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なぜ現実の生より復元された生(la répresentation de la vie)に力があるのか? なぜ現実に意味を持たせるためには一度イメージを通らなければならないのか?
この問いに対して、哲学があらゆる答えを用意している。現実の表象としてのイメージはその現実が存在すると同時に存在しないということも意識させる。それがもう存在しないということを意識することによって、その現実が愛すべきものになる。われわれの生の真実に至るためには、そのイメージをもう一度見る必要がある。イメージは現実を失われたものとして突きつける。
それゆえ、イメージの深いところに悲愴な (pathétique) ものがついて回る。このことを山端は知らず、おそらく初めて自問しただろう。現実よりもより真実に近づける写真の持つ力の本質を。彼は次にように説明している。それは悲愴さに満ち溢れた中でその現実を一人で感じ取ることができ、そしてわれわれにもう一度見ることを強いる。カメラの目的は最初にこの目で見逃していたことを映像として切り出すことである。
彼はその目の前に現れるイメージの恥ずべき美しさ (la scandaleuse beauté) に捉えられた。イメージを不幸や時間が持つ悲愴の深みへと導く何かによって。
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彼は前世紀の最も残虐であった軍隊の一員として働いていた。写真家としての彼の能力が正当化し、熱狂させた残虐行為に巻き込まれながら。彼は全くの偶然からありえないことの証人 (le témoin de l'impossible)、しかも不適格な証人 (un témoin indigne) になった。彼にとって長崎は啓示を受けた場所ではないようだ。彼は生き、しかも二度生きたがために、狂気の淵に追いやられることはなかった。広島や長崎を思い浮かべるだけで呼び覚まされる耐え難い悪夢から逃れるために命を絶つ人ではなかった。
山端は平和運動のために動くこともなかった。平和運動のために彼の写真が使われる時は、常にためらいと極度の慎重さで対応した。平和が戻ってきて彼は二度目の幸福を味わっていたのだ。家族に囲まれ、仕事でも成功して。彼は天皇の正規の写真家でもあったのだ。戦争の悲惨さを描き、スペインの王室で仕事をしたゴヤ (1746-1828) を思い浮かべただろうか。それがまさに山端のやったことであった。
実物と模倣について
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (I)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (II)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (III)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (V)
山端庸介 SARINAGARA -YOSUKE YAMAHATA (VI)
PHILIPPE FOREST - SARINAGARA - 小林一茶
難しい内容の本を翻訳していただいて
ありがとうございました。
映像になって改めて現実が突きつけられるという
解釈にとても感銘を受けました。
久しぶりに戦争についても考えさせられ、また
証人としての悲しみがあることを知ることになり
こちらで深い時を過ごさせていただきました。
今後もよろしくお願いいたします。
小説の内容も写真と同じような気がしてきました。一度別の形で外に出してみること、それによってのみ小説の真実に迫れるのかもしれません。
いつも心のこもったコメントありがとうございます。