先日のモエレ沼公園訪問時、2000年の春に読んだドウス昌代の「イサムノグチ - 宿命の越境者」(上・下)を思い出す。一気に読んだせいだろうか、ほとんどマークがついていない。その中から当時印象に残ったと思われるところを以下に。
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『人が月へ旅したいという思いにも似て、何としても他の領界へ飛び発ちたかった』
イサムは「大地を彫刻する」という思いつきに、『頭が燃えているような感じで、いろいろな大構想がどんどん出てきた』。
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タラは、イサムの天性の鋭い直感と、物事を見つめる観察力につねに驚かされた。イサムは内心の葛藤をたえず抱えていたが、切ないほどに心やさしく、思いやりにみちていた。彼は天与の才能とともに、物事を見極める鋭い観察力と、忍耐力をもちあわせた。どんなことでも当然なものとは受けとらず、いつもその背後にある意味を読み取ろうとした。
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『私についてしばしば指摘されることは、一つの様式が成功裡に成就してしまうと、すぐにそれを放棄するということだ。疑いもなく私には、様式とその様式から生じる成功に対する不信の念があるのだ。さらにもう一つの要因としては、ある自己反省の時期―このときには六年間―がすぎると、脱出の衝動が起きるのだ。』
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『ぼくは新しい仕事のたびにいつも、それを次なる仕事の稽古としてきた。仕事に導かれながら、ひとつずつ誤りを取り除き、いつか最後には偉大な創造に達しようとぼくは願ってきた』
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「イサムの性格は底知れなく複雑で、同時に子供みたいに純粋で、単純です。これ以上ないと思われるほどやさしいかと思うと、次の瞬間には、竜巻か瞬間湯沸かし器みたいにすぐ爆発する、手のつけられない癇癪もちです。でもイサムはアーティストとしての矜持の高さ、それに人間としての正直さで際立って輝いていた。」
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山本から、「イサム・ノグチ」と紹介されても、目の前の人物の風貌はあきらかに外国人のものであった。その外人は、和泉がそれまで見たことがないほど強い眼光で、射すくめるように和泉を見据えた。禿げあがっていても、六十歳を目前にした年齢とは想像もできなかったほど、「イサム・ノグチ」は全身からぎらぎらした活力をみなぎらせていた。
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芸術家としての信条を問われて
『意外性が大事だと思う。創作するときに起こる予期せぬハプニングだ。私にとって意外性のないものは芸術ではない。芸術とは自己の外部から刺激を受けてもたらされる変革であり、芸術家はその変革に形を与える道具にすぎない』
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「どんなに居心地よくても、ここに長居しては、ぼくはだめになる」
イサムは、仕事以外に気をわずらわさずにすむ配慮に心を癒される反面、尊敬を込めて仕えられて少しでも気がゆるむことを極度に恐れた。無意識にも心をゆるませ、それと同時に顔を出す老いの影こそ、イサムが恐れたものであったのかもしれない。
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ISAMU NOGUCHI
The Noguchi Museum