の絵がかけられ、マントルピースの上には彫刻と皿が、またクロスのかかったテーブルの上には花瓶とティーセットが置かれている。やや点描風にこれらが描かれている、それだけの絵である。どういう物語があるのか、という想像力を掻き立てるのだろうか。
アルフレッド・ステヴァンス「マグダラのマリア」(1887): 表情と全体の雰囲気が現代的な女性と髑髏。どこかで見たことがあると思わせる女性だ。
グスターヴ・ヴァン・デ・ウーステイネ「フーガ」(1925): 男の目が印象的。
-----------------------------------
全体で130点近くの展示をメモを取りながら気持ちよく見ていたその時であった。係員の女性が近寄ってきて、ボールペンは禁止されていますという言葉で、すべてが白けてしまった。先月一ヶ月ほどパリ、ロンドンの美術館を訪れたが、このような注意を受けたことは一度もなかったし、日本でも初めてである。
受付でその理由を聞いてみた。要するに込み合っている時などにメモを取っていると間違って絵を傷つけたり、インクが絵にかかったりすることがあるためという説明。少なくとも今日はホールの中央でメモを取っており、入館者も数えるだけ。このような状況でも、注意をしなければならないのだろうか。
状況は違うが、このような融通の利かない対応を経験したことが
熊谷守一美術館でもあった。ビジネスが前面に出ているな、という印象が拭えなかった
森美術館。基本的な姿勢として、お客に楽しんでもらおうという一番重要な気持ちが欠如しているようにまたまた感じてしまった。美術館が上の立場にいて、お客は管理しなければ何をやるかわからない存在として捉えているのだろうか。少ない経験ではあるが、美術館の姿勢が欧米とは根本的に違っているような印象が固定化されつつある。いずれにせよ後味の悪い美術館訪問となった。