フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

しゃちょ日記バックナンバー/2009年9月①

2010年09月09日 | しゃちょ日記

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 2009年09月01日/その63◇人類の最終兵器

 この夏のフラメンコ新人公演の二日目。
 パセオ本誌でもおなじみの堀越千秋画伯(&カンタオール)と、
 会場近くの中野駅前で昼メシを食った。

 そのおり三時間ばかり、いろんな話をした。
 パセオ新年号から担当する私の連載枠にゲスト出演してねという話とか、
 再来年2011年は1年間連続で画伯の描く
 スペインの新旧トップアーティスト12名で行こうよという話とか、、
 あっ、堀越さんのデザインでフラメンコTシャツ創ろうよ、という話などなど。

 ふと思いついて、「ねえ、日刊パセオで日記書いてみない?
 ノーギャラなんだけどさ」と私が云うと、
 「ああ、気が向いたらな」と、画伯は応えた。
 チョー多忙な画伯に思いつきでナニお願いしてんだオレと反省していたのだが、
 月曜には早くもその第二回目のアップである。
 日記原稿については、画伯が携帯メールで私のPCに送信し、
 それを私が翻訳(全部ひら仮名なのをテキトーにカタカナや漢字にするだけだけど)
 してアップするという、他にはあまり類をみない最新システムを採用している。
 その最新日記のお題は「選挙と阿波踊り」。
 ま、とりあえず、おもろいから読んでみ

 さてその数日後、画伯とデスヌード(小島章司&佐藤浩希ほか)の
 ライブ会場でバッタリ遭遇し、堀越千秋演出・監督という貴重なDVDを頂戴した。
 親しい役者さんの自費版のプロモーション映像だという。
 この日曜日にじっくり拝見させていただいたのだが、
 それは全編抱腹絶倒の知性あふれるお笑い短編集DVDだった。
 ときおり、肝心なボケどころで監督自身も特別出演している。
 中でも『フルトヴェングラーの弟子』というチョー傑作にはハラから笑ろた。

 アートや人生の歓びやほろ苦さを格調高く謳う、
 画伯の文章にあふれるあのユーモアの正体をその映像に垣間見た。
 笑いに対する画伯の執着と創造意欲は、
 私の想像をはるかに超えていたのである。
 何をやらしても超一流な画伯を、一銭にならぬことでも、
 そこまでのめり込ませる「笑い」という名の人類の最終兵器。
 何をやらしても三流どころの私が、
 同じくそれにのめり込むのも無理はないやなと、改めて思った。

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         堀越千秋 Official Website はこちら

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 2009年09月02日/その64◇にわか雨とカンテ・ボニート

 ある日曜の昼下がり。
 せっせと家で仕事をかたづけていたら、
 ふとバッハの無伴奏チェロが恋しくなって、
 ならば散歩しながら聴こうじゃねーのとサボりを決め、
 いそいそ家を飛び出す。

 アップダウンの多い上原から、
 西原、幡ヶ谷、笹塚あたりをブラついていたら、
 にわか雨にやられた。
 傘がない。
 行かなーくちゃ、君に逢いに行かなくちゃ~♪ と、
 条件反射で陽水を歌ってしまう私はまだまだ青い。
 折りよく見つけた昔ながらの喫茶店に飛び込む。

 一服つけながら、
 あらかじめガムシロップが入っているかもしれない、
 昭和的アイス珈琲を待つ。
 すると、奥のカウンター付近で、
 ご近所仲間らしい70歳前後のおっさん5、6名が、
 競馬やら野球やらをネタに、
 何やらワイワイ楽しそうにおしゃべりしている。
 ペペ・マルチェーナのカンテ・ボニートが聞こえてきそうな、
 さすがの年輪を感じさせる、
 洗練されたゆる~いユーモアと深いペーソス。

 う~む、悪くないなあ、この感じ。
 誰もが避けることのできない“老齢”に対する親近感が、
 さくっと芽生えたりもするのはこんな瞬間である。
 うんと若い連中もたくさん出入りするご近所の呑み屋で、
 私ら世代もこんな風に楽しげにやれているだろうか、
 それなりに良さげなアイレを発しているだろうかと、
 あわてて自分の胸に手をあててみる。
               
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 2009年09月03日/その65◇勝負はこれから

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 [パセオ1984年11月号]

 調べもので創刊当初のパセオをぱらぱらやってたら、
 10月に女王マヌエラ・カラスコ、
 11月にはギターのビクトル・モンヘ・セラニート
 (パコ、サンルーカルと共にビッグスリーと呼ばれた)の来日公演がある。

 邦人では、岡田昌巳、倉橋富子、田中美穂、小島章司ら
 豪華メンバーによるソロリサイタルが目白押しだ。
 渋谷ジァンジァンの名物だった懐かしの
 ペペ・イ・ペピータ“アンダルシアの閃光”もあるし、
 飯ヶ谷守康、鈴木英夫、三澤勝弘という
 当時のフラメンコギター三羽烏によるジョイント公演(私の主催)もある。

 新宿エル・フラメンコの出演者は、何とあのファミリア・フェンルナンデスである。
 カンテのクーロ親父、同じくカンテのエスペランサ(19歳!)、
 ギターのぺぺ(18歳)、バイレのホセリート(16歳)、
 それとコンチャ・バルガス(!)など、
 今じゃ集めるだけでも大変なモノ凄えメンバーだよ。

 第一回東京スペイン映画祭(東急名画座/1984年11月16日~30日)では、
 日本でも話題になったビクトル・エリセ監督『エル・スール』など、
 トータル10作品が上映されている。
 中でも上映回数が一番多かったのは、われらがアントニオ・ガデスと
 クリスティーナ・オヨス主演による『血の婚礼』(カルロス・サウラ監督)だった。

 日本のフラメンコ人口が、
 現在の数パーセントに過ぎなかった25年前のお話で、当時私は29歳。
 世の中にもっともっとフラメンコをアピールしなくちゃと、
 若さだけを武器にシャカリキに奔走していた頃だが、こうして振り返ると、
 それなりに豊かな環境がすでに存在していたことに驚かされる。

 幸い踊る人口はドカンと増えたが、
 フラメンコの未来創りをリードするアーティストを縁の下から支えるファン層が
 あまり育っていない現状に改めて愕然とする。
 つまり、普及発展のためのトータル・バランスは、あんまりよろしくない。
 なにやってんだパセオ。なにやってんだオレ。

 「まだまだ、これからがほんとうの勝負じゃあ」
 とりあえず、そう明るく叫んでみる。

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 2009年09月04日/その66◇自由のワナ

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 [パセオ1985年1月号]
              
 きのうに続き、むかし話。
 1984年11月に行なわれた
 "スペイン映画祭"の開催に先立っての記者会見。
 日本でも大ヒットした映画『カルメン』のカルロス・サウラ監督ほか
 全六名からなる、スペインを代表する映画監督が来日したのだ。
 にもかかわらず、記者の方は私を含めても
 大監督ご一行と同じくらいの人数しかおらんではないか。
 がび~ん。こ、これは、いか~ん!
                    
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 あわてて私も質問を飛ばしまくることになったわけだが、
 監督たちを盛り上げるツッコミができなかったことが、
 今さらながら悔やまれる。
 当時から私はボケ専だったのだ。

 さてその折、私のとなりの鋭そうな記者さんと、
 もの静かで奥行きが深そうなインテリ紳士、
 フアン・アントニオ・バルデム監督による以下のやりとりは、
 25年の歳月を経て、いまも私の脳裏に深く鋭く焼きついて離れない。
 なお、バルデム監督(享年80歳で2002年他界)はフランコ独裁制の下、
 社会派の映画を数々発表し、ルイス・ブニュエルと共に
 スペイン映画界の一時代を形成した名監督である。

――――フランコ体制の時代とそれ以降では、
     映画制作についてはどうような変化がありましたか?
 「フランコという独裁者が死んだことによって、
 スペイン全体に民主的自由がもたらされました。
  特にわれわれ映画人にとっては、
 「表現の自由」というところまで具体化したわけです。
 現象的には、われわれは以前は保安警察や検閲の網をくぐり抜けつつ、
 自分たちの主張を表現してきたわけですが、
 自由化以降はそうしたことをしなくとも
 自由に映画を作れるようになったわけです。
 しかしながら、私個人としては、
 「フランコに敵対していた時の方がより良く生きていた」
 という感想を持っています。
 つまり、フランコ時代には法律や圧力に抵抗しつつ、
 スペインの現実に対し批判の目を育てつつ、
 これを展開してゆくことが出来ましたが、
 自由になってから、われわれ映画人たちが
 批判の目を失いつつあるという現状があるからです。
 われわれは今ここで、
 新しい方法を作り出さねばならない時期にきていると思います。」

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 2009年09月05日/その67◇やれば出来るさ

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 [パセオ/1985年10月号]

 年寄りのむかし話シリーズ第三弾。
 この号の特集は「第一回清里スペイン音楽祭」。
 1985年8月23日~25日の三日間。
 濱田滋郎師匠、慶子夫人、吾愛さんご一家主催による、
 あの伝説の“清里スペイン音楽祭”の
 その記念すべき第一回目。

 そのレポートを担当したのは私だが、
 まるで現在の私の魂が憑依したかのような
 悲惨な出来映えである。
 それにしても、フラメンコもクラシックも一流どころが集結して、
 めっちゃめちゃ楽しいお祭りだったよなあ。

 さて、そんな天国・清里から戻ると、
 「実家がもらい火事でやられた」との急報。
 すわっと駆けつければ、幸い家族は全員無事で、
 私のお宝LPレコード数千枚は全焼。
 へこむ家族の面倒、火元との賠償交渉、日常業務、
 招聘したドイツ人クラシックギタリストのプロモートと世話。
 通訳予定の先代女房は過労で倒れ、
 喋れぬ英語で切り盛りするが、
 パセオの締切は無情に迫る。

 毎日二、三時間の睡眠で地獄の2週間を乗り切り
 「やれば出来る」ということを生まれて初めて知った。
 「便所まで丸焼けで、もーヤケクソっ」という渾身のギャグが、
 至るところで不評を買ったことのみが無念じゃあ。

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 2009年09月06日/その68◇日曜日はカマロン

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 [カマロン/カジェ・レアル]POLYGRAM 1983年

 どーです、このカッチョええジャケットは!
 グッドデザイン賞もんだよ。

 でも中身は、もっともっと凄い。
 日曜朝は『カジェ・レアル』でなければ始まらない。
 数千はあるフラメンコCDの中でも、
 フィジカルな快感度はいちばんかもっ!

 オープニングからいきなり、
 カマロンは気合いの入りまくりで、
 あおりにあおる豪華バック陣(パコ・デ・ルシアやトマティート)の
 パッションを全身に受けとめ、
 胸のすくような疾走感でラストまでを歌いぬく。

 ドラマティックな高揚感を伴うシャガレた美声と、
 原野を駆けぬける豹のように敏捷で力強いリズム感は、
 メンバーたちに即フィードバックされ、
 互いに相討ち覚悟で鋭く踏みこむ。

 うねりながら躍動するアンサンブル、
 スタイリッシュで野性的な超絶技巧、
 命のよろこびが弾けるコンパス。
 それらが渦巻き合いながら高めあう灼熱のスパークは、
 人々の魂に、好ましい刺激をたたき込む。

 カマロンは、
 日々の生活の中に“祭り”のインスピレーションが
 充満していることを熟知していて、
 それをサックリ切りとり、
 私たちの心に響かせることを楽しんでいるかのようだ。

 ひとり引きこもる不毛や、
 周囲に当たり散らすヒステリックな不毛の狭間に、
 人間のポテンシャルの頂点を探り当てたセンスには、
 今さらながら息を呑む。
 その視点からは、人生の仕組みや幸福の本質が、
 さっくり見えているのにちがいない。

 それにしてもこの音楽の新鮮さはどうだ。
 26年も前の録音なのに、
 まるでさっき出来上がったばかりみたいに、
 ピチピチ跳ねてイキがいい。
 かくして輝ける日曜日は幕をあけ、
 私たち聴き手も、それぞれの祭りに没入するのだ。

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 2009年09月07日/その69◇帰り道は遠かった

 まるで仏さまのようなお人柄なのに、
 当時から音楽界の神さま的存在だった
 濱田滋郎先生のお宅に、はじめてお邪魔した時のことを
 昨日のことのように想い出す。
 当時の私は20代半ばだったから、
 それからすでに三十年の歳月が流れている。
 音楽プロモーターの駆け出しだった私は、
 主催するコンサートのプログラム解説をお願いに、
 いくぶん緊張しながら小田急線・柿生にある濱田邸に赴いた。
 そんな私に実に親身に温かくご対応くださったのが、
 初めてお目にかかる先生の奥さまだった。

 音楽業界では孤立無援のチンピラ同然であり、
 またそれ以前のやさぐれ稼業のすさみを
 多く残していたであろう若く生意気な私。
 神さまの奥さまから、そんな自分が、
 まるで一人前の業界人であるかのような応接を受け、
 舞い上がらんばかりに喜んだことは云うまでもない。
 たわいもないことかもしれないが、
 こうしたさり気ない人の優しさをきっかけに、
 私のようなダメ人間が大きな自信を与えられ、
 それが前に踏み出す勇気につながってゆくようなケースは、
 実人生においては案外と多いのではなかろうか。
 やがてパセオを創刊し、尚も七転八倒を続ける私にとって、
 濱田邸は憩いの場所で在り続けた。
 それは極寒の中で与えられる、
 ミルクたっぷりの温かなココアのような感触だったと思う。
 多くのクラシック音楽やフラメンコの関係者が、
 濱田先生や奥さまの人柄から、
 こうした見えない恩恵を受けていることが容易に想像できる。

 そんな濱田先生の奥さま、慶子(よしこ)夫人が、
 この夏のおわり、8月31日に永眠された。
 74歳だった。
 年齢は存じ上げなかったが、
 初めてお目にかかった頃の慶子夫人は、
 私の連れ合いの今と同じくらいの年齢だったことになる。
 互いにバツイチ同士で再婚した私たち夫婦は、
 式も披露宴も省略させてもらったのだが、二人して
 お世話になりっ放しだった先生ご夫妻のもとにだけはと、
 柿生のご自宅にご挨拶に赴いたのが11年前のことだ。
 そして先週9月3日、私は慶子夫人のお通夜に参列、
 連れ合いはお通夜と告別式の受付をさせていただいた。
 たくさんの弔問者の胸の内は、
 おそらく共通する心からの哀悼だったと思われる。

 内助の功。
 日本において、それはすでに死語かもしれない。
 ほとんど表面には出ないが、世の中を縁の下から支える力。
 慶子夫人のご冥福をお祈りしつつも、
 あのお優しい人柄は、それを慕う人々の心の中に
 生き続けるであろうことを思わずにはおられなかった。

 きびしく世渡りを教えてくれる人は絶対に必要だが、
 やさしく世渡りを支えてくれる人は同じくらい必要だ。
 ………ふうっ。
 私はそのどちらも出来てないなと、ため息ついた。
 お通夜からの帰り道はとても遠かった。

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しゃちょ日記バックナンバー/2009年9月②

2010年09月09日 | しゃちょ日記

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 2009年09月08日/その70◇俳句の時間

 「古池や 蛙飛び込む 水の音」

 これはあの有名な松尾芭蕉の句ですね。
 わずか17文字の短いコンパスの中に、
 万人が共有できる具体的な情景を浮かび上がらせる
 ところに凄みがありますね。
 おなじみのラフカディオ・ハーンがこんな英訳を付けています。
 蛙は複数なんですね。

 Old pond ― frogs jumped in ― sound of water


 ところで、こんな現代句をご存知でしたか。

 「パセフラや 買わず飛び込む 水野のおとう」

 これは、パセオフラメンコも読まずに
 いきなりフラメンコギターの世界に飛び込んでしまった
 水野君のお父さんを描写した句で、実わほとんど実話です。
 季語はパセフラで「年がら年中」を示します。

 ちなみに、水野君のお父さん(53歳・男性)は、
 現在パセオフラメンコを定期購読に切り替えて
 めでたし、めでたし、なのだそーです。
 それでは、またお目にかかります。
                     (俳句の時間/永久に完)
       
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 2009年09月09日/その71◇昔も今も

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[安藤広重/名所江戸百景より『浅草金龍山』(1856年)]

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[その約150年後のほぼ同じ浅草・雷門あたり]
          
 時代を超える、こんな好ましいコントラストもある。
 昔も今も、それぞれに味わい深い風情。

 それを私的に云うなら、
 マノロ・カラコール(昔の人気フラメンコ歌手)と
 ミゲル・ポベーダ(今の人気フラメンコ歌手)くらいの
 コントラストかな。
          
 「無所属」フラメンコの大家たち(7)マノロ・カラコール.jpg
 [フラメンコの大家たち/マノロ・カラコール]
  LE CHANT DU MONDE

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 [ミゲル・ポベーダ/フラメンコがきこえる]
  HARMONIA MUNDI/1998年

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 2009年09月10日/その72◇鍵田取材とデスヌードとツバメンコ

 きのうは夕方から池の上のアルテ・イ・ソレラで、
 “FLAMENCO曽根崎心中”やサントリーのテレビCM
 なんかでもおなじみのバイラオーラ鍵田真由美を取材。
 パセオ本誌新年号から私が受け持つ
 インタビュー連載(本文カラー9頁)の、
 その第一回目のゲストを彼女に引き受けてもらったのだ。
 
 スタジオのど真ん中にインタビュー会場を設営し、
 大盛り上がりのツッコミ&ボケ合戦を繰り広げた。
 「ステージなら素っ裸で踊るのもへっちゃら」
 みたいな発言もぴょんぴょん飛び出し、
 そのエキセントリックな会話を、
 どのようにまともな大人の会話にまとめ上げるか、
 前途は真っ暗である。

 途中、先日のデスヌードで、大きな期待をさらに上回る
 ドツボなクオリティを炸裂させた佐藤浩希が、
 新聞片手に顔を出す。
 見れば、読売の夕刊にデスヌードの記事がデカく載ってる。
 そう云えば、前の日の朝日夕刊にも載ってたっけ。
 ラスト数分の小島章司のあの素踊りは、
 どうやら伝説となりそうな勢いだな。
 冒頭の第九のアイデアは小島師、
 ラストの無伴奏舞いは佐藤の演出だったことを知る。

 ツバメンコの近況を佐藤に尋ねると、
 先ほどまで、ここでみっちりレッスンをやってたのだと云う。
 おおっ、しっかり続いているんだなあ、とひと安心。
 結局は一年も続かなかったタレントさんもたくさん見てきた。
 過酷な芸能活動の合い間に、
 ハードなフラメンコのレッスンを続けるのは
 本当に大変なことなのだ。

 サービス精神も旺盛な佐藤浩希が、
 ちらっとこの先のツバメンコ展開を話してくれた。
 うおっ、実現してくれよっ!と、瞬間祈った。

 
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 2009年09月11日/その73◇慢心と鰻心

 まれに午前中から、
 ファンタスティックな営業成果をあげた時など、
 そのご褒美の昼食に美味しいうなぎを喰うことは、
 わたし的には大きな喜びのひとつだ。

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 一方で、うなぎ的には、
 それが「美味しくも喜ばしくもない」であろうことに、
 慢心する心は引き締まる思いだ。

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 2009年09月12日/その74◇一家離散とシンフォニーの季節

 わが家は現在、一家離散中である。

 ほぼ年に一度のペースで連れ合いはスペインに行く。
 毎日帰りの遅い私は、
 ジェーの面倒をみることができないので、
 その間ジェーは、彼の祖父母を自負する
 杉並の福島さん夫婦んちで暮らすことになる。
 かくしてわが家は一年の二週間ばかりを、
 スペイン、渋谷区、杉並区にそれぞれ散らばり、
 一家離散の憂き目の中を、
 それぞれ嬉々として自由気ままに暮らすのであった。

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 連れ合いも私も家事は好きな方なので、
 どちらもひとりで不自由するということはない。
 若い頃に知り合いのほうぼうを泊まり歩いた私は、
 仕事のできる人たちのほとんどが、
 同時に「炊事・洗濯・掃除の達人」であることを知り、
 それだけはきちんと出来る人になろうと、
 一時期その習得に身を入れた時期がある。

 そのおかげをもって私は、
 家事全般はそこそここなせる人にはなったが、
 肝心の仕事の方はさっぱりと来たもんで、
 まったく例外というのは、どこにでもあるものだと思う。
 こーゆー珍人に対しては、百年かけて褒めて育てる
 辛抱が必要なのは、云うまでもないことだろう。

 さて、今回の一家離散期間にじっくり聴きたいCDが、
 この夏発売となったサー・サイモン・ラトル指揮
 ベルリン・フィルによるブラームスの交響曲全集。

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 普段はあまりフル・オーケストラを聴かない私だが、
 それでも年に何度かは無性にそれが聴きたくなる。
 シンフォニーだけは、
 ヘッドフォンではなくステレオのクリアな大音響で
 聴きたいので(ライブが一番に決まっているが)、
 同居人たちの不在はもっけの幸いとなる。

 ロマンティックの極致とも云うべきブラ3の第三楽章は、
 大きな声では云えないが、
 あらゆる交響曲の中でいちばん好きな楽章。
 今晩あたりから、どっぷり浸かってみっかいと、
 朝(未明)もはよから、せっせと仕事にとりかかる。

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 2009年09月13日/その75◇ブラームスはお好き

 「好きなシンフォニーをひとつだけ選べ」

 この設問には大いに悩むと思う。
 それがチャイコフスキーの『悲愴』であった時期も
 かなり長かったし、モーツァルト(40番、41番)や、
 ベートーヴェン(5番、6番、7番)や、
 ドヴォルザーク、プロコフィエフ、マーラーなどにもよろめいた。
 だが、ここ数年の心境からするなら、意外とあっさり、
 ブラームスの交響曲第3番を選べるのかもしれない。

 一家離散の次の晩から、
 サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルによる
 ブラームスの交響曲の最新録音(全4曲)を聴く。
 すべてDVDがついているので、CDを聴いたあと、
 それにもカブりつく。
 ラトルは大好きな指揮者なので、
 ブラームスに対するアプローチは
 ある程度は予想できたはずなのだが、
 実際の彼のブラームスは、私の想像を絶していた。
 高校時代からの愛聴盤であるフルトヴェングラーのそれに
 優るとも劣らぬ出来映えだったのだ。

 ひと通り音源と映像を堪能したあと、
 再び手が伸びるのは、やはり大好きな3番である。
 かのアントニオ・ガデスは第4番が
 かなりのお気に入りのようだったが、
 私はまだそこまで大人になりきれない。
 映画『さよならをもう一度』(原作はフランソワーズ・
 サガンの『ブラームスはお好き』)でも使われた
 3番の第3楽章は、さまざまな演奏で
 すでに千回以上は聴いているかもしれない。
 作曲した50歳当時、若い声楽家に恋していた
 ブラームスの心境が反映されているとの説が有力で、
 同時に創作活動全般にも、
 エネルギ―が漲っていた時期の作品である。

 人間はひとりでは生きられないこと。
 互いに寄り添い助け合いながらも、
 けれども、互いに自立する気持ちが必要であること。
 安らぎとチャレンジは、いつでも対になっていること。
 そんなヴィジョンを、極めて美しいイメージをもって
 心に焼きつけてくれる名曲中の名曲だと思う。

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 ところで、その大指揮者ラトルと私には、
 大きな共通項がいくつかある。
 恐縮ながらも光栄なことである。
 ブラームス交響曲全集の発売を記念して、
 その類似点を以下に記しておきたい。

 (1)ともに男性であること。
 (2)同じ歳(1955年生まれ)であること。
 (3)人間は顔ではないこと。

 これらによって、才能や人間性などを除けば、
 ラトルと私は、
 ほとんどそっくりであることが
 おわかりいただけるかもしれない。
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 2009年09月14日/その76◇理路整然

 掃除・洗濯・料理日和のきのう日曜は、
 家にこもってのんびり仕事。

 先週やったインタビューのテープ起こしが
 たまっていたので、イッキに片づける。
 90分インタビューなら90分かかる。
 相手の発言のポイントとニュアンスを
 PCに打ち込むだけなので、
 再生をそのまま流しながらでも充分間に合う。
 久々の編集現場はやはり楽しい。

 本誌をフィニッシュするのは自分だから、
 後で困らないようにと、
 さすがに話題の筋道は理路整然としている。
 ただし、5分おきぐらいに、アホなツッコミと
 互いの爆笑がドカンと入り込んでいる。
 お笑いベースだと、
 いい感じの本音話を引き出しやすいのだ。

 その志は悪くないと思うが、
 会話の再生音源がワイワイ騒がしすぎるのには、
 我ながら閉口する。
 自画自賛の理路整然は云い過ぎで、
 正しくは「理路騒然」だと、お詫びして訂正したい。

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 2009年09月15日/その77◇だからフラメンコ
   
 技術の飛躍的進歩によって
 人類は経済的に豊かとなり、
 個人は生存のために
 集団に帰属する必要がなくなったのである。

 個人が勝手に行動しても生きていけるようになり、
 集団の存在理由が薄れてきた。
 家族も学校も会社も大きく変質し、
 個人は集団の束縛から解き放たれて、ついに、
 不本意ではない生活を送ることができるようになった。

 だが、このときになって初めて人類は、
 「不本意ではない生活」がどんな生活なのかが
 分からないことに気がついた。
 集団に向いていないだけでなく、
 個人として生きていくことにも
 向いていないことが分かったのだ。
 これが幸い中の不幸だった。

 自由には代償がある。
 自由な人間はすなわち孤独であり、
 人間は孤独が嫌いなのだ。
 現在、集団の秩序は回復不可能なまでに瓦解し、
 個人は何をしたらいいのか分からないまま
 自立を求められている。
 こうしてみると、
 人類も私と似たような運命をたどっているように思う。

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 [土屋賢二/汝みずからを笑え]文春文庫より

 これは、私が仏と仰ぐ、
 お茶の水女子大学の土屋賢二教授(哲学科)の
 ありがたい教えである。
 特にラスト1行などは怖いぐらいに鋭い。

 これは『この五百万年をふりかえって』という
 エッセイからの抜粋なのだが、
 ずいぶん前に初めてこれを読んだとき、
 青春まっ盛り(1970年代)の自分が、
 なぜフラメンコに惹かれたのか、
 その理由の一端が、ポロリわかったような気がした。

 1980年~90年代の日本において、
 フラメンコのファン人口は急増し、
 またそのステータスは急速に高まった。
 教授の指摘するようなプレッシャーを解決する鍵として、
 そのほとんどが無意識的だったにせよ、
 多くの人々がフラメンコに注目し始めたからだ。
 現代日本におけるフラメンコの普及浸透は
 その意味で必然だった……。

 現代を生きる不安と緊張のストレスにあえぎながら、
 それをいかに克服して心の安らぎに達するか?
 「自立と協調」をどうバランスするか?
 こうしたテーマに対しフラメンコは、
 強いヴィジョンと忍耐を示しており、
 同時に、生きる勇気を高揚させる機能を持っている。
 
 と、まあ、こんな風に、自分の使命(←単なる思い込み)を、
 思い切り無理やり正当化したい日も、ないことはない。

 「神と仏②」わが家の神棚と仏壇.JPG
 [わが家の神棚と仏壇]

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しゃちょ日記バックナンバー/2009年9月③

2010年09月09日 | しゃちょ日記

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 2009年09月16日/その78◇イチかバチカン

 バチカン。
 それは、世界で最も小さな国。

 香川、愛媛、徳島、高知。
 人呼んで、バチカン四国。
        
       うっ、失敗っ!(汗、涙)
                    
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 2009年09月18日/その80◇抜き上手

 以前mixiのコミュで『フラメンコ七転八倒』という
 お笑い投稿を募集していたことがある。
 今日は、その折の名作をひとつご紹介したい。

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 『抜き上手

 ♀4人で練習中、エスコビの抜けと同時に
 『ブッ!』と出てしまいました。
 お尻もいっしょに抜けたようです(--;)

 一瞬静まり返り『今・・・・・おならした?』と
 聞かれ耳まで真っ赤になりその場で倒れこんだ私です。

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 全世界のバイレ練習生に、
 安心感と優越感を与える
 感動の名作(実話)と云ってもよいだろう。
 このあと、投稿者である九州のチョー大物Kさんの
 作品(体験談)はウェブ上で次々とエスカレートしてゆくのだが、
 それら作品の、
 あまりにも華麗すぎる献身的自爆性を考慮し、
 涙を呑んでここでの掲載は控えさせていただく。

 おーまいがっど.jpg

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 2009年09月19日/その81◇枯淡の味わい

 きのうの『フラメンコ七転八倒』がバカ受けだったので、
 調子に乗って、もうひとつだけ。

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 『Oh My!ファザーズ

 寒くなってきたので
 「レッスン用のタイツタイツ……」と
 よく見もしないで稽古に持ってったら
 父の股引でした。

 でも履いてても誰も気が付かないしw。

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 Hさんのこの作品は、プロ並みのハイレベル。
 強いインパクトはないのだが、
 ラス前の行間と最後のオチがもたらす
 透明な余韻が素晴らしい。
 じっくり読み返すと、
 そこはかとない哀しみがジーンと伝わってくる。
 実になんとも枯淡の味わい。
 それでも人生なんとかなるさ!の一席。

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 2009年09月20日/その82◇あれはあれでよかったんだよ

 散歩の時にパコ・デ・ルシアを聴くのは珍しいことだ。
 しかもスーパーギタートリオの、
 あの伝説のサンフランシスコ・ライブと来たもんだ。
 頭からラストまで、
 こうしてみっちり聴くのは何年ぶりのことだろう。

 1981年の録音だから、
 このアルバムに熱中したのは25、6歳の頃だ。
 いま聴いても、
 やはり奇跡のライブであることには変わりがない。
 ギターを弾く人間ならば、
 誰もがこのトリオの超人性に驚愕することだろう。
 これぐらい弾けたらなあ、
 みたいな願望を軽々超越するレベルなので、
 ライバル心が芽生える余地もなく、
 純粋な聴き手として、
 どっぷりのめり込むことが出来るのだ。

 ギタートリオ.jpg

 当時リアルタイムでこのレコードにやられた
 オールドファン層は、
 そのこと自体がひとつのエポックとなったろうし、
 また、それぞれの人生は何らかの影響を
 与えられたものと思われる。
 現に私も、その三年後にパセオを創刊する。

 1曲目の『地中海の舞踏』は、
 私の青春のテーマソングみたいなものだから、
 それを聴けば否応なく、
 若かりし日々のさまざまな光景が脳裏を爆走する。
 「何やってんだオレ……」
 ほとんどが、そんなホロ苦い想い出ばかりだが、
 今の私がそこにタイムスリップ出来た場合、
 同じ失敗を繰り返すことはないだろうが、
 別の失敗をやらかす自信がある。
 それはハンパでない大失敗だろうから、
 今度こそ命はないだろう。

 「あれはあれでよかったんだよ……」
 そう胸を撫でおろすのである。

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 2009年09月21日/その83◇パセオ界隈①(高田の馬場)

高田馬場.jpg
安藤広重/名所江戸百景より『高田の馬場』(1857年)
             
高田の馬場.JPG
その150年後のほぼ同じ場所あたり
      
 JR高田馬場駅から早稲田通りを東に、
 15分ほど歩いた西早稲田のバス停あたり。
 パセオからなら約10分。
 江戸時代、堀部安兵衛の決闘で有名な
 元祖“高田の馬場”は、まさにここなのだ。

 たかだか150年でここまで変わる。
 確かにまるで違うようにも見えるが、
 元は同じ場所である。
 ふたつの風景を、注意深く見じっくり比べてみると、
 ほーら………やっぱり、じぇんじぇん似てない。

 だがしかし、いつか進歩も極まると、
 ついつい原点回帰を検討してしまうところに、
 人類のケナ気さがあると思うのだ。

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 2009年09月22日/その84◇そりゃそーだわ

 おとつい日曜の夕方は、
 日刊パセオのイラストでもおなじみのヨランダ画伯と
 もろもろ打ち合わせ。
 ひと段落ついて、さあ、メシでも食おうかと、
 高田馬場をぶらついていたら、
 居酒屋風な呼び込みの兄ちゃんが、
 真剣な面持ちで声を掛けてくる。

 スルーしようと思ったら、
 あきらめずに私たちに貼り付きながら
 熱心にお店自慢の講釈を続ける。

 兄ちゃんのあまりの熱心さに心打たれて、
 3階だというあまり立地条件のよくない
 その店に入った。
 豚肉とキャベツの鉄板焼きのあまりの旨さに
 画伯も大満足!

 “熱意”とか“執念”というものが
 あまり流行らない時代だが、
 そのイケメン兄ちゃんの、
 最後まであきらめない真摯なプレゼンテーションに、
 実は私は大いに感動していたのだった。

 どーせ何かをやるのなら、
 そりゃ一所懸命にやった方がいいわなと、
 当たり前のことを反芻してみた。

 共感②.jpg

 ところで昨晩。
 重たいのはスルーしちまう気分だったので、
 観るつもりじゃなかった映画『おくりびと』。
 しまいにゃ正座で観ちゃったよ。
 もー涙ぼろんぼろん。
 
 続いて『桑田佳祐の音楽寅さん』。
 まさかの最終回に、こつらも涙ぼろぼろ。
 ゆんべは呑みに行かなくて、ほんとによかったあ!

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 2009年09月23日/その85◇パセオ界隈②(面影橋)

面影橋.jpg
安藤広重/名所江戸百景より『おもかげの橋』(1857年)

面影橋.JPG
[その150年後のほぼ同じ場所あたり]

 150年の歳月は、“おもかげの橋”を
 何の変哲もないコンクリート小橋に変えたが、
 辛くもその美しい名は残った。

 橋の向こう右手には、落語『道灌』でもおなじみの
 “山吹の里”の碑がひっそりとその姿をとどめる。
 橋の手前には、東京で唯一のちんちん電車、
 都営荒川線の停車場“面影橋”がある。
         
 都電・面影橋.JPG
     
 目を閉じれば、
 広重の描いた光景が視えないこともない。
 パセオから歩けばほんの五分。

 仕事のアイデアに行き詰まるとブラッと出掛ける
 散歩コースの中ほどに面影橋はある。
 てゆーか、年がら年中アイデアはどん詰まりなので、
 いっそのこと、
 面影橋のたもとに座机でも置いて仕事した方が、
 まだしも効率はいいかもしれない。

面影橋から神田川.JPG
 [面影橋から神田川]

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 2009年09月24日/その86◇正義の味方

 月よりの使者、月光仮面!

 月光仮面.jpg
 ビデオ『月光仮面』 発売元●げんごろお

 幼いころの「都電の運転手」や「プロ野球選手」という
 将来ヴィジョンの狭間に、
 「月光仮面」という憧れの職業があった。

 若い人は知らんだろーが、
 昭和三十年代に一世を風靡した正義の味方である。
 原付バイクにまたがって東京中を駆けめぐり、
 悪人どもを退治するこのツエーおじさんを、
 当然私は実在の人物だと思っていたのである。
 
 たぶん無いと思うが、
 もし「月光仮面養成専門学校」みたいなのが
 高田馬場の会社近くにあったなら、
 私は本気で入学を考えるだろうか。
 かつてスポーツ万能だった俺も、もう54歳だし、
 すっかり心も汚れちまってる。
 適性テストの結果、
 脇役の松田警部に似た試験官のおぢちゃんから、
 「あっ、君は正義の味方に向かないから、
  実習用の悪魔の手先ね。
  そのかわり日当出るから、三千円っ」
 みてーなことを云われそうで、
 二の足を踏みそうな気もする。

 今でも三年にいっぺんぐらいは、
 月光仮面になった夢を見る。
 私立探偵・祝十郎(いわい・じゅうろう)こと私は、
 悪の権化どくろ仮面の一味に追い詰められて
 断崖絶壁から突き落とされるのだが、
 そこはほれ、実は月光仮面の俺である。
 スポーツは万能だし、格闘技と射撃は名人クラスだ。
 それぐれーは何のそので、
 敵に見つからないように即崖をはい上がり、
 月光仮面の衣装を隠してある場所に駆け込み、
 すばやく着替えようとするのだが、
 ちょっと太っつまって真っ白な全身タイツが
 なかなか思うように履けないのだ。
 (注:おしっこやうんこが漏れそうーな時もある)
 ああ、やばっ、どくろ仮面が手下どもと
 どっかに行っちまうじゃねえか。
 奴らを、弾丸サパテアードかなんかで、
 今日こそはとっ捕まえねーことには
 最終回が締まらねえじゃねーか、
 早く着替えんかいっ、こらっ、
 と焦りまくったところで目が覚めるのが定番だ。

 根っからの悪人も根っからの正義の味方も、
 この世に存在しないことを知ったこの期に及んで、
 いったい私の夢は、何を訴えかけているのだろう。

 月光仮面2.JPG   
 [どくろ仮面を追う月光仮面が、
  電線からビルに飛び移る決定的瞬間を、
  パセオ2Fのベランダ物干し場にて、
  筆者懸命に撮影 ⓒ株式会社パセオ]

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しゃちょ日記バックナンバー/2009年9月④

2010年09月09日 | しゃちょ日記

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 2009年09月25日/その87◇一家離散の意義

 毎年恒例、一家離散の数日前。
 連れ合いのスペイン行き用のスーツケースが出てくると、
 それを察知するジェーは、さびしいようなうれしいような
 様々なパフォーマンスを始める。

ジェーすね3.jpg

 通常は、どちらかと云えば孤独を好む土佐犬なのだが、
 この時期は、連れ合いや私にベタつくシェパードとなる。
 
ジェーすね1.jpg

 スペイン行きを前にルンルン気分な連れ合いに
 懐疑的な目を向けるジェーは秋田犬そのものだ。

ジェーすね2.jpg

 ま、それでも一家離散はスムーズに実現し、
 ひとり留守番する私は、この時期、
 早寝早起きの炊事・洗濯・掃除おぢさんとなり、
 約二週間、まるで修道女のように清く正しく美しい
 ストイックな生活を送ることになる。
 しかもこの時期、私は玄米食である。

 二週間の一家離散シーズンもあとわずか。
 早いもので、来週月曜にはまた全員集合となる。
 なぜか全員ころころ太ってのご対面も定番化している。
 この年中行事は、それぞれの「自立と協調」を鍛える、
 絶好のトレーニングなのかもしれない。

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 2009年09月26日/その88◇パセオ界隈③(芭蕉庵)

神田川/関口.jpg
安藤広重/名所江戸百景より『関口・芭蕉庵』(1857年)
            
神田川/芭蕉庵.JPG
その150年後のほぼ同じ場所あたり
                  
 パセオを右に出て、
 神田川をずずっと東に歩けば
 15分ほどで関口の“芭蕉庵”だ。

 名人松尾芭蕉は、
 俳諧プロ入り前の四年間(34~37歳)を、
 ここで暮らしたと云われる。
 ここら辺りは、私的には東京随一の桜の名所である。
              
2008桜①.JPG
 [対岸斜めから芭蕉庵(しだれ桜の下)を眺める]

 年に三日ほど、この絶景を眺めたいがために、
 株式会社パセオは、高田馬場を動けずに居るのだ。
 「引越し代がないだけじゃん!」
 こうした真相よりも、よっぽど味のある理由とは云えまいか。

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 2009年09月27日/その89◇巣鴨になれない

 なかよし連でワイワイにぎわう呑み屋のカウンター。
 活気ある喧騒の中、久しぶりにやってきたユキちゃんは、
 挨拶もそこそこに職場のグチをこぼし始める。

 「こんなんじゃ、巣鴨になれないよ」
 「そりゃそーだろ。おめえだって人間の端くれなんだから」
 「えっ、人間は素直になれないの?」
 「えっ、巣鴨になりたいんじゃねーの?」

 ……ったく、どーゆー会話じゃ。
                
 「ファンタジー」051224.JPG

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 2009年09月28日/その90◇「なに、ただの遊びさ」

 土曜日の午後。
 神田川のパセオ(散歩道)を歩く。
 根を詰める仕事がひと段落したので、そのご褒美だ。
 小田急、井の頭線を乗り継ぎ吉祥寺に出て、
 神田川の水源がある井の頭公園から自宅までの、
 小休憩込みで約3時間、約13キロのコースである。

神田川水源碑051230.JPG

 久々にどっぷりセンチメンタルな気分に浸ってみっかと、
 それ系CDを4枚ばかり聴く。
 ピアソラ、ケニー・ドリュー、ディーリアスと、
 通常とはまったく異なるメニューで、
 しかも締めは、『徳永英明/ヴォーカリスト』だよ。

 『駅』、『異邦人』、『LOVE LOVE LOVE』、
 『シルエット・ロマンス』、『秋桜』など、
 懐かしい名曲のカヴァーがたくさん詰まってるアレだ。
 それぞれの曲が、若かりし日々の
 甘酸っぱい感傷と羞恥のシャワーを浴びせる。
 だからどーしたという、モラトリアムな気晴らしなのだが、
 これが意外と明日への活力につながるところが、
 人間のかわいいところだと思う。ってオレだけかあ?

徳永英明.jpg

 徳永英明さんは好みの歌手ではないはずなのに、
 かなり聴く頻度は高い。
 シンプルで飽きのこない深い歌唱力が、
 その理由なのだろう。
 私の中では、カンテ(歌)フラメンコの巨匠、
 アントニオ・マイレーナと同等の人気の高さだ。

 ちょうどええ加減にくたびれて、
 翌日の煮物用の買い物をして帰宅。
 ひとっ風呂浴びて、里芋の皮をむきながら、
 ビデオで映画『スティング』を観る。
 かつては名画ベストテンの常連だったチョー名作だ。

スティング.jpg

 「なんでこんな危ないことに命を賭けてくれるんだ?」
 「なに、ただの遊びさ」

 ラスト前のロバート・レッドフォードとポール・ニューマンの
 こんなやりとりに、20歳の私はもうメロメロとなった。
 そんなセリフが、あまり堅気でない、
 その後の人生を決定づけた要因だったかもと、
 さらにセンチメンタルな気分を盛り上げつつ、
 独身最後の夜を、ご近所の行きつけへと向かうも、
 例によってお下品なお仲間連の下ネタ攻勢に、
 甘くせつない気分は、瞬時に撃沈せり。

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 2009年09月29日/その91◇不注意

 「つまずきは、落下を防ぐかもしれない」

 なるほど、つまずきは落下の予兆であると。
 軽くつまずいたら、
 それは何か悪いことが起こるサインだから、
 くれぐれも用心せーよ、と。
 
 さすがにイギリスのことわざは味わい深い。
 “経験論”を生んだ国だけのことはある。
 
 つまずいたことなど一度もないチョー優秀な私だが、
 毎日のように、いきなり豪快に落下している原因が、
 おぼろ気ながらわかった気がする。
            
とほほ1.jpg

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 2009年09月30日/その92◇悲愴

 チャイコフスキーの『悲愴』を聴く。
 フェレンツ・フリッチャイ指揮、
 ベルリン放送交響楽団の1959年録音。
 あまたの名盤ひしめく中を、最近はこれ一本。
 好き嫌いは分かれるだろうが、演奏は圧倒的だ。

 比較的スケジュールが楽チンで、元気一杯な時に聴く。
 そう。聴けばイッパツで落ち込むことが出来るから。
 嘆くような悲愴ならば、大いに救いはあるのだが、
 フリッチャイの悲愴は嘆かない。
 壮絶な厳しさの中を、ただ何物かに対峙するのみである。
 救いのないことの明らかなることのみが、
 唯一の救いかもしれない。

 悲愴.jpg
 
 全4楽章、約51分をひたすら無心に聴き終えると、
 しばし魂を抜かれたような状態になる。
 日頃よりヘラヘラ生きている私には、
 その感触はショッキングですらある。

 情けない自分が、別に叱咤されるわけでもない。
 荘厳にして、だがしかし、他人ごとではない親近感。
 自ずと襟を正したくなるような不思議なノスタルジー。

 「人間にはこんな感情もあるのだ。
  そのことを忘れちゃいかん」

 ややあって、そんな風に想えてくる瞬間、
 私の心は、自分好みのバランスを取り戻す。

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