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2009年09月01日/その63◇人類の最終兵器
この夏のフラメンコ新人公演の二日目。
パセオ本誌でもおなじみの堀越千秋画伯(&カンタオール)と、
会場近くの中野駅前で昼メシを食った。
そのおり三時間ばかり、いろんな話をした。
パセオ新年号から担当する私の連載枠にゲスト出演してねという話とか、
再来年2011年は1年間連続で画伯の描く
スペインの新旧トップアーティスト12名で行こうよという話とか、、
あっ、堀越さんのデザインでフラメンコTシャツ創ろうよ、という話などなど。
ふと思いついて、「ねえ、日刊パセオで日記書いてみない?
ノーギャラなんだけどさ」と私が云うと、
「ああ、気が向いたらな」と、画伯は応えた。
チョー多忙な画伯に思いつきでナニお願いしてんだオレと反省していたのだが、
月曜には早くもその第二回目のアップである。
日記原稿については、画伯が携帯メールで私のPCに送信し、
それを私が翻訳(全部ひら仮名なのをテキトーにカタカナや漢字にするだけだけど)
してアップするという、他にはあまり類をみない最新システムを採用している。
その最新日記のお題は「選挙と阿波踊り」。
ま、とりあえず、おもろいから読んでみ。
さてその数日後、画伯とデスヌード(小島章司&佐藤浩希ほか)の
ライブ会場でバッタリ遭遇し、堀越千秋演出・監督という貴重なDVDを頂戴した。
親しい役者さんの自費版のプロモーション映像だという。
この日曜日にじっくり拝見させていただいたのだが、
それは全編抱腹絶倒の知性あふれるお笑い短編集DVDだった。
ときおり、肝心なボケどころで監督自身も特別出演している。
中でも『フルトヴェングラーの弟子』というチョー傑作にはハラから笑ろた。
アートや人生の歓びやほろ苦さを格調高く謳う、
画伯の文章にあふれるあのユーモアの正体をその映像に垣間見た。
笑いに対する画伯の執着と創造意欲は、
私の想像をはるかに超えていたのである。
何をやらしても超一流な画伯を、一銭にならぬことでも、
そこまでのめり込ませる「笑い」という名の人類の最終兵器。
何をやらしても三流どころの私が、
同じくそれにのめり込むのも無理はないやなと、改めて思った。
堀越千秋 Official Website はこちら
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2009年09月02日/その64◇にわか雨とカンテ・ボニート
ある日曜の昼下がり。
せっせと家で仕事をかたづけていたら、
ふとバッハの無伴奏チェロが恋しくなって、
ならば散歩しながら聴こうじゃねーのとサボりを決め、
いそいそ家を飛び出す。
アップダウンの多い上原から、
西原、幡ヶ谷、笹塚あたりをブラついていたら、
にわか雨にやられた。
傘がない。
行かなーくちゃ、君に逢いに行かなくちゃ~♪ と、
条件反射で陽水を歌ってしまう私はまだまだ青い。
折りよく見つけた昔ながらの喫茶店に飛び込む。
一服つけながら、
あらかじめガムシロップが入っているかもしれない、
昭和的アイス珈琲を待つ。
すると、奥のカウンター付近で、
ご近所仲間らしい70歳前後のおっさん5、6名が、
競馬やら野球やらをネタに、
何やらワイワイ楽しそうにおしゃべりしている。
ペペ・マルチェーナのカンテ・ボニートが聞こえてきそうな、
さすがの年輪を感じさせる、
洗練されたゆる~いユーモアと深いペーソス。
う~む、悪くないなあ、この感じ。
誰もが避けることのできない“老齢”に対する親近感が、
さくっと芽生えたりもするのはこんな瞬間である。
うんと若い連中もたくさん出入りするご近所の呑み屋で、
私ら世代もこんな風に楽しげにやれているだろうか、
それなりに良さげなアイレを発しているだろうかと、
あわてて自分の胸に手をあててみる。
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2009年09月03日/その65◇勝負はこれから
[パセオ1984年11月号]
調べもので創刊当初のパセオをぱらぱらやってたら、
10月に女王マヌエラ・カラスコ、
11月にはギターのビクトル・モンヘ・セラニート
(パコ、サンルーカルと共にビッグスリーと呼ばれた)の来日公演がある。
邦人では、岡田昌巳、倉橋富子、田中美穂、小島章司ら
豪華メンバーによるソロリサイタルが目白押しだ。
渋谷ジァンジァンの名物だった懐かしの
ペペ・イ・ペピータ“アンダルシアの閃光”もあるし、
飯ヶ谷守康、鈴木英夫、三澤勝弘という
当時のフラメンコギター三羽烏によるジョイント公演(私の主催)もある。
新宿エル・フラメンコの出演者は、何とあのファミリア・フェンルナンデスである。
カンテのクーロ親父、同じくカンテのエスペランサ(19歳!)、
ギターのぺぺ(18歳)、バイレのホセリート(16歳)、
それとコンチャ・バルガス(!)など、
今じゃ集めるだけでも大変なモノ凄えメンバーだよ。
第一回東京スペイン映画祭(東急名画座/1984年11月16日~30日)では、
日本でも話題になったビクトル・エリセ監督『エル・スール』など、
トータル10作品が上映されている。
中でも上映回数が一番多かったのは、われらがアントニオ・ガデスと
クリスティーナ・オヨス主演による『血の婚礼』(カルロス・サウラ監督)だった。
日本のフラメンコ人口が、
現在の数パーセントに過ぎなかった25年前のお話で、当時私は29歳。
世の中にもっともっとフラメンコをアピールしなくちゃと、
若さだけを武器にシャカリキに奔走していた頃だが、こうして振り返ると、
それなりに豊かな環境がすでに存在していたことに驚かされる。
幸い踊る人口はドカンと増えたが、
フラメンコの未来創りをリードするアーティストを縁の下から支えるファン層が
あまり育っていない現状に改めて愕然とする。
つまり、普及発展のためのトータル・バランスは、あんまりよろしくない。
なにやってんだパセオ。なにやってんだオレ。
「まだまだ、これからがほんとうの勝負じゃあ」
とりあえず、そう明るく叫んでみる。
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2009年09月04日/その66◇自由のワナ
[パセオ1985年1月号]
きのうに続き、むかし話。
1984年11月に行なわれた
"スペイン映画祭"の開催に先立っての記者会見。
日本でも大ヒットした映画『カルメン』のカルロス・サウラ監督ほか
全六名からなる、スペインを代表する映画監督が来日したのだ。
にもかかわらず、記者の方は私を含めても
大監督ご一行と同じくらいの人数しかおらんではないか。
がび~ん。こ、これは、いか~ん!
あわてて私も質問を飛ばしまくることになったわけだが、
監督たちを盛り上げるツッコミができなかったことが、
今さらながら悔やまれる。
当時から私はボケ専だったのだ。
さてその折、私のとなりの鋭そうな記者さんと、
もの静かで奥行きが深そうなインテリ紳士、
フアン・アントニオ・バルデム監督による以下のやりとりは、
25年の歳月を経て、いまも私の脳裏に深く鋭く焼きついて離れない。
なお、バルデム監督(享年80歳で2002年他界)はフランコ独裁制の下、
社会派の映画を数々発表し、ルイス・ブニュエルと共に
スペイン映画界の一時代を形成した名監督である。
――――フランコ体制の時代とそれ以降では、
映画制作についてはどうような変化がありましたか?
「フランコという独裁者が死んだことによって、
スペイン全体に民主的自由がもたらされました。
特にわれわれ映画人にとっては、
「表現の自由」というところまで具体化したわけです。
現象的には、われわれは以前は保安警察や検閲の網をくぐり抜けつつ、
自分たちの主張を表現してきたわけですが、
自由化以降はそうしたことをしなくとも
自由に映画を作れるようになったわけです。
しかしながら、私個人としては、
「フランコに敵対していた時の方がより良く生きていた」
という感想を持っています。
つまり、フランコ時代には法律や圧力に抵抗しつつ、
スペインの現実に対し批判の目を育てつつ、
これを展開してゆくことが出来ましたが、
自由になってから、われわれ映画人たちが
批判の目を失いつつあるという現状があるからです。
われわれは今ここで、
新しい方法を作り出さねばならない時期にきていると思います。」
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2009年09月05日/その67◇やれば出来るさ
[パセオ/1985年10月号]
年寄りのむかし話シリーズ第三弾。
この号の特集は「第一回清里スペイン音楽祭」。
1985年8月23日~25日の三日間。
濱田滋郎師匠、慶子夫人、吾愛さんご一家主催による、
あの伝説の“清里スペイン音楽祭”の
その記念すべき第一回目。
そのレポートを担当したのは私だが、
まるで現在の私の魂が憑依したかのような
悲惨な出来映えである。
それにしても、フラメンコもクラシックも一流どころが集結して、
めっちゃめちゃ楽しいお祭りだったよなあ。
さて、そんな天国・清里から戻ると、
「実家がもらい火事でやられた」との急報。
すわっと駆けつければ、幸い家族は全員無事で、
私のお宝LPレコード数千枚は全焼。
へこむ家族の面倒、火元との賠償交渉、日常業務、
招聘したドイツ人クラシックギタリストのプロモートと世話。
通訳予定の先代女房は過労で倒れ、
喋れぬ英語で切り盛りするが、
パセオの締切は無情に迫る。
毎日二、三時間の睡眠で地獄の2週間を乗り切り
「やれば出来る」ということを生まれて初めて知った。
「便所まで丸焼けで、もーヤケクソっ」という渾身のギャグが、
至るところで不評を買ったことのみが無念じゃあ。
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2009年09月06日/その68◇日曜日はカマロン
[カマロン/カジェ・レアル]POLYGRAM 1983年
どーです、このカッチョええジャケットは!
グッドデザイン賞もんだよ。
でも中身は、もっともっと凄い。
日曜朝は『カジェ・レアル』でなければ始まらない。
数千はあるフラメンコCDの中でも、
フィジカルな快感度はいちばんかもっ!
オープニングからいきなり、
カマロンは気合いの入りまくりで、
あおりにあおる豪華バック陣(パコ・デ・ルシアやトマティート)の
パッションを全身に受けとめ、
胸のすくような疾走感でラストまでを歌いぬく。
ドラマティックな高揚感を伴うシャガレた美声と、
原野を駆けぬける豹のように敏捷で力強いリズム感は、
メンバーたちに即フィードバックされ、
互いに相討ち覚悟で鋭く踏みこむ。
うねりながら躍動するアンサンブル、
スタイリッシュで野性的な超絶技巧、
命のよろこびが弾けるコンパス。
それらが渦巻き合いながら高めあう灼熱のスパークは、
人々の魂に、好ましい刺激をたたき込む。
カマロンは、
日々の生活の中に“祭り”のインスピレーションが
充満していることを熟知していて、
それをサックリ切りとり、
私たちの心に響かせることを楽しんでいるかのようだ。
ひとり引きこもる不毛や、
周囲に当たり散らすヒステリックな不毛の狭間に、
人間のポテンシャルの頂点を探り当てたセンスには、
今さらながら息を呑む。
その視点からは、人生の仕組みや幸福の本質が、
さっくり見えているのにちがいない。
それにしてもこの音楽の新鮮さはどうだ。
26年も前の録音なのに、
まるでさっき出来上がったばかりみたいに、
ピチピチ跳ねてイキがいい。
かくして輝ける日曜日は幕をあけ、
私たち聴き手も、それぞれの祭りに没入するのだ。
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2009年09月07日/その69◇帰り道は遠かった
まるで仏さまのようなお人柄なのに、
当時から音楽界の神さま的存在だった
濱田滋郎先生のお宅に、はじめてお邪魔した時のことを
昨日のことのように想い出す。
当時の私は20代半ばだったから、
それからすでに三十年の歳月が流れている。
音楽プロモーターの駆け出しだった私は、
主催するコンサートのプログラム解説をお願いに、
いくぶん緊張しながら小田急線・柿生にある濱田邸に赴いた。
そんな私に実に親身に温かくご対応くださったのが、
初めてお目にかかる先生の奥さまだった。
音楽業界では孤立無援のチンピラ同然であり、
またそれ以前のやさぐれ稼業のすさみを
多く残していたであろう若く生意気な私。
神さまの奥さまから、そんな自分が、
まるで一人前の業界人であるかのような応接を受け、
舞い上がらんばかりに喜んだことは云うまでもない。
たわいもないことかもしれないが、
こうしたさり気ない人の優しさをきっかけに、
私のようなダメ人間が大きな自信を与えられ、
それが前に踏み出す勇気につながってゆくようなケースは、
実人生においては案外と多いのではなかろうか。
やがてパセオを創刊し、尚も七転八倒を続ける私にとって、
濱田邸は憩いの場所で在り続けた。
それは極寒の中で与えられる、
ミルクたっぷりの温かなココアのような感触だったと思う。
多くのクラシック音楽やフラメンコの関係者が、
濱田先生や奥さまの人柄から、
こうした見えない恩恵を受けていることが容易に想像できる。
そんな濱田先生の奥さま、慶子(よしこ)夫人が、
この夏のおわり、8月31日に永眠された。
74歳だった。
年齢は存じ上げなかったが、
初めてお目にかかった頃の慶子夫人は、
私の連れ合いの今と同じくらいの年齢だったことになる。
互いにバツイチ同士で再婚した私たち夫婦は、
式も披露宴も省略させてもらったのだが、二人して
お世話になりっ放しだった先生ご夫妻のもとにだけはと、
柿生のご自宅にご挨拶に赴いたのが11年前のことだ。
そして先週9月3日、私は慶子夫人のお通夜に参列、
連れ合いはお通夜と告別式の受付をさせていただいた。
たくさんの弔問者の胸の内は、
おそらく共通する心からの哀悼だったと思われる。
内助の功。
日本において、それはすでに死語かもしれない。
ほとんど表面には出ないが、世の中を縁の下から支える力。
慶子夫人のご冥福をお祈りしつつも、
あのお優しい人柄は、それを慕う人々の心の中に
生き続けるであろうことを思わずにはおられなかった。
きびしく世渡りを教えてくれる人は絶対に必要だが、
やさしく世渡りを支えてくれる人は同じくらい必要だ。
………ふうっ。
私はそのどちらも出来てないなと、ため息ついた。
お通夜からの帰り道はとても遠かった。
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