フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

ブログの効用 (II) BLOG COMME UN APPREIL PHOTO

2005-08-17 08:01:54 | ブログの効用

この1週間ほど、フィリップ・フォレストの目から山端庸介の人生を見てきた。私のフランス語力ではなかなか辛い作業であった。しかし得るものも多かったように思う。

その一つ。現実に意味を持たせるには、見たと思っていたものを一度何らかの形に移し変えることが必要であるということ。山端の場合は、昼間自分の裸の眼で見たことを写真という形で見直すことによって初めてその意味を悟ったとフォレストは想像している。

この視点から自らを振り返ってみた。そうすると、ブログを書く過程で日常(およびその時の自分の中に起こった変化)を切り取っていること、しかもそれを書き留めるという作業とその結果のブログを読み直すことによって、現実だと思っていたことの意味を理解するということが無意識のうちに行われていることに気付いた。

これはまさに、ブログが山端にとってのカメラ(真実を写し取る « fixer la vérité » ための道具)と同じ役割を担っているのではないだろうか。そんな思いが過ぎった。

ブログの効用(I)
ブログの効用(III)
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山端庸介 - さりながら SARINAGARA - YOSUKE YAMAHATA (VI)

2005-08-16 07:43:46 | 写真(家)

1952年に占領軍による検閲が解かれると、山端の写真展が東京で開かれた。3年後にはその中の1点が « The Family of Man » と題してニューヨークの現代美術館 (MOMA: Musée d'Art moderne de New York) で展示された。ご飯の入った茶碗を持った子供の写真で、その周囲で起こっていたおぞましいことについては何も語るものではなかった。

原爆投下50周年には、山端の写真に写っている人を探し出す企てがなされた。もちろん、生存していた人は僅か。その中に、子供にお乳をやっている若い母親 (la jeune mère allaitant son enfant) として写っていた女性がいた。彼女にその写真を見せた時、子供がどのように死んだのか、衰弱して亡くなるまでに数日しかかからなかったことなどを語った。

彼女の心の中を、おそらく初めて見るその写真に接した時に心に去来したものを想像することは誰にもできないだろう。考えられないような長い時間を越えて、子供が再び目の前に現れた。生き返らすことのできない子供として。彼女は一つのことしか言えなかったであろう。あの子供はこの上もなく大切な存在で、何者もその死を正当化できないだろう、と。

山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (I)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (II)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (III)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (IV)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (V)

PHILIPPE FOREST - SARINAGARA - 小林一茶

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研究者の定年 (II) BREAKING THE AGE BARRIER

2005-08-15 21:50:57 | 科学、宗教+

今週来た科学雑誌 NATURE に、70-80歳台でもアクティブな研究者を紹介し、研究者の定年問題を取り上た記事が出ていた(Nature 436:772, 2005)。どちらかと言うと定年制については批判的な立場からの論評と受け取った。

日本の研究状況についても触れられている。京都大学からシンガポールの研究所に移った伊藤嘉明氏の 「63歳定年は残酷。それは生首を切るようなものである。」 というコメントを紹介している。ドイツでは定年になった教授が研究費の申請をして受理され、研究機関がスペースを提供することに同意すれば研究ができるようだ。日本より状況はややよいものの、理想的とは言いがたい。ケルン大学からハーバード大学に移った研究者は「定年前の数年は精神的に落ち込んでいた。同年代の同僚もどうするのか苦慮していて、他の研究者の研究室で働く場所を見つけようとしている人もいた。私の場合は、定年なしのアメリカに来てほっとしている。」と語っている。フランスの科学者ピエール・シャンボン氏は人を年齢で判断するのはほとんど意味がない。老化の過程は人さまざまである。社会にとって有用でアクティブな人間を追い払うべきではない、と言っている。

ヨーロッパや日本が研究者の定年制をすぐに改めるとは考えられない。しかし高齢者と言われる人を社会がどう扱っていくのかという問題は、一般の討論の対象になっている。研究者の定年もこの問題の一部であろう。研究者自身もこの問題について考えていかなければならないのではないだろうか。

研究者の定年(I)

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山端庸介 - さりながら SARINAGARA - YOSUKE YAMAHATA (V)

2005-08-14 20:31:37 | 写真(家)

山端の48回目の誕生日 (le 6 août 1965)、それは広島に原子爆弾が落ちてから20年目でもあったが、末期の十二指腸癌が見つかる。その一年後 (le 18 août 1966)に亡くなり、今多摩墓地に眠っている。その死に意味を持たせようとする考えもあるだろう。例えば、生き延びたという苦しみ、恥が密かに細胞を暴走させ、20年かけてゆっくりと組織を埋めていった。あるいは、彼の死は意図されたもの、彼が見たすべての犠牲者の苦しみに加わるために、悔恨の手段として、など。しかし死に正義はない、死は罪ある人もない人も選ばずに常に偶然に襲うのだ。

彼の最後の写真は初島でのバカンスで撮られた岩を砕く波、その泡の荘厳さを捉えたものだった。そこには歴史の記憶のない世界の素晴らしさだけが表現されていた。

彼の人生には重要な瞬間と行為があった。それは一人の人間の一生を正当化するに余りあるものである。その瞬間、彼の撮った写真を暗室で見てその映像の意味を理解し、それを残そうと決意した。終戦当時、彼の写真は朝日、毎日、東京、読売などの大新聞に取り上げられたが、それだけだった。アメリカの占領軍による歴史上類を見ないほどの徹底した検閲が始まると、原爆を想起させるすべてが禁止された。それは1952年に解除された後も現在に至るまで影響を残している。

この背後で、ABCC(Atomic Bomb Casualty Commission) は放射線の長期効果について生存者をモルモットのように扱い(traitant vivants comme des cobayes)、その死体を戦利品として独占していたのだ。誰がこのことを知っているだろうか。誰がそれを知ろうとしただろうか。


山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (I)
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おおたか静流 SIZZLE OHTAKA - CHANTS DE LA TERRE

2005-08-13 11:15:30 | MUSIQUE、JAZZ

先週の日曜日の夜、テレビ東京の音楽番組を見る。現世に生きる司会者の男女とは明らかに違う世界に生きているな、と感じた一瞬、その音楽家に興味をも持った。おそらく自分で内なる声を聞きながら音楽の世界を少しずつ創り上げてきたのではないかと思わせる何かがあった。そう感じた。

  おおたか静流 

早速CDを聞いてみた。実は、今も聞きながら書いている。

 REPEAT PERFORMANCE V - Furusato
 恋文

世界中の音楽を取り入れて歌を創っているようだ。地に足が着いているようにも感じる。自分の中から出ているということを感じながら歌っているからだろう。すがすがしい、さわやかさが流れてくるようで、暑さを忘れさせてくれる。

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山端庸介 - さりながら SARINAGARA - YOSUKE YAMAHATA (IV)

2005-08-12 22:57:36 | 写真(家)

なぜ現実の生より復元された生(la répresentation de la vie)に力があるのか? なぜ現実に意味を持たせるためには一度イメージを通らなければならないのか?

この問いに対して、哲学があらゆる答えを用意している。現実の表象としてのイメージはその現実が存在すると同時に存在しないということも意識させる。それがもう存在しないということを意識することによって、その現実が愛すべきものになる。われわれの生の真実に至るためには、そのイメージをもう一度見る必要がある。イメージは現実を失われたものとして突きつける。

それゆえ、イメージの深いところに悲愴な (pathétique) ものがついて回る。このことを山端は知らず、おそらく初めて自問しただろう。現実よりもより真実に近づける写真の持つ力の本質を。彼は次にように説明している。それは悲愴さに満ち溢れた中でその現実を一人で感じ取ることができ、そしてわれわれにもう一度見ることを強いる。カメラの目的は最初にこの目で見逃していたことを映像として切り出すことである。

彼はその目の前に現れるイメージの恥ずべき美しさ (la scandaleuse beauté) に捉えられた。イメージを不幸や時間が持つ悲愴の深みへと導く何かによって。

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彼は前世紀の最も残虐であった軍隊の一員として働いていた。写真家としての彼の能力が正当化し、熱狂させた残虐行為に巻き込まれながら。彼は全くの偶然からありえないことの証人 (le témoin de l'impossible)、しかも不適格な証人 (un témoin indigne) になった。彼にとって長崎は啓示を受けた場所ではないようだ。彼は生き、しかも二度生きたがために、狂気の淵に追いやられることはなかった。広島や長崎を思い浮かべるだけで呼び覚まされる耐え難い悪夢から逃れるために命を絶つ人ではなかった。

山端は平和運動のために動くこともなかった。平和運動のために彼の写真が使われる時は、常にためらいと極度の慎重さで対応した。平和が戻ってきて彼は二度目の幸福を味わっていたのだ。家族に囲まれ、仕事でも成功して。彼は天皇の正規の写真家でもあったのだ。戦争の悲惨さを描き、スペインの王室で仕事をしたゴヤ (1746-1828) を思い浮かべただろうか。それがまさに山端のやったことであった。


実物と模倣について

山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (I)
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オリヴィエ・アサイヤス OLIVIER ASSAYAS - AUTOBIOGRAPHIE

2005-08-11 23:58:34 | 映画・イメージ

今日も Le Point からの情報になった。

映画監督のオリヴィエ・アサイヤスが自伝を出したという記事。そこに目が行ったのは、今年1月、日仏学院で彼の映画 « Clean » を見たことがあったのと、その後のインタビューで垣間見た彼の誠実な人柄が印象に残っていたためだろう。

« Une adolescence dans l'après-Mai » (Ed. Cahiers du cinéma)

Guy Debord (1931-1994) という人に捧げた本。自ら命を絶った Debord の娘に向けて書かれた形式を取っているようだ。初めての人なので調べてみると、situationniste という言葉が出てくる。状況主義者。西側の消費社会と同時に東側の官僚主義を批判的にとらえていて、これが68年の5月革命(Mai 68)に中心的な役割を担っていたらしい。この本のタイトルもそのあたりをうまく表現している。

それほど長くなさそうなので、Guy Debord という人は何を考えていた人なのか、Assayas がなぜ彼に傾倒していったのか、いずれ読んでみたい。


アサイヤス自伝から (23 septembre 2005)
アサイヤス自伝(II) (24 septembre 2005)

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風車 - 美を壊す罪  L'EOLIENNE - UN CRIME ESTHETIQUE

2005-08-10 23:53:42 | 映画・イメージ

今週の Le Point のページをめくっていて、« un crime esthétique » という言葉が目に入った。

1991年にクリーンなエネルギー源として初めて風車が建ってから年々増加傾向にあり、2000年には71、今年の夏で440、2010年には7000に及ぶのではないかと予想している。この調子で増え続けたら、フランスの景観が大変なことになるという訴えを 「フランスの美と景観を守る会 (La Societé pour la protection des paysages et de l'esthétique de la France: SPPEF)」 の会長がしているという。

この写真の説明は以下のようになっている。

「風車はクリーンで再利用可能なエネルギーではあるが、景観を壊す罪を犯していることには変わりはない。」

Synonymes d'énergie propre et renouvelable, les éoliennes n'en demeurent pas moins un crime esthétique.

個人的にはこの写真の程度であれば、景色としてまだ容認可能である (acceptable) が、これでも許されないというのだろう。フランス人の景観への思い入れが感じられる。確かにこれがどんどん増えていくことになれば考えざるを得ないとは思うが、、。

風車の害はこれだけではないらしい。とにかく羽根の直径が優に 100mを越え、それが回るのである。日中の騒音に文句を言っている人が 60%、夜間の騒音については 30% という数字を出している地域もある。こんな表現をして地獄の苦しみを訴えている人も。

« Cela faisait un bruit infernal, ding ding ding toute la nuit. Et les pales, quand il y a du vent, wouf wouf wouf toute la journée. »

さらに、超低周波音 (l'émission d'infrasons)、鳥への害 (les oiseaux déchiquetés)などなど。各地で風車に戦争を仕掛けているようだ (La guerre contre les moulins à vent est presque devenue la routine.)。「怒りの風車連合? (La fédération Vent de colère)」の会長の言。

「われわれの運動は報いられ、2004年には 50% の風車計画が知事により拒絶されたり、裁判所によって中止に追い込まれたりした。今年はこれが 60% になることを願っている。」

« En 2004, notre action a payé: 50% des projets de parcs ont été soit refuseés par les préfets, soit cassés par les tribunaux administratifs. Cette année, nous comptons bien faire grimper la proportion à 60%. »

事の成り行きを見守りたい。


6 avril 2005

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山端庸介 - さりながら SARINAGARA - YOSUKE YAMAHATA (III)

2005-08-09 23:52:56 | 写真(家)

それから山端が撮った写真、例えば、すべてが破壊された中、唯一残った鳥居、防空壕から顔を出し微笑んでいるようにも見える少女、有名な2人の兄弟 (兄は生きているだろうが、弟は死にかかっている)などを撮った写真についてフォレストはコメントを加えている。

「彼はこの間何を考えていたのだろうか? 私は何も考えていなかったと言いたい。」

Il n'avait en vérité rien éprouvé: aucune pitié, aucune émotion, le froid fonctionnement de toutes ses capacités mentales, la plus stricte insensibilité devant le sort insoutenable....
Et c'est seulement plus tard que sont venues la souffrance et la honte.
(彼は実際のところ何らの同情も、感情も示さなかった。すべての感情面を冷静さで覆い、耐え難いことを前にしても最大限の無関心・無感覚をもって対応した。、、そしてそのことに苦しみ、恥を感じるようになるのはずっと後になってからであった。)

山端はその日の午後3時に長崎を発ち博多の師団に向かう。行きと同じ12時間をかけて。

証人とはどういうものだろうか? それはものを見て、もう一度見て、その視点を修正し、唯一の至上の真実を受け入れる人ではないのだろうか。

彼が暗室で写真を現像し、その映像が現れた時、彼はその現実を見たのだ。その意味を理解したのだ。生活・生命の実態よりその再現(représentation)の方がより衝撃的である、面と向かっては涙を流せないが肖像画にはそれができるのだ。

どうしてだろうか?


山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (I)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (II)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (IV)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (V)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (VI)

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山端庸介 - さりながら SARINAGARA - YOSUKE YAMAHATA (II)

2005-08-08 21:47:06 | 写真(家)

山端は、「新型爆弾」 « bombe d'un nouveau style » と言われた中身を知ることもなく、博多から長崎まで向かうが、麻痺状態(La désorganisation est totale. C'est dans un pays presque paralysé qu'il faut progresser.)で12時間を要す。長崎に降り立ち、町の様子を記してはいるが、その時彼の中にどのような思いが過ぎったのかについては何も語っていない。

原子爆弾は一瞬のうちに体も精神も無に帰する最も穏やかな死をもたらすものだ、という間違った考えが広まっている。広島でも長崎でもどれだけの人が一瞬に死んだと言うのだろうか。それ以上に、その後苦しみを引きずって死んだ人、今も苦しみ続けている人、さらにこれからもその重荷を背負っていかざるを得ない人がいるのである。いずれにしてもその統計を取ってどうなるというのだろうか (A quoi bon compter ?)。

La vérité n'est pas statistique : elle n'est jamais affaire de chiffres.
(真実は統計ではわからない。数の問題では決してない。)

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広島、長崎の多くの証人が語っている。

Les rivières gorgées de cadavres 死体で溢れた川
Le bitume et la pierre littéralement liquéfiés 文字通り溶けたアスファルトや石
La chair vaporisée 気化した肉
Les ombres fixées sur le mur 壁に残った影
Les corps carbonisés sur place その場で炭化した体
La pluie noire 黒い雨
Les décombres 瓦礫
Les brasiers 大火
Le monde déformé comme sous l'effet d'une imagination malade 狂った考えにとりつかれた時に見るような歪んだ世界

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1945年8月10日の夜明けから山端は長崎を歩く。山端の語ったことには欠落と矛盾が多く、彼がどのように感じていたのかを知ることは難しい。

Je crois que Yamahata, ce matin-là, se trouvait tout à fait perdu, comme dans un songe, et que, se levant, le jour ne fit pour lui que substituer un rêve à un autre. C'est dans ce songe qu'il avançait avec l'enfantine confiance qui fait ne s'étonner de rien.
(彼はその朝、夢の中のように完全に迷い、起きてもその日は夢から夢を渡り歩くようなものだったと思う。その夢の中で彼は何ものにも驚かされることのない幼児の持つ自信とともに進んだ。)


山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (I)
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山端庸介 - さりながら SARINAGARA - YOSUKE YAMAHATA (I)

2005-08-07 21:56:16 | 写真(家)

フィリップ・フォレスト PHILIPPE FOREST の 小説 SARINAGARA は、小林一茶(1763-1827)、夏目漱石(1867-1916)、山端庸介(1917-1966)をモチーフにした物語である。一茶については以前に読んでいた。この季節なので、爆撃された直後の長崎に入りその惨状を写真に収めた山端の人生から浮かび上がってくるものについて、フィリップ・フォレストの目から見てみたくなり、彼に関する章 « HISTOIRE DU PHOTOGRAPHE YOSUKE YAMAHATA » を読んでみた。

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「日本語ほど外国語を受け入れる言葉はない。」 Aucune langue autant que le japonais ne se montre accueillante aux mot étrangers. でこの章は始まる。外国語がカタカナで表現される中で、photographie は « vérité fixée » とでも言うべき写真 (真実を写す) と訳された。(先日のパリの出来事を思い出す。)

18歳の誕生日にLeicaを貰い、翌年大学を辞めて父親のところで働きながら写真家になる。それから日本海軍の従軍記者 journaliste embarqué としてアジアの戦場に出向く命を受け、1941年から44年までシンガポール、マレーシア、中国などで過ごす。この間に彼がどのようなことをしていたのか不明の点が多いという(relativement évasive)。日本軍の残虐行為 la barbarie を多数見ているはずで知らないはずはないのだが、写真には全く残っていないという。

Tout cela, Yosuke Yamahata l'a très vraisemblablement vu. Il n'est pas possible qu'il ne l'ait pas connu. Ses photpgraphies n'en montrent rien, pourtant.

1945年8月6日午前8時15分、人類最初の原子爆弾が広島に投下された。歴史の教科書が書き、人々が繰り返しているのであたかも本当のように思われている仮説がある。もし本土決戦になれば、日本の狂信的な防衛戦により原子爆弾以上の犠牲が出る、それを防ぐために原子爆弾が軍事的に必要であった、という考え。しかしそれは嘘。

On sait tout cela, et c'est un mensonge.

著者は、アメリカは正当な理由なしに(強いてあげればどうしても使いたかったという理由でのみ)原爆投下を認めた、そしてそれは史上最大の戦争犯罪として記録されるだろうと書いている。(21 juillet 2005)

Le président des Etats-Unis donne l'ordre de commettre ce qui restera sans doute comme le plus grand crime de guerre de l'Histoire.

広島に原爆が投下される前日、山端は博多の師団に向かっていた。トゥルーマンは二つ目の原爆投下を命令。8月9日、小倉に落とす予定だったが天候のいたずらで長崎に向かうも雲厚く計画を諦めようとした時に下が見えるようになった。博多にそのニュースが入った時、山端は長崎行きを命じられる。


山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (II)
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山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (IV)
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PHILIPPE FOREST - SARINAGARA - 小林一茶

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ゲント美術館名品展 MUSEE DE BEAUX ARTS, GAND

2005-08-06 23:59:48 | 展覧会

今日の午後、蝉の大合唱を聞き、暑さを縫ってベルギーのゲント美術館名品展 The Collection of the Museum of Fine Arts, Ghent に世田谷美術館まで出かけた。今日はこじんまりしたところに行って、芸術を味わいながら暑さを忘れようという魂胆であった。

砧公園の中を緑と空の青と雲を楽しみながらゆっくりと歩く。美術館に着くとその庭には何げなくいくつかの彫刻が置かれている。なかなかいいところにあるな、というのが第一印象であった。外の彫刻を写真に収めた後、気持ちよく中に入る(最近エアコンなしで生活しているためか、冷房が異常に効いていることにまず驚く)。

中に入ると、人が少ない。一月前にパリで行った美術館にいるような錯覚に陥る。有名な画家の作品は非常に少ない。私の知っている画家はカミーユ・コロー Camille Corot (「シェーズマリーの石切り場、フォンテーヌブロー」)、ギュスターヴ・クールベ Gustave Courbet (「ルー側の岩壁」)、ポール・デルボー Paul Delvaux (「階段」)、ルネ・マグリット René Magritte (「パースペクティブII:マネのバルコニー」)、アンリ・マルタン Henri Martin (「谷あいの黄昏」)、ジェームズ・アンソール James Ensor (作品多数)くらいである。他の画家の背景は全く白紙なので、絵の雰囲気を味わうだけであった。

気になった絵もいくつかあった。例えば、

ピーテル=フランス・デ・ノーテル「冬のゲント風景」(1838): 凍ってしまった川の上で人々がさまざまな動きをしている。中にはスケートをしようとする人までいる。当時の生活が蘇る。

フランソワ・ジャン・ピエール・ラモリニエール「マルシュ=レ=ダムの山岳風景」(1853): 空の青が目に入ってきた。

イッポリート・ブーランジェ「嵐のあと」(19870-71): 空の雲が印象的な絵。これはカタログでは味わえない。

レオン・フレデリック「告別の食事」(1886): 緊張感溢れる瞬間をとらえた絵で、その場の雰囲気が伝わってくる。

グスターヴ・デン・ダイツ「冬景色」: 夕暮れの雪景色であるが、手前が異常なくらい明るくなっている。昔経験したことのある風景で懐かしさが募る。

アンナ・ド・ウェールト「6月の私のアトリエ」(1910)、「8月の朝」(1915-15): いずれも田舎の緑溢れる景色が淡い色で描かれている。前者には花が前面に、後者では麦の束が配置され、空の雲が夏らしさを存分に出している。

レオン・デ・スメット「室内」(1911): この絵が今回の展覧会のテーマになっているようだ。天井の高い室内のソファでは男女が抱き合っている。壁には数枚の絵がかけられ、マントルピースの上には彫刻と皿が、またクロスのかかったテーブルの上には花瓶とティーセットが置かれている。やや点描風にこれらが描かれている、それだけの絵である。どういう物語があるのか、という想像力を掻き立てるのだろうか。

アルフレッド・ステヴァンス「マグダラのマリア」(1887): 表情と全体の雰囲気が現代的な女性と髑髏。どこかで見たことがあると思わせる女性だ。

グスターヴ・ヴァン・デ・ウーステイネ「フーガ」(1925): 男の目が印象的。

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全体で130点近くの展示をメモを取りながら気持ちよく見ていたその時であった。係員の女性が近寄ってきて、ボールペンは禁止されていますという言葉で、すべてが白けてしまった。先月一ヶ月ほどパリ、ロンドンの美術館を訪れたが、このような注意を受けたことは一度もなかったし、日本でも初めてである。

受付でその理由を聞いてみた。要するに込み合っている時などにメモを取っていると間違って絵を傷つけたり、インクが絵にかかったりすることがあるためという説明。少なくとも今日はホールの中央でメモを取っており、入館者も数えるだけ。このような状況でも、注意をしなければならないのだろうか。

状況は違うが、このような融通の利かない対応を経験したことが熊谷守一美術館でもあった。ビジネスが前面に出ているな、という印象が拭えなかった森美術館。基本的な姿勢として、お客に楽しんでもらおうという一番重要な気持ちが欠如しているようにまたまた感じてしまった。美術館が上の立場にいて、お客は管理しなければ何をやるかわからない存在として捉えているのだろうか。少ない経験ではあるが、美術館の姿勢が欧米とは根本的に違っているような印象が固定化されつつある。いずれにせよ後味の悪い美術館訪問となった。

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猛暑の日本 CANICULE AU JAPON

2005-08-05 21:50:18 | Weblog

相変わらずの暑さである

エアコンなしの夏である

体の中の垢を洗い出すかのように、汗が流れるままに放っておく

葉巻を燻らす

ビールから日本酒へと移る

何かが見えてくるのを期待しながら、じっーーと待つかのように、静かに時間が流れるのを眺める

じっくりと味わう

時の流れに身を任せる


 金曜の夜の密かな愉しみ、、か。

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パーソナル・タッチ LES CONTACTS HUMAINS

2005-08-04 23:23:37 | 出会い

昨日・今日と久しぶりに同好の士と顔を合わせたせいだろうか、少し調子が出すぎたようである。初日は体調が思わしくなかった。会は運営もよく行き届き、個人的にはこれからの仕事につながる話がいくつか出てきて、大きな収穫があった。やはり personal touch が重要なのだろう。ermite (世捨て人) になることが潜在的な欲求にあるのだが、それは当分抑えた方がよいのかもしれない。

2日前、旅の空の解放感からか、柳田充弘氏のブログにTBをし(てしまっ)た。今日再訪してみて私の愚見が取り上げられ、しかも同じ考えを持っておられることを知り、ありがたく感じた。その方向に向けて動きが始まることを期待したい。さらに驚いたことは、同氏のブログからのアクセスのためだと思われるが、アクセス数が普段の3倍に跳ね上がっていた。影響力の大きいブログであることを実感させられた。

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秋田に向かう空の上で DANS L'AVION A AKITA

2005-08-02 23:55:15 | 科学、宗教+

今日から3日間、秋田に出張である。今回は飛行機で行くことにしていた。出る前に、羽田空港で停電があり、離着陸ができなくなっているというニュースを聞く。それから1時間位してから元に戻りましたとのことなので新幹線に変更することなく羽田に向かう。次は浜松町に向かう途中に、いつものことだが人身事故のため電車が止まっていて身動きが取れないとのことで、乗っていた電車が回送になった。乗り換えて羽田に着いてから、ハサミを持ってきたことに気付き、自分でも呆れてしまった。これだけのことが続けば、今までであれば相当に苛々するところであるが、このところ何が起こってもおかしくないという諦めにも似た気持ちと、それほど焦っても人生はそんなに違いがないのではないかという諦観・諦念のような気持ちが出てきているためか、淡々と時間を過ごした。結局のところ、飛行機はわずか30分程度の遅れで離陸した。途中、雲を楽しむ。

秋田も今日から非常に蒸し暑くなったという。夜には今回の会合の世話人と招待者のための夕食会があり、出席する。この分野の日本を代表する人たちと顔をあわせお話ができるということは願ってもないことである。

今日、K大のMY氏のブログを訪問。日本の研究者の中で、よい論文を書く人は増えてきているが、世界の舞台(学者仲間の中)でひとりの役者として渡り合える人が如何に少ないかを諦めに似た気持ちで書いているのが目に留まった。同感である。一番の問題は地理的なことが大きいと思う。日本は最初から同じ舞台にいないのである。場外になっている。その中でいい仕事をして、彼らの論理で渡り合うのは日本にいてはほとんど不可能に近いだろう。外に出てこの世界の文化的側面を肌で掴む必要がある。それをものにして、その世界に自然に入って行けるようになるためには、日本の学界、広く言えば日本社会のあり方が変わる必要があるのではないだろうか。もしそれを本当に求めるのであれば、外の人を責任ある立場に受け入れ(外人枠のようなものを設けて)、日本の中のそれぞれの社会・風土自体を変えていくしかないのではないだろうか。個人的には、その方が面白いことになるのではないかと思うのだが、、。そうでもしなければ、自前で世界と渡り合える研究者を調達することは難しいだろう。秋田に向かう空の上でそんなことを考えていた。

2005-8-03 パーソナル・タッチ LES CONTACTS HUMAINS
2005-7-01 パリの3週間 TROIS SEMAINES DE PARIS - COSMOPOLITISME
2005-4-22 研究者の定年

コメント (2)
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