フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

しゃちょ日記バックナンバー/2009年12月①

2010年09月12日 | しゃちょ日記

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 2009年12月01日/その155◇ツバメンコ決死隊

 今井翼 Live house TOUR D&R ~ an extension
 2009年11月30日・12月1日/赤坂BLITZ 18:30

 「だいじょぶですかあ!?」
 
 小島章司さんの公演初日で、
 すぐそばの席になったツバメンコ師匠、
 佐藤浩希がこう云った。
 心やさしい彼は、
 1日のツバメンコを立ち見で観ることになった私を
 心配してくれているのだ。

 不安がないではないが、
 こう見えても私は、中学時代、マラソンで学年3位だった男だ。
 だから持久力には自信があるのだ。
 問題は、
 ①それからすでに40年経過している点。
 ②それ以降、マラソンをやっていない点。
 この2点のみである。

 さらに今日の赤坂BLITZ遠征には、
 チケットを手配してくれたnyanko na tsubasaをはじめとする
 ツバメンコ同好会(現在479名)のチョー美女軍団が、
 その大恥にひとつもひるむことなく、保護者として、
 私の引率と看護にあたってくれることになっている。
 待ち合わせの合言葉は「ビバ変態!」だそうで、
 その関係から、当日の私の服装は、
 チビ・デブ・ハゲの三連インフラに加え、
 ミニスカにピンクのももひきが予定されている。
 さらに別のツバメンカー、サムライには
 「失神は必至と云えども、失禁は困る」と釘を刺されたが、
 困ると云われても困るのであった。
 また、鼻血ブーがオッケーか否かについても、
 事前問い合わせが必要かもしれん。

 地元の行きつけで仲間にそんな話をしたら、
 まったく心配ないと、ヒデノリは云った。
 会場入りした途端に必ず、警備のおぢさんに、
 「ああ、大道具の人はこっちね」と舞台裏に誘導されるから、
 ヘルメットを着用して大道具を手伝いながら、
 舞台袖からしゃがんで観てれば、
 けっこうラクチンですよ」だって。

 とほほ3.jpg

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 2009年12月02日/その156◇ツバメンコ決死隊~本番の巻

 今井翼 Live house TOUR D&R ~ an extension
 (その全国ツアーより)2009年12月1日/赤坂BLITZ

 ツバメンコ(=今井翼のフラメンコ)。

 もはやフラメンコの世界にもすっかり定着したこの固有名詞。
 その今井翼が、踊り、歌い、語り、ギターを弾き、ドラムを叩き、
 そして、ツバメンコを舞った!

 開場前に立って待つこと30分。
 係員が狼狽する眼差しを背に決死の覚悟で会場入りし、
 さらに立って待つこと30分。
 入場者数は、およそ1800人だという。
 そのほとんどがスタンディング(立ち見)である。

 昨年秋の日生劇場公演をテアトロ・フラメンコに例えるなら、
 今回のライブは、タブラオ・フラメンコということになる。
 それは私の知らない本生の今井翼だった。
 休憩なしの3時間の長丁場を、
 少しのテンションも落とすことなく、 彼は突き上げまくった。

 待望のツバメンコは、ライブ後半に現れる。
 波打つ観客と親密にコミュニケーションを取りながら
 サパテアードを打つという、噂に聞くヴァージョンだ。
 客席との対話の合間にフラメンコするという特殊な状況下、
 一瞬にして切り替える強靭な集中力から生じる靴音の音色は、
 シャープにして力強い響きと、フラメンコの粋を備えていた。
 それは、いきなり“どフラメンコ”的に動くことで、
 逆に客席を引かせることのリスクの狭間で、
 ライブ全体の印象と、フラメンコの魅力のアピールを両立させる
 ぎりぎり最善の方法のように思えた。
 10分にも満たないツバメンコ・タイムだったが、
 それによって、すでに3時間あまり立ち続ける
 両短足の痛みから解放され、
 さらに、浮きまくる私はようやくのことで、
 盛り上がる仲間の一人として、
 その場に溶け込むことができたのだった。

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 mixiと日刊パセオフラメンコ上に、
 『ツバメンコ同好会』を結成したことは、
 私にしては上出来だった。
 そのおかげで、メンバーである
 私のツバメンコ特命秘書(nyanko na tsubasa)と、
 りょう(←たぶんお公家さん)をはじめとする、
 そのお仲間美女チームの尽力によって、
 会場に潜入することに成功したからだ。
 当然ながら彼らは、私の保護者として
 その引率と介護を兼ねている。
 タタミ一畳に8名ぐらいの感じで、
 若い美女たちにモミくちゃにされながら会場を見渡せば、
 どうやら私は、その中でもっともハンサムなおやぢで
 あることが判明するが、 その事実と
 おやぢ客が私一人である事実とは無縁であると思いたい。

 おーまいがっど.jpg

 うねるような熱気にたちまち汗ダクとなり、
 皮ジャンを手に立ち尽くすことになるから、
 さらに身動きが取れない。
 せめてリズムには乗りたいと思っていたら、
 ライブが始まる途端、 四方八方から密着状態でやってくる、
 リズムに乗って動く美女たちの身体のうねりに身を任せれば、
 何もしないでもリズムに乗れることもわかった。

 礼儀正しいたくさんの美女たちから
 ニッコリ会釈されたところからすると、
 ツバメンコ同好会メンバーは、
 かなり大勢参戦されたものと思われる。
 みんなと同席できた光栄に感謝したい。
 また、お会いしよう!

 おしまいに、涙の特記事項。
 ステージ効果のため非常口の灯りを消します、
 というアナウンスが開演直前に流れる。
 「こりゃ出口がどこだかわからねーな」
 すでに身動きが取れない状況の私が、
 迷子や失神や失禁に備えてピタッと隣に貼り付いてくれる
 特命秘書nyankoにそう云うと、
 あたかもそれが本懐であるかのように、
 しみじみとした口調で彼女はこう呟いた。
 「火事になったら、その時はあきらめるしかないよね」
 うわっ、あっぱれ! これぞほんまのツバメンカじゃあっ!
        
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 2009年12月03日/その157◇晩秋の楽しみ(1)

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 毎年恒例。
 代々木公園、晩秋の楽しみ。
     
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 犬もおだてりゃ木に登るの図。

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 2009年12月04日/その158◇晩秋の楽しみ(2)

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 春の桜と、秋の落葉。
 う~ん。甲乙つけ難し。

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 2009年12月05日/その159◇晩秋の楽しみ(3)

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 また来年を楽しみに......。

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 2009年12月06日/その160◇パセオの新編集長

 すでに、パセオ12月号でお知らせ済みだが、
 な、なんと来年新年号より、
 この私がパセオ編集長に就任する。
 これまで何度か仕方なしにやったことがあるが、
 今回は初の立候補である。

 ただし、私が編集長を担当するのは
 限定二年という社内の約束があるので、
 読者や関係者の皆さま方のご忍耐・ご辛抱も
 わずか二年で完了の見込みだ。
 忍耐や辛抱は人を鍛え育てるので、
 それだけを希望の灯としながら、
 どーか二年間お付き合いいただきたいと願う。

 フラメンコファンをネットワークするパセオはこの先、
 毎日更新するこの日刊パセオフラメンコが、
 ニュース記事などで速報性・実用性を発揮し、
 この26年、毎月20日に発行する月刊パセオフラメンコは、
 及ばずながらも力の限り"フラメンコの肝"に踏み込む。

 「電子メディア+紙メディア」。
 その両翼からのなかよし連携で、
 フラメンコの普及発展のお役に立つことが、
 フラメンコの専門メディア"パセオ"の、
 変わらぬ本懐である。

 スペインの名専門誌『alma100』が休刊となった今、
 世界で唯一の月刊フラメンコ専門誌として、
 カチンカチンに固まってしまうつもりは
 毛頭ないし、毛髪もない。
 硬派も軟派も何でもごじゃれで、
 ただひとつ、「その先にあるもの」に迫りたい。

 四年におよぶ、
 たくさんのフラメンコ・ウェブ仲間との親密な会話。
 その濃厚なインスピレーションから生まれた、
 私の唯一の編集方針は、「シンプルに深く」。

 いつかまた読み返したくなる読み物とビジュアル。
 雑誌ではなくて、愛着あってちょっと捨てがたい、
 懐かしいフラメンコ絵本のような。
 読み手も書き手も作り手も、
 フラメンコに元気をもらえるような本創りに熱中したい。
 三度目の青春は、もうやりたい放題である。

 なお、定期購読には特典も奮発した。
 ヨランダ画伯入魂のフラメンコ・カレンダーである。
 新編集長の実力を考慮し、これまでモノクロだった
 カレンダーをカラー印刷に昇格させた。
 定期購読は送料込みで、年間9240円。や、安い!

 いま、刷り上った新年号のゲラを苦笑しながら眺める。
 ま、しょっぱなはこんなもんだろう。
 闘いながら闘い方を学んでゆくのは、
 わが家の家訓、パセオの社訓なのだ。

 しゃちょの公演忘備録 ウェブ用.jpg

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しゃちょ日記バックナンバー/2010年12月②

2010年09月12日 | しゃちょ日記

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 2009年12月08日/その162◇デスヌードな化学反応

 どちらかと云えば、
 私は化学反応を起こしやすいタイプだ。

 「人生楽しく」というヴィジョンと、
 それを可能にするためのふたつのコンパス
 (締切厳守とグチ厳禁)を守ること以外は、
 出来るだけ、外からの影響を
 自由に受けたがる体質になっている。
 特に、人との会話や、コンサートやCDや本などから、
 自分の中に化学反応を起こすことが多い。
 
 パセオの特攻モニターをガリガリ募ったのには、
 無論マーケティング強化の狙いがある。
 だがしかし、その最大のテーマは
 「フラメンコのお仲間の化学反応」である。
 いや、それこそが最良のマーケティングか。
 
 ここにフラメンコに興味を持った人間がいる。
 現役練習生が多いだろうが、一時休止中の人も、
 これから始めようとする人もいる。
 また、私のように観る聴く専門の人もいる。
 とりあえず、その私がサイを振る。

 私を含め、そんな人たちがパセオを読む。
 ある読み物、写真、またはある投稿に、
 ふと、化学反応を起こす。
 フラメンコそれ自体、
 及びフラメンコを愛する者からのメッセージに反応する。
 良質な化学反応を誘発するメディア。
 それがパセオの変わらぬ本懐。

 どんなメッセージに反応したのか?
 あるいは逆反応したのか?
 それによって彼らの中にどんな変化が生じたのか?
 そこに私の最大の関心がある。

 フラメンコに対するスタンスも様々で、ましてや
 生きる状況も様々に異なる読者諸氏なのであって、
 そこにはプロ、アマ、関係者の境界線はない。
 それらはまるで「フラメンコ万華鏡」のような、
 限りなく色彩豊かなシーンを現すことだろう。
 私はそんな心模様を読んでみたい。
 それが昨日書いた『フラメンコとパセオと私の化学反応』。
 各個人に生じる化学反応は、
 互いに影響し合いながら拡大発展してゆくのだ。
 そう、まるでフラメンコみたい!

 そんな反応をちっとも生じさせないパセオなら、
 編集方針そのものに問題があるわけだから、
 早急に仕切り直しが必要になる。
 また、反応が集中する記事がある場合は、
 その先をさらに突き詰める楽しみが出てくる。
 良い反応も良くない反応も、
 それらすべてが私を助けてくれる。

 出版不況の今、ネットは紙媒体の天敵とも云われるが、
 私はそうは思わない。
 発行した出版物の反響を即座に把握できることの
 メリットの方が、はるかに大きいと考えるから。
 それがネット・コミュニケーションの恩恵だ。
 わりと簡単なことなのではないだろうか。
 つまり、仲間とともに創ってゆけばよい。
 ホメとケナシをメリハリよく、
 読後感をガチで書いてほしいという私の願いも、
 そんな理由から発している。

 文明の進歩のみが突出することで、
 逆に人々がとまどう現代という時代。
 アートは人間を助けるためにある。
 というのが私の考え。
 心と心、人と人とをつなぐ文化が
 負けちまったらどーにもなんねえ。

 人間の欲望の根本を踏まえながらも、
 コンパスという共通ルールが、
 自ずと協調性を生じさせるフラメンコ。
 アンダルシアを光源に、
 どこまでも地球的発展を続けようとするフラメンコ。
 そんなフラメンコに日々化学反応しながら、
 より豊かで潤いのある自由を、私は謳歌したい。

 つーことで、思わずガチで書いてしまったが、
 手の内をバラしちまうのが江戸っ子のだらしなさ。
 多くのモニターがどん引きすることだろう。
 パセオ・モニターに定員はないので、
 わたす的ヘンタイさんはじゃんじゃんこつらしゃちょメールまで。
         
 って、前フリ長すぎ。
 今日の本題(↓)。

 ―――――――――――――――――――――――

 desnudo 鍵田真由美・佐藤浩希フラメンコライブ vol. 5
 ゲスト:Ali Thabet
 12/8(火)19時
 12/9(水)18時・19時45分
 東京・代々木上原 MUSICAS
 [出演]鍵田真由美、Ali Thabet、大儀見元、金子浩
 [振付・演出]佐藤浩希

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 鍵田×アリ×佐藤の「化学反応」!
 なんだって。
 ま、看板に偽りなしのデスヌードだからな。
 否応なく、その「化学反応」に期待しちまう。

 前回デスヌ-ド4では、筋書きもわからぬままに、
 結局しまいには泣かされちゃったしな。
 要するに、このシリーズは、頭も心もカラッポにして、
 つまり、いつものまんまで臨めばよろしアル。
 
 私は9日遅番に連れ合いと出かける。
 ご近所デスヌード会場の場合、
 家に戻って、ひとっ風呂浴びてから駆けつけ、
 帰りは歩いて2分の行きつけで一杯、つーのが定跡。
 で、ガーッと爆睡して、起きたら即公演忘備録を書く。
 制限時間30分のスリルがたまらん。
 ああ、この豪華贅沢シリーズ、
 いつまでも続いてほしーなあ。
     

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 2009年12月10日/その164◇デジャ・ビュ/デスヌード5


 desnudo 鍵田真由美・佐藤浩希フラメンコライブ vol. 5
 『鍵田×アリ×佐藤の「化学反応」!
 (2009年12日8日~9日/東京・代々木上原 MUSICASA)

 マシンガンや手榴弾など豊富な必殺兵器を持ちながら、
 敢えて素手の殴り合いで勝負する鍵田真由美。
 サシで勝負するその相手ダンサーは、
 ワールドツアー等で活躍中のサーカス・アーティスト、
 アリ・タベ。
 二人は、恐るべきその身体能力を互いに爆発させながら、
 これまで私たちが一度も体験したことのなかった
 不思議な表現空間を生み出した。

 音楽は、大儀見元(パーカッション)、
 金子浩(リュート)、
 名倉亜矢子(ソプラノ、ゴシックハープ)の三名。
 フラメンコファンやクラシックファンには、
 それぞれお馴染みの腕っこき揃いである。
 そして、振付・構成は、ツバメンコ師匠・佐藤浩希。

 シンプルに徹するモノトーンの舞台には、
 冒頭部分に突如アクロバットを挿入する、
 シュールにして台詞のない舞踊劇が展開される。
 シュール阿呆リズムを日常的に実践する私ではあるが、
 60分間凝視しし続けたそのシュール・アートを
 解き明かすことは出来ない。
 だが、それでいいのだ。
 直観の活用に優れるフラメンコファンのそれぞれには、
 各々に優れたアートを敏感に嗅ぎ付ける習性があるから。

 そんな風に毎度勘つがいしながらも、
 その感動力にはバカに自信のある私の、
 今回の衝撃の印象はこうなる。

 アリと鍵田の、その二人の関係はわからない。
 男と女なのか、兄妹なのか、親子なのか、
 異なる宗教同士なのか、はたまた神と子なのか、
 おそらく全部違うだろう。
 両者は探り合い、愛し合い、肉体をもって格闘し合う。
 舞台に現れるのは、プリミティブで懐かしい感情の数々。
 16世紀頃のヨーロッパ世俗音楽が、それら感情を包む。
 愛憎の争いの果てに訪れるのは、一方の死。
 生存するもう一方は、ふうっ、これでサッパリしたぜ、
 みたいな表情も見せるが、 亡くしたものは戻らない。
 やがて哀しみのどん底へと沈む。

 時代や国境を超える感情。
 心の奥底に潜む、懐かしいデジャ・ビュ。
 親密と残酷が背中合わせの感情。
 だから人間はダメなんだよ。
 でも、だから人間は愛おしいんだよ。

 アリと鍵田は、言葉以外のすべてを駆使しながら、
 こんな化学反応を、私にもたらした。
 フラメンコのフの字もなかったのに。

 『鍵田真由美・佐藤浩希フラメンコライブ』という
 看板に偽りアリ。
 だが、『鍵田真由美・佐藤浩希』という
 大看板に偽りナシ。
 もう一度観たい。
          

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 2009年12月12日/その166◇感情を歌う踊り心、絢爛たる舞踊の華
     
 第28回「岡田昌己スペインを踊る」
 (スペイン国イサベル女王十字勲章受勲記念)
 2009年12月11~12日/東京・草月ホール

 あまりの出来事にその数分間、目が眩みそうになる。
 スペイン交響曲・第一楽章アレグロ・ノン・トロッポの、
 軽々と理想を超えてしまうクラシコ・エスパニョール独舞。
 クラシック音楽の世界で云うグランドマナー。
 心をいっぱいにする、言葉にならない巨大なアルテ。
 そのとき岡田昌己は、スペイン舞踊の化身と化した。

 小島章司が宇宙と一体化する方向に深化する一方、
 岡田昌己は、この地上で踊りの華であることに徹する。
 歌を忘れぬカスタネット。
 自立するサパテアード。
 心をそらせぬブラソ、ブエルタ、上体の美。
 それら一糸乱れぬアンサンブルが渾然一体となって、
 岡田昌己の心を舞う。
 幾十も現れる人間の感情そのものが、
 歌うかの如くに踊りに具象化される。
 その鮮やかな万華鏡と、胸を突く共感。
 年齢不明な超絶技巧から生産される、
 絢爛豪華な舞踊の光。

 現代の舞踊シーンが失いつつある、
 あの懐かしい「心と心を繋ぐ憧れ」が、
 目前に突如出現したのだ。
 その絢爛たる踊りの華が、
 爆呑・爆睡からひと晩明けた今も、
 脳裏に焼きついたまんま離れない。
 これが踊りだ、これが踊りなんだ!
 と、朝っぱらから心に叫ぶ。

 十数年前に、やはり同じ岡田昌己の
 スペイン交響曲を私は観ている。
 だが、肉体的にもピークだった
 そのシャープな岡田昌己とは、感動の次元が違う。
 2倍? 3倍? いや、違う。
 5倍? 10倍? いや、もっともっとだ。
 数年前、舞踊家には致命傷とも云える
 脚の故障を乗り超えた時、 彼女が
 それをはるか上回る何かを発見・血肉化したことに、
 もはや疑いの余地はない。
 人間のプライドとは、こうした行為を指すのだろう。
 満足に歩けもしなかったこの人気ガチンコ舞踊家は、
 完全復活以上のぶっち切り再デビューを
 果たす不死鳥だった。

 そして第二部(フラメンコ)のタラント。
 炭鉱の村、寡婦の悲哀。
 そのアルテの質量の類似から、
 一瞬マティルデ・コラルの巨大なグラシアが
 脳ミソをかすめるが、 それはやはり、
 国際舞台で30年、日本で20年踊り続ける
 誰にも似てない「岡田昌己のフラメンコ」の
 存在証明そのものだった。

 岡田のクラシコとフラメンコ、どっちが凄い?
 観る者の心に応じ、その見解は異なるはずだ。
 意味なくこの晩の直感を下世話に記せば、
 私個人はフラメンコ49対クラシコ51の接戦。
 その微差は何なのか? の勘つがい分析は、
 次回の楽しみに譲る。
 ただし、どこまでもマヌケな俺よ、
 どーかこれだけは忘れるな。
 私が舞台を問うのではなく、
 舞台に私が問われていることを!

 ギターのミゲル・ペレスと高橋紀博、
 カンテのインマ・リベロとアギラール・へレス、
 フルートの山本俊自は、この夢の宴を成立させるための
 最高適任者だった。
 そして舞踊団はスペイン舞踊の最高水準をクリアした。
 美しい群舞として成立する一方、
 一人ひとりの個性が薫ってくるような、
 フラメンコの理想を叶えるそれだった。
 彼らは岡田昌己に学べる光栄に
 心底感謝したに違いない。
 ダヴィ・コリア(元スペイン国立バレエ団ソリスト)は、
 クラシコ部門を引き締めた。
 そして、ダヴィ・ペレスは、
 待ちに待ったフラメンコの本格派だった。
 鋭い匕首のようなブエルタは、
 あのマノロ・ソレールを想起させた。
 ハイテク過ぎる動作をそぎ落とせば、
 間違いなくトップに達する硬派フラメンコだ。

 そして最後に忘備すべきは、
 岡田昌己の演出力の進化だ。
 彼女はその数ヶ月前の私のへっぽこインタビュー
 (3月号掲載)に、 演出への控えめな自信を見せた。
 だが、この晩彼女が出した回答は私の想像を絶した。
 踊りの化身・岡田昌己のレベルにこそ達していないが、
 その芳醇な演出力には、
 現代が見失いつつある美と華と粋がある。
 
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 2009年12月13日/その167◇正月NHKでツバメンコは翔ぶか?

 ツバメンコ同好会メンバーからの各種情報によれば、
 新春1月3日(日)18:05~18:48に、
 NHK総合テレビにツバメンコこと、今井翼さんが
 出演する見通しとのことだ。
 番組名は『暮らして見る旅』。

 12月の東京ライブに駆けつけ、
 いまやすっかり、今井翼のおやぢファン(50代部門)筆頭!
 となった私としては、これを見逃すことはできない。
 6時開始の新年会の開宴時間を1時間遅らせることで、
 これに対応することにした。

 撮影ロケは、スペインのハエンとのことだ。
 頭に毛が「生えん」という点で、
 私には親しみやすい土地柄である。

 喜ばしいことには、スペインのバルで
 な、なんと、フラメンコを踊ったという情報も入っている。
 番組企画なのか、プライベートなのかは不明。
 そのツバメンコのオンエアを祈るばかりである。
              
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 2009年12月14日/その168◇平穏無事

 ある日曜の午後、思いのほか仕事が早く済んだので、
 散歩がてら渋谷のタワーレコードへと。
 海外のバッハ新譜の掘し出し物は都内随一なのだ。

 処方箋 001.jpg

 お買い上げCDは4種。
 ○14世紀生まれの楽器、クラヴィコードによる
 珍しいバッハ録音。もしかしたらバッハは、
 チェンバロよりもこの楽器を愛していたかもしれない。
 ○シュタットフェルト(ピアノ)とボグラー(チェロ)
 による『ガンバ・ソナタ』は予定外の収穫。
 ○オケバックにフルートで吹く『イタリア協奏曲』は、
 おそらく世界初録音。美人フルーティストの名前
 (Magali Mosnier)は読めない。
 ○今年の新録音だというエリオット・ガーディナーの
 『ブランデンブルク協奏曲』に狂喜。

 帰りは線路際を原宿方面に歩いて、
 明治神宮入口前のオープン・カフェでひと休み。
 カフェ・オレをやりながら5枚のCDをチェック。
 この至福のひとときは、あいにくの雨で中断。
 シュタットのガンバソナタの三番を聴きながら、
 秋深き代々木公園を抜けて帰ろうという
 デラックスプランはおじゃん。

 千代田線でひとつ先の「代々木公園」で下車。
 家まで走って1分なので、雨なんぞは何のそのだ。
 今日は私のチャンコ番だったことを思い出し、
 地上出口のすぐ脇のマルマンで晩飯の買い物。
 特製チャンコの材料と、半額特価のふぐ刺しと、
 連れ合いの好物、みる貝の刺し身を買って帰宅。

 なんだか今日は普通のおっさんらしい生活だなあ、
 と久々に平穏無事のありがた味を満喫しつつ、
 風呂と鍋の準備をしながらのバッハ三昧。
 なんか普通に日記みたいだし。
                    

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しゃちょ日記バックナンバー/2009年12月②

2010年09月12日 | しゃちょ日記

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 2009年12月08日/その162◇デスヌードな化学反応

 どちらかと云えば、
 私は化学反応を起こしやすいタイプだ。

 「人生楽しく」というヴィジョンと、
 それを可能にするためのふたつのコンパス
 (締切厳守とグチ厳禁)を守ること以外は、
 出来るだけ、外からの影響を
 自由に受けたがる体質になっている。
 特に、人との会話や、コンサートやCDや本などから、
 自分の中に化学反応を起こすことが多い。
 
 パセオの特攻モニターをガリガリ募ったのには、
 無論マーケティング強化の狙いがある。
 だがしかし、その最大のテーマは
 「フラメンコのお仲間の化学反応」である。
 いや、それこそが最良のマーケティングか。
 
 ここにフラメンコに興味を持った人間がいる。
 現役練習生が多いだろうが、一時休止中の人も、
 これから始めようとする人もいる。
 また、私のように観る聴く専門の人もいる。
 とりあえず、その私がサイを振る。

 私を含め、そんな人たちがパセオを読む。
 ある読み物、写真、またはある投稿に、
 ふと、化学反応を起こす。
 フラメンコそれ自体、
 及びフラメンコを愛する者からのメッセージに反応する。
 良質な化学反応を誘発するメディア。
 それがパセオの変わらぬ本懐。

 どんなメッセージに反応したのか?
 あるいは逆反応したのか?
 それによって彼らの中にどんな変化が生じたのか?
 そこに私の最大の関心がある。

 フラメンコに対するスタンスも様々で、ましてや
 生きる状況も様々に異なる読者諸氏なのであって、
 そこにはプロ、アマ、関係者の境界線はない。
 それらはまるで「フラメンコ万華鏡」のような、
 限りなく色彩豊かなシーンを現すことだろう。
 私はそんな心模様を読んでみたい。
 それが昨日書いた『フラメンコとパセオと私の化学反応』。
 各個人に生じる化学反応は、
 互いに影響し合いながら拡大発展してゆくのだ。
 そう、まるでフラメンコみたい!

 そんな反応をちっとも生じさせないパセオなら、
 編集方針そのものに問題があるわけだから、
 早急に仕切り直しが必要になる。
 また、反応が集中する記事がある場合は、
 その先をさらに突き詰める楽しみが出てくる。
 良い反応も良くない反応も、
 それらすべてが私を助けてくれる。

 出版不況の今、ネットは紙媒体の天敵とも云われるが、
 私はそうは思わない。
 発行した出版物の反響を即座に把握できることの
 メリットの方が、はるかに大きいと考えるから。
 それがネット・コミュニケーションの恩恵だ。
 わりと簡単なことなのではないだろうか。
 つまり、仲間とともに創ってゆけばよい。
 ホメとケナシをメリハリよく、
 読後感をガチで書いてほしいという私の願いも、
 そんな理由から発している。

 文明の進歩のみが突出することで、
 逆に人々がとまどう現代という時代。
 アートは人間を助けるためにある。
 というのが私の考え。
 心と心、人と人とをつなぐ文化が
 負けちまったらどーにもなんねえ。

 人間の欲望の根本を踏まえながらも、
 コンパスという共通ルールが、
 自ずと協調性を生じさせるフラメンコ。
 アンダルシアを光源に、
 どこまでも地球的発展を続けようとするフラメンコ。
 そんなフラメンコに日々化学反応しながら、
 より豊かで潤いのある自由を、私は謳歌したい。

 つーことで、思わずガチで書いてしまったが、
 手の内をバラしちまうのが江戸っ子のだらしなさ。
 多くのモニターがどん引きすることだろう。
 パセオ・モニターに定員はないので、
 わたす的ヘンタイさんはじゃんじゃんこつらしゃちょメールまで。
         
 って、前フリ長すぎ。
 今日の本題(↓)。

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 desnudo 鍵田真由美・佐藤浩希フラメンコライブ vol. 5
 ゲスト:Ali Thabet
 12/8(火)19時
 12/9(水)18時・19時45分
 東京・代々木上原 MUSICAS
 [出演]鍵田真由美、Ali Thabet、大儀見元、金子浩
 [振付・演出]佐藤浩希

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 鍵田×アリ×佐藤の「化学反応」!
 なんだって。
 ま、看板に偽りなしのデスヌードだからな。
 否応なく、その「化学反応」に期待しちまう。

 前回デスヌ-ド4では、筋書きもわからぬままに、
 結局しまいには泣かされちゃったしな。
 要するに、このシリーズは、頭も心もカラッポにして、
 つまり、いつものまんまで臨めばよろしアル。
 
 私は9日遅番に連れ合いと出かける。
 ご近所デスヌード会場の場合、
 家に戻って、ひとっ風呂浴びてから駆けつけ、
 帰りは歩いて2分の行きつけで一杯、つーのが定跡。
 で、ガーッと爆睡して、起きたら即公演忘備録を書く。
 制限時間30分のスリルがたまらん。
 ああ、この豪華贅沢シリーズ、
 いつまでも続いてほしーなあ。
     

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 2009年12月10日/その164◇デジャ・ビュ/デスヌード5


 desnudo 鍵田真由美・佐藤浩希フラメンコライブ vol. 5
 『鍵田×アリ×佐藤の「化学反応」!
 (2009年12日8日~9日/東京・代々木上原 MUSICASA)

 マシンガンや手榴弾など豊富な必殺兵器を持ちながら、
 敢えて素手の殴り合いで勝負する鍵田真由美。
 サシで勝負するその相手ダンサーは、
 ワールドツアー等で活躍中のサーカス・アーティスト、
 アリ・タベ。
 二人は、恐るべきその身体能力を互いに爆発させながら、
 これまで私たちが一度も体験したことのなかった
 不思議な表現空間を生み出した。

 音楽は、大儀見元(パーカッション)、
 金子浩(リュート)、
 名倉亜矢子(ソプラノ、ゴシックハープ)の三名。
 フラメンコファンやクラシックファンには、
 それぞれお馴染みの腕っこき揃いである。
 そして、振付・構成は、ツバメンコ師匠・佐藤浩希。

 シンプルに徹するモノトーンの舞台には、
 冒頭部分に突如アクロバットを挿入する、
 シュールにして台詞のない舞踊劇が展開される。
 シュール阿呆リズムを日常的に実践する私ではあるが、
 60分間凝視しし続けたそのシュール・アートを
 解き明かすことは出来ない。
 だが、それでいいのだ。
 直観の活用に優れるフラメンコファンのそれぞれには、
 各々に優れたアートを敏感に嗅ぎ付ける習性があるから。

 そんな風に毎度勘つがいしながらも、
 その感動力にはバカに自信のある私の、
 今回の衝撃の印象はこうなる。

 アリと鍵田の、その二人の関係はわからない。
 男と女なのか、兄妹なのか、親子なのか、
 異なる宗教同士なのか、はたまた神と子なのか、
 おそらく全部違うだろう。
 両者は探り合い、愛し合い、肉体をもって格闘し合う。
 舞台に現れるのは、プリミティブで懐かしい感情の数々。
 16世紀頃のヨーロッパ世俗音楽が、それら感情を包む。
 愛憎の争いの果てに訪れるのは、一方の死。
 生存するもう一方は、ふうっ、これでサッパリしたぜ、
 みたいな表情も見せるが、 亡くしたものは戻らない。
 やがて哀しみのどん底へと沈む。

 時代や国境を超える感情。
 心の奥底に潜む、懐かしいデジャ・ビュ。
 親密と残酷が背中合わせの感情。
 だから人間はダメなんだよ。
 でも、だから人間は愛おしいんだよ。

 アリと鍵田は、言葉以外のすべてを駆使しながら、
 こんな化学反応を、私にもたらした。
 フラメンコのフの字もなかったのに。

 『鍵田真由美・佐藤浩希フラメンコライブ』という
 看板に偽りアリ。
 だが、『鍵田真由美・佐藤浩希』という
 大看板に偽りナシ。
 もう一度観たい。
          

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 2009年12月12日/その166◇感情を歌う踊り心、絢爛たる舞踊の華
     
 第28回「岡田昌己スペインを踊る」
 (スペイン国イサベル女王十字勲章受勲記念)
 2009年12月11~12日/東京・草月ホール

 あまりの出来事にその数分間、目が眩みそうになる。
 スペイン交響曲・第一楽章アレグロ・ノン・トロッポの、
 軽々と理想を超えてしまうクラシコ・エスパニョール独舞。
 クラシック音楽の世界で云うグランドマナー。
 心をいっぱいにする、言葉にならない巨大なアルテ。
 そのとき岡田昌己は、スペイン舞踊の化身と化した。

 小島章司が宇宙と一体化する方向に深化する一方、
 岡田昌己は、この地上で踊りの華であることに徹する。
 歌を忘れぬカスタネット。
 自立するサパテアード。
 心をそらせぬブラソ、ブエルタ、上体の美。
 それら一糸乱れぬアンサンブルが渾然一体となって、
 岡田昌己の心を舞う。
 幾十も現れる人間の感情そのものが、
 歌うかの如くに踊りに具象化される。
 その鮮やかな万華鏡と、胸を突く共感。
 年齢不明な超絶技巧から生産される、
 絢爛豪華な舞踊の光。

 現代の舞踊シーンが失いつつある、
 あの懐かしい「心と心を繋ぐ憧れ」が、
 目前に突如出現したのだ。
 その絢爛たる踊りの華が、
 爆呑・爆睡からひと晩明けた今も、
 脳裏に焼きついたまんま離れない。
 これが踊りだ、これが踊りなんだ!
 と、朝っぱらから心に叫ぶ。

 十数年前に、やはり同じ岡田昌己の
 スペイン交響曲を私は観ている。
 だが、肉体的にもピークだった
 そのシャープな岡田昌己とは、感動の次元が違う。
 2倍? 3倍? いや、違う。
 5倍? 10倍? いや、もっともっとだ。
 数年前、舞踊家には致命傷とも云える
 脚の故障を乗り超えた時、 彼女が
 それをはるか上回る何かを発見・血肉化したことに、
 もはや疑いの余地はない。
 人間のプライドとは、こうした行為を指すのだろう。
 満足に歩けもしなかったこの人気ガチンコ舞踊家は、
 完全復活以上のぶっち切り再デビューを
 果たす不死鳥だった。

 そして第二部(フラメンコ)のタラント。
 炭鉱の村、寡婦の悲哀。
 そのアルテの質量の類似から、
 一瞬マティルデ・コラルの巨大なグラシアが
 脳ミソをかすめるが、 それはやはり、
 国際舞台で30年、日本で20年踊り続ける
 誰にも似てない「岡田昌己のフラメンコ」の
 存在証明そのものだった。

 岡田のクラシコとフラメンコ、どっちが凄い?
 観る者の心に応じ、その見解は異なるはずだ。
 意味なくこの晩の直感を下世話に記せば、
 私個人はフラメンコ49対クラシコ51の接戦。
 その微差は何なのか? の勘つがい分析は、
 次回の楽しみに譲る。
 ただし、どこまでもマヌケな俺よ、
 どーかこれだけは忘れるな。
 私が舞台を問うのではなく、
 舞台に私が問われていることを!

 ギターのミゲル・ペレスと高橋紀博、
 カンテのインマ・リベロとアギラール・へレス、
 フルートの山本俊自は、この夢の宴を成立させるための
 最高適任者だった。
 そして舞踊団はスペイン舞踊の最高水準をクリアした。
 美しい群舞として成立する一方、
 一人ひとりの個性が薫ってくるような、
 フラメンコの理想を叶えるそれだった。
 彼らは岡田昌己に学べる光栄に
 心底感謝したに違いない。
 ダヴィ・コリア(元スペイン国立バレエ団ソリスト)は、
 クラシコ部門を引き締めた。
 そして、ダヴィ・ペレスは、
 待ちに待ったフラメンコの本格派だった。
 鋭い匕首のようなブエルタは、
 あのマノロ・ソレールを想起させた。
 ハイテク過ぎる動作をそぎ落とせば、
 間違いなくトップに達する硬派フラメンコだ。

 そして最後に忘備すべきは、
 岡田昌己の演出力の進化だ。
 彼女はその数ヶ月前の私のへっぽこインタビュー
 (3月号掲載)に、 演出への控えめな自信を見せた。
 だが、この晩彼女が出した回答は私の想像を絶した。
 踊りの化身・岡田昌己のレベルにこそ達していないが、
 その芳醇な演出力には、
 現代が見失いつつある美と華と粋がある。
 
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 2009年12月13日/その167◇正月NHKでツバメンコは翔ぶか?

 ツバメンコ同好会メンバーからの各種情報によれば、
 新春1月3日(日)18:05~18:48に、
 NHK総合テレビにツバメンコこと、今井翼さんが
 出演する見通しとのことだ。
 番組名は『暮らして見る旅』。

 12月の東京ライブに駆けつけ、
 いまやすっかり、今井翼のおやぢファン(50代部門)筆頭!
 となった私としては、これを見逃すことはできない。
 6時開始の新年会の開宴時間を1時間遅らせることで、
 これに対応することにした。

 撮影ロケは、スペインのハエンとのことだ。
 頭に毛が「生えん」という点で、
 私には親しみやすい土地柄である。

 喜ばしいことには、スペインのバルで
 な、なんと、フラメンコを踊ったという情報も入っている。
 番組企画なのか、プライベートなのかは不明。
 そのツバメンコのオンエアを祈るばかりである。
              
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 2009年12月14日/その168◇平穏無事

 ある日曜の午後、思いのほか仕事が早く済んだので、
 散歩がてら渋谷のタワーレコードへと。
 海外のバッハ新譜の掘し出し物は都内随一なのだ。

 処方箋 001.jpg

 お買い上げCDは4種。
 ○14世紀生まれの楽器、クラヴィコードによる
 珍しいバッハ録音。もしかしたらバッハは、
 チェンバロよりもこの楽器を愛していたかもしれない。
 ○シュタットフェルト(ピアノ)とボグラー(チェロ)
 による『ガンバ・ソナタ』は予定外の収穫。
 ○オケバックにフルートで吹く『イタリア協奏曲』は、
 おそらく世界初録音。美人フルーティストの名前
 (Magali Mosnier)は読めない。
 ○今年の新録音だというエリオット・ガーディナーの
 『ブランデンブルク協奏曲』に狂喜。

 帰りは線路際を原宿方面に歩いて、
 明治神宮入口前のオープン・カフェでひと休み。
 カフェ・オレをやりながら5枚のCDをチェック。
 この至福のひとときは、あいにくの雨で中断。
 シュタットのガンバソナタの三番を聴きながら、
 秋深き代々木公園を抜けて帰ろうという
 デラックスプランはおじゃん。

 千代田線でひとつ先の「代々木公園」で下車。
 家まで走って1分なので、雨なんぞは何のそのだ。
 今日は私のチャンコ番だったことを思い出し、
 地上出口のすぐ脇のマルマンで晩飯の買い物。
 特製チャンコの材料と、半額特価のふぐ刺しと、
 連れ合いの好物、みる貝の刺し身を買って帰宅。

 なんだか今日は普通のおっさんらしい生活だなあ、
 と久々に平穏無事のありがた味を満喫しつつ、
 風呂と鍋の準備をしながらのバッハ三昧。
 なんか普通に日記みたいだし。
                    

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しゃちょ日記バックナンバー/2009年12月③

2010年09月12日 | しゃちょ日記

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2009年12月15日/その169◇桜の森の満開の下

 佐藤桂子・山崎泰スペイン舞踊団公演
 ブラックホールシリーズ Part2「満開、桜風伝」
 (2009年12月17日/東京・北千住Theatre1010)
〈b〉佐藤桂子、山崎泰
  杉本光代、池本佳代、外川華奈子、
  横山美奈子、正木清香、他
〈c〉クーロ・バルデペーニャス、アギラール・デ・ヘレス
〈g〉今田央、岩根聡 〈perc〉すがえつのり

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 無頼派。つまりはフラメンコ。 
 坂口安吾は、青春期にもっとも愛読した作家だ。
 全集まで買い込んだぐらいだから、
 その傾倒ぶりはハンパではなかった。
 小説はつまらないが、哲学の合理・独創は超一流。
 私の具体的な行動スタイルは、
 坂口安吾によって決したとも云える。
 堕ちよ、生きよ! そして、また堕ちる。

 あの佐藤桂子・山崎泰フラメンコ舞踊団が
 安吾の作品を採り上げてくれるというので、
 予習も兼ね、およそ30年ぶりに、
 今さっき、『桜の森の満開の下』を読み返した。

 篠田正浩監督によって映画化されたり、
 野田秀樹さんによって舞台化もされたが、
 私はその両方とも観てない。
 原作の凄絶なシーンが、私にストップをかけたのだ。
 安吾がフラメンコになるのは、おそらくこれが初めてだろう。

 毎年一度、もう四半世紀にわたり観続ける、
 佐藤桂子・山崎泰フラメンコ舞踊団。
 森田志保や鍵田真由美などの名手を輩出する名門舞踊団だ。
 日本における本格的フラメンコ・スペクタクルの元祖であり、
 その本格的な舞台性や斬新性は、
 スペインのフラメンコ界よりも先を行っていたかもしれない。
 毎回毎回、意表を突くような衝動が私を待ち受ける。
 
 前回は太宰治『走れメロス』を採り上げた、
 ワクワクドキドキのブラックホールシリーズ Part2。
 そして、今回は私にとってど真ん中ストレート、
 わが青春の坂口安吾である。
 あの数々のむごたらしい衝撃シーンを、
 そして、「堕ちよ、生きよ!」を、どうフラメンコ化する!?

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 20091216日/その170即興痴人

 ほんとうの現実というものは、
 小説や映画を軽々と超えてしまうほどに、
 実に唐突にして即興的なスリルに充ちている。<o:p></o:p>

 小説や映画のようにきちんと振付されたものとは異なり、
 現実というインプロは、
 あまりにも全体的な整合性を欠いているので、
 かえってリアリティが感じられないことも多いのだ。
 それらがまるで、三流フィクションの呈をなすことも多々ある。
 一方で、ドゥエンデは滅多に降りてはくれない。
 だから、実際の話を
 もっともらしいリアリティのある話として伝えるためには、
 逆に少しばかり唐突性を緩和する工夫が
 必要になることもある。<o:p></o:p>

 私の場合は、
 自分の眼に映る真実をより正確に伝えることを目的に、
 自分自身をピエロのように立ち回らせる手法を
 使うことがまれにある。
 この方法を用いると、興味や好感を持った対象の、
 その特徴をシンプルにすっきり描けるメリットが生じるからだ。<o:p></o:p>

 だが、その三流ピエロが、
 時おり本来の役割を忘れて即興で踊り出し、
 真摯に描こうとするドキュメントそれ自体を崩壊に導く難点が、
 現在の悩みどころである。
 まあ、これがおれのフラメンコなんだと、
 ドサクサ開き直っちまう手もないではないのだが、
 その前に、ロクに振付も踊れねえくせしやがって
 即興もクソもねーもんだという周囲の罵声で、
 耳がつん裂けそーである。

        
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 2009年12月17日/その171◇ある種の救い

 カッちゃんとは、1コンパス12年の呑み仲間だ。
 私より四つばかり年下だから、今年50になる。
 南の島の出身で、一見アルゼンチン人のような風貌だが、
 純然たる日本人なので、日本語もそこそこ喋る。
 明るく気立てもいいし、金離れもばっちりだし、
 見方によっては男前だ。

 主にスポーツと政治について、
 彼の卓見にはずいぶんと影響を受けたと思う。
 アパレル関連の社長歴32年のツワモノなのだが、
 自分のメインは音楽(ベース)だと主張してやまない。
 バッハもフラメンコもジャズも演歌もわからぬ奴が
 音楽語るなと決めつける私に、
 オレは天才DJだからさ、と臆するところもない。

 彼の愛した女性を、幾人か知っている。
 ある外国人女性は母国ロシアにトンズラし、
 ある才色兼備の女性は議員に当選し、
 20年下のある女性は道往く人が振り返るチョー美女だ。
 独り身を通す彼の辞書に、浮気はない。
 いつも一人の女性とガチンコと付き合う。らしい。

 そんな彼と、あるとき日本史論議になった。
 日本の犯した失敗をひとつずつ検証しながら、
 「でも、あの失敗は結果的によかったんだと思います」
 と、ひとつづつ丁寧に、彼は付け加えた。
 つまり彼は、過去の失敗はすべて許す。
 だが反対に、現在進行形の失敗には容赦がない。
 潔く徹底するその視点が、
 そこまでは徹底できない私には好ましく映る。
 とにかく、いまその瞬間に全力を尽くす。
 その延長線上にある未来のみが、
 彼の興味の対象なのだ。

 このカッちゃんに代表されるように、私の仲間は皆、
 世の中的にはズレまくるポンコツばかりなのだが、
 今さらそこに気づいたところで、
 すでに軌道修正は困難であるところに、
 ある種の救いがあるかもしれない。

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 2009年12月18日/その172◇国境の超え方

 佐藤桂子・山崎泰スペイン舞踊団公演
 ブラックホールシリーズ Part2「満開、桜風伝」
 (2009年12月17日/東京・北千住Theatre1010)

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 年末のお楽しみ、もう四半世紀近く観続ける、
 佐藤桂子・山崎泰スペイン舞踊団の公演。
 おなじみの鍵田真由美はじめ、優れた女性舞踊手を
 多数輩出する、創設32年の伝統ある名門舞踊団だ。
 文化庁芸術祭の三度におよぶ受賞など、
 舞踊関連の賞をほとんど総なめにしている。

 私が最初に観たのは1986年の『エレクトラ』。
 いや、ぶったまげた。
 それは、初めて私が目にする本格的な
 フラメンコ・スペクタクルだったから。
 その本格的な舞台性や斬新性は、本場スペインの
 劇場フラメンコよりも先を行っていたかもしれない。
 その舞台には、ギリシャ悲劇とフラメンコの足し算ではなく、
 掛け算としての相乗効果がもたらされていた。
 フラメンコはこんなことも出来るのか!
 当時31歳の私は、イッパツでこの舞踊団に心惹かれた。

 この『エレクトラ』は舞踊界全体に大きな衝撃と
 感動をもたらし、芸術祭賞と江口隆哉賞を受賞する。
 フラメンコの実力を舞踊界全般に知らしめたこの舞台が、
 私には誇りに思えた。
 エンタテインメントとして一般に通用する水準にも達していた。
 だが、どフラメンコ派の評判は芳しくなかった。
 その気持ちもわかったが、
 それに同意することは出来なかった。

 設立時から台本・演出を担当する唯一の男性舞踊ソリスト
 山崎泰が、私のインタビューに答えたこんなひと言が、
 今も強烈に脳裏に焼きついている。
 「僕は批評する側の人間じゃなくて、
  批評される側の人間だから、
  どんな批評も喜んで受け入れます」
 その潔い舞台人の信念が、その後も休むことなく
 チャレンジと意欲に充ちた素敵な作品を生み出し続けた。

 そして今回、前回の太宰治『走れメロス』に引き続き、
 無頼派・坂口安吾『桜の森の満開の下』に挑む。 
 坂口安吾は、若い私がもっとものめり込んだ作家だ。
 その哲学の合理・独創は超一流。
 バクチ暮らしのバイブルでもあった。
 小説はヘボだったが、『桜の森の満開の下』は唯一の傑作。
 篠田正浩監督によって映画化されたり、
 野田秀樹さんによって舞台化もされた。
 「堕ちよ、生きよ!」という彼の実戦的哲学によって、
 私の行動スタイルは決定されたが、惜しくも私の場合、
 そのあと「また堕ちる」という、
 残念な結果を引きずりながら今日に至っている。

 ひと晩明けて、脳裏に映るのは、
 舞台を夢幻化した桜のファンタジックな美しさと、
 その美しさを幾倍にも拡大した舞いの数々だ。
 「桂子先生の踊りって、ほんとにステキだよね」
 終演後、ばったり出喰わした西脇美絵子が、
 開口一番こう云った。
 フラメンコ界を代表した絶世の美女、
 佐藤桂子が桜を舞うシーンには、
 原作の凄艶美を凌駕する、夢のような現実が在った。

 舞台中盤、古の都を
 現代の都会に置き換える演出にはやられた。
 こんなところにも、この舞踊団の斬新・闊達なセンスがある。
 作品コンセプトを忠実に体現する舞踊団メンバーには、
 いつものように、自立とエロさに充ちた凄みがあった。
 舞踊家・山崎泰は、安吾という題材に打ってつけだった。
 原作の外観は、いつものようにデフォルメされていたが、
 桜や安吾の潔さと、潔い山崎のラストシーンの邂逅は、
 原作の本質のド真ん中を鋭く貫いていた。

 唯一の不満は、生フラメンコとのシンクロの弱さだ。
 べートーヴェンやピアソラからは、あれだけ見事な
 舞踊と音楽の理想的な相乗効果を引き出すのに対し、
 カンテ、ギターなどとの絡みには、その濃密さを欠いている。
 そこには、あくまで舞台全体を重視し、
 フラメンコのみを突出させないバランス感覚を感じるのだが、
 やはり私はこんなワガママを云ってみたい。
 何故なら私は、この命題こそが、この極めて優れた舞踊団が
 より発展・深化するための大きなポテンシャルと考えるからだ。

 佐藤桂子・山崎泰スペイン舞踊団には、いつでも
 エロス(生への衝動)とタナトス(死への衝動)が共存している。
 だから、思わず息を呑むようなおどろおどろしいシーンが
 決まって唐突に出現する。
 その真摯な毒性が「どフラメンコ派」を引かせる要因だろう。
 だが、もうひとつ奥の次元に踏み込んで視るなら、
 それらは国境を超えて、
 見事にフラメンコの本質と合致している。

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 2009年12月19日/その173◇レオンハルトのバッハ全集

 グスタフ・レオンハルト。
 バロック音楽を現代に蘇生させた巨匠。
 世界中の音楽ファンに愛される、
 オランダのキーボード奏者(主にチェンバロ)である。
 映画でバッハの役を演じたこともある。

 小石川・共同印刷のハードなバイト(電話帳製本)で
 メシも抜きぬき、時給230円で10時間働いて、
 ようよう買えたレオンハルトの初めてのレコード。
 うれしかったね。
 そのチェンバロ演奏に夢中でカブりついた高校時代。
 別にLP盤をむしゃむしゃ喰ってたわけじゃないけど。
 
 今年になって、そのバッハ全集が出た。
 20枚組ボックスセットで1万円である。
 1枚なんと500円である。
 それらすべてを持っているのだが、躊躇なく買った。
 分厚い解説書も付いてたしね。

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 国境を越えて、
 たくさんのバッハファンを育てたレコードたち。
 それが今じゃ、1枚たったの500円かよ。(涙)
 そんなんじゃアーティスト印税は雀の涙だよ。
 アートばかりは、安けりゃいいってもんじゃない。
 ま、普及のためには安価は好ましいからと、
 無理やり自分を納得させ、3枚ばかり聴く。

 『ゴルトベルク変奏曲』
 『パルティータ』
 『フーガの技法』

 適度に重たいモノクロームの世界に、
 繊細な色彩が点滅するような、
 レオンハルトの宇宙が広がる。
 睡眠不足をものともせずに、
 リラックスしながらタイミングを見計らい、
 その宇宙にワープする。
 しばしの宇宙遊泳。
 てゆーか半分くらい眠っちゃってるし。

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 2009年12月21日/その175◇ありゃりゃ

 「ペースメーカーの人がいるかもしれないから、
  携帯のスイッチは切りなさい」

 シルバーシートに座る、携帯に夢中な少年に対し、
 そのとなりに座る男性が、こう注意した。
 その男性は40歳そこそこだった。

 小田急に乗ってたら、こんな光景に出食わした。
 てゆーか、二人ともまずその席譲んないと。
 だがその直後、私も乗るその車両が
 「女性専用車両」であることに気づいた。(汗)
         
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しゃちょ日記バックナンバー/2009年12月④

2010年09月12日 | しゃちょ日記

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 2009年12月24日/その178◇フラメンコとパセオと"しの"の化学反応

 mixiのモニター・トピへの寄稿
 パセオ公式モニター「しの/東京都」より

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 パセオフラメンコ1月号。
 A面B面構成は見やすくなって良いです。
 「読み物」と「情報」が完全に分かれて、2冊が一冊になったみたいな感じですね。
 今までなんとなく読みにくかったのはこれだったのですねえ。
 読みにくかったというのはつまり、1ページ目から順番に読んでいくと、
 文字の海に溺れそうな感じがあったわけです。
 ずーと読んでって、最後の方のライブ情報を見ても、
 もうライブを見に行く元気がなくなってる、そんな感じ。
 お陰さまで、あたしみたいなおバカにも読みやすくなりました~

 写真は、カラスコのアップに圧倒されました。
 まじまじと眺めてしまった。
 見据える勇気を持って踊らねば、と思わされました。

 全体的に、すぐ効く抗生物質というよりは、じわじわ効いてくる
 漢方薬みたいな雰囲気になったと思います。
 逆に、続ける(繰り返す)から効く。漢方薬みたいに続けて、
 繰り返し繰り返し読むための策として、
 持ち歩きに適したサイズに変えるのもアリだと思います。
 いろんな事情で今のサイズなんだとはおもいますが、
 小さいといいのにな・・・と思うことがしばしばなので。
 今回、その感は強くなりました。

 インタビューシリーズは期待以上でした。
 実は、鍵田真由美さんにはあまり今まで興味がありませんでした
 (いや、と言っても、教則本とか持ってんですよ)。
 自分がバレエダンサーだったこともあってテアトロものには
 厳しい自分がいるのです(いっちょまえ~笑)。
 他ジャンルとコラボするダンス、というのがあんまり好きではないというのもあって。
 ただ、「踊る」肉体を持っているダンサーの方だなあとはいつも思っていました。
 今回、しゃちょのインタビューによって、そのマインドがわかり、
 どうやってフラメンコに向き合っていくかのヒントをいただきました。
 それで、機会があったらやはり鍵田さんの踊りは見るべきだなあと。
 何より、どこを目指してやっていったらいいのかなあと悩んでいた私に、
 どこかを無理して目指す必要はないとわからせてくれました。
 このインタビューは、読む人すべてに見事に何かを残すはず。読んで良かった!

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 『フラメンコとパセオと私の化学反応』というテーマに、
 まさにド真ん中直球ストライクだす。
 ありがとう、しの!
 4月号の増頁特集(しゃちょ企画第三弾)に掲載決定!
 なので、手ぬぐい1本ゲットー!!!!!
                   コメント顔/しゃちょ.jpg
>全体的に、すぐ効く抗生物質というよりは、じわじわ効いてくる漢方薬
 ●あ、うれしい指摘だす。
 これは3年間のmixi暮らしからの結論ですた。
 時代に逆らうようでいて、実は時代に一番求められているものじゃないかと。

>いろんな事情で今のサイズなんだとはおもいますが、小さいといいのにな・・・
●実は今年6月ごろ、「脱雑誌、めざせ読み物専門誌」を実現するために、以前そうだった、今の約半分の大きさ「A5判」を検討していました。
 そう、ハンドバッグに入るサイズね。
 しかし、次の2つの理由で、とりあえずこれを断念しました。
 ①フラメンコ写真のインパクトが伝えられない。
 ②制作コストが、トータルで180%増になってしまう。
 次に、創刊当初の「B5版」を検討しました。
 しかし、次の2つの理由で、とりあえずこれを断念しました。
 ①制作コストが、トータルで150%増になってしまう。
 ②なんか中途ハンパだよなあ。
 というプロセスから、サイズはそのままで行くことしました。
 でも、ほんとの私のイメージは、いつでも本棚の片隅にある
 「安くてコンパクトで大切な文庫本」なんですね。
 だからA5版がいちばん近いイメージ。
 迷った時に取り出して、いつでも解決のヒントの源になってくれるような。
 実売数を増やせば、コストの問題は解決しますが、写真の問題が残ってしまう。
 今回のカラスコのようなド迫力が難しくなるから。
 つーことでサイズ問題の解決は据え置き。
 いつか変える時には、大アンケートの結果を参考にするつもり。

>このインタビューは、読む人すべてに見事に何かを残すはず。
●あ、ありがてえ
 フラメンコ界の内外の辛口モニター数名に、
 このシリーズを3本ばかり読んでもらって好感触を得ていたのですが、
 ショージキ大胆すぎて不安はありますた。
 (ま、不安が的中する可能性はまだまだ高い)
 この企画は100%、mixi成果。
 そう、みんなの影響と私のやりたいことが見事に合致した。
 アフィシオナードのツボはここにあると信じられたし、
 そのツボにヒットするアフィシオナードこそ、
 パセオにとってもっとも大切な読者層だと思ってるんだ。

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 2009年12月27日/その181◇ゾウリ虫の生態

 朝風呂に飛び込み、
 パセオHPを各種更新し、
 たっぷりジェーと散歩してから、
 メシを食いくいNHK将棋トーナメントを
 観戦するのは、日曜朝の定番コースだ。

 序盤のゆるやかな局面の合い間に、
 三十数年前にプロ入りした、
 かつての将棋仲間たちを想い出すことも多い。
 嫉妬の感情を超えて、
 彼らの活躍を素直に喜べるようになったのは、
 やっとのことで自分も好きな道で
 食えるようになってから、
 さらにしばらくしてからのことだったように思う。

 プロ入りしなかった連中の多くも、
 東大経由で皆そこそこ楽しげな職業に就いた。
 どちらの素養も努力もなく、
 二流大学の哲学科に籍だけ置いて、
 裏街道を七転八倒しつづける私は、
 仲間内では唯一の異分子だった。

 マグロの群れにまぎれ込んだイワシ。
 かつては自嘲的にそう謙遜したが、
 さすがに近ごろは自分自身を冷静に分析できる。
 実際の私は、
 クジラの群れにまぎれ込んだゾウリ虫だった。

 ヨランダ/だめ!.jpg

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 2009年12月28日/その182◇何度でも噛み締めたい

 パセオ新年号についてのガチンコ・モニター欄、
 しゃちょ友みゅしゃの感想の、その冒頭を抜粋。

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 パセオフラメンコ1月号。
 まず、読み返したくなる記事は、
 濱田滋郎先生の「なんでかなの記」です。
 「第一話 優しい原風景」という
 タイトルからして泣けてきます。
 お父様が『泣いた赤鬼』の作者と知って、
 驚いたと同時に、腑に落ちるものがありました。
 濱田先生の柔らかな語り口に、くすっと笑わされ、
 しだいにしみじみとさせられるのは、
 心地の良いものです。
 『泣いた赤鬼』を、
 まだ幼い我が子に読み聞かせをしながら、
 自分で涙ぐんでしまったことがあります。
 その時の感情を思い出し、オーバーラップしました。
 
 読み返したいというのは、つまり、
 文章に込められている世界観を
 何度でも噛み締めたいということ。

 記事のインパクトも大事ですが、
 文章自体の持つ力も大きいのだと思います。
 今後24回、味わえるのが、楽しみな連載です。

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 上記太文字部分のみゅしゃの言葉に、目からウロコ。
 読んだ瞬間、私の中には
 やたら大きな化学反応が発生していた。
 迂闊な私はこれまで、
 そのような言語化が出来ないでいたのだが、
 新生パセオで実現したかったのは、
 まさしくそんなイメージだった。

 森林資源の伐採に加担する出版業界。
 この現代における紙メディアの最大使命は、
 まさしくしそれだと思い当たる。
 愛すべきフラメンコという題材を通して、
 月刊パセオで私がやりたかったのは、
 まさしくそれだった。
 物質文明と世の不況の行き詰まりの中で、
 「フラメンコと出版」という組み合わせにおける
 最良の仕事が、それだと思った。

 フラメンコは万華鏡であり、
 その魅力は人の数(なくなった人も含めて)
 だけあると思う。
 私がやりたいのは、 タイプの異なる
 そのひとつひとつの深い味わいを、
 主に文章・写真などの手段をもって、
 反芻可能に誌面化すること。
 フラメンコの理解上達の最大のヒントも、
 豊かな人生を送るための最良のヒントも、
 実はそこにあると思っているから。

 ちなみに、
 めったに書かないお手紙を濱田先生にお送りして、
 生イキにもこの私が唯一リクエストしたのは、
 この一点だった。 『濱田滋郎というフラメンコ』。

 「文章に込められている世界観を
  何度でも噛み締めたいということ」

 現在の私個人のそれは、藤沢周平、土屋賢二、
 関川夏央、 バッハの楽譜、などだったりするわけだが、
 そこに、パセオフラメンコを加えてゆくことが、
 余生最大の野望・・・てゆーか、祈り。なのかも。

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 2009年12月30日/その184◇心の音

 足(サパテアード)は打楽器。
 そんな意味でフラメンコの舞踊手には、
 優れたミュージシャンが多い。
 人気バイラオーラのAMIさんのサパテアードなどは、
 生音を聴いてると、美しい歌が聞こえてくるかのようだ。

 ami.jpg

 さて、それとはちょっと違うのだが、
 プロの将棋指し(専門棋士)の将棋を指す駒音にも、
 音楽を感じることが多々ある。
 総じて一流棋士にそれは顕著だ。
 それは、棋士が公務員だった江戸時代からの
 伝統だったのではないかと想像する。
 
 「ぴしっっっ......」と指す。
 その「ぴしっ」という音は、清冽に澄んでいる。
 耳が良くないと、ああいう音は出せない。
 続く「っっ......」の余韻がまた素晴らしく深いのだ。
 それはまるでギターのアポヤンドの余韻のようでもある。
 つまり、いい駒音を出せる棋士は、
 「指す」というより「弾いている」。
 それぞれが独自の音色を持っている。
 そこには明らかに音楽家の感性がある。
 
 もちろん、ある一定の条件は必要だ。
 プラスチックの駒や木製の安駒では、
 瞬発的にそれなりの音を出すことは出来ても、
 さすがにあの余韻は生じない。
 駒(つげ)と盤(かや)に、
 それぞれ百万、二百万ぐらいはかけたいところだ。
 ヴァイオリンの世界のストラディなんかだと
 億単位なわけだから、ま、それに比べりゃ安いもんだ。

 ただし、私のようなヘボだと、
 たとえウン百万の盤駒を使っても、
 プロ棋士のような音は出せない。
 素人がストラディ弾いても、
 いい音が出せないのと一緒だな。
 また、駒を操るテクニカの問題だけでもなさそうだ。
 それはむしろ、サパテアードの心に通じている。

 プロをめざした十代半ばに夢中で指してる頃は、
 ひたすら勝つことだけに必死こいてたものだから、
 駒音の音色や響きなんかには、まるで無頓着だった。
 何にせよ強くはなれなかったわけだから、
 ならばせめて、歪んだ心でも修正しながら、
 もっといい音出す修行でもしとくんだったよ。
 とほほ3.jpg

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 2009年12月31日/その185◇神パコ・デ・ルシア、活動再開!

 スペイン在住・志風恭子の昨日の『フラメンコ最前線』で、
 フラメンコギターの神、パコ・デ・ルシアの活動再開を知る。
 『パコ・デ・ルシアのヨーロッパ・ツアー
 ああ、よかったあ!
 日本ツアーもあり得るかもしれない。
 年明けの最初の仕事は、国内有力プロモーターへの
 パコの招聘要請となりそうだ。

 pacodelucia.jpg

 それにしても、志風のフラメンコ情報は、
 いつでも正確な上に、吉野屋の牛丼みたいに、
 早い!、安い!(無料)、美味しい!
 スペインのアフィシオナードよりも恵まれた情報環境に
 わたしら大感謝しなくちゃな。

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 さて、本日大晦日。
 散歩の楽園、ご近所・明治神宮。
 正月は大変な人混みとなるので、
 その前日の大晦日の真っ昼間に、
 フライング初詣をするのは、
 ここ数年、わが家の定跡となっている。
 
 明治神宮.JPG

 その後は、新宿・小田急で買い物。
 連れ合いは明日の新年会で作るパエージャ等の材料を、
 私は本日の鍋パーティーと正月用の肴を仕込む。
 
 わが家の本チャン初詣は元旦朝イチの代々木公園。
 広々とした空間と深々とした森に対して、
 ジェーもいっしょに、漠然とした感謝を捧げる。

 つーことで、今年もいよいよ今日でおしまいだね。
 たくさんの方々に、いろいろお世話になりますた。
 ほんとうにありがとう!
 来年もどーぞよろしくねっ!
 それでは、皆さま、どーか、よいお年を!

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