フラメンコ超緩色系

月刊パセオフラメンコの社長ブログ

しゃちょ日記バックナンバー/2009年12月③

2010年09月12日 | しゃちょ日記

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2009年12月15日/その169◇桜の森の満開の下

 佐藤桂子・山崎泰スペイン舞踊団公演
 ブラックホールシリーズ Part2「満開、桜風伝」
 (2009年12月17日/東京・北千住Theatre1010)
〈b〉佐藤桂子、山崎泰
  杉本光代、池本佳代、外川華奈子、
  横山美奈子、正木清香、他
〈c〉クーロ・バルデペーニャス、アギラール・デ・ヘレス
〈g〉今田央、岩根聡 〈perc〉すがえつのり

 satoyamazaki.jpg

 無頼派。つまりはフラメンコ。 
 坂口安吾は、青春期にもっとも愛読した作家だ。
 全集まで買い込んだぐらいだから、
 その傾倒ぶりはハンパではなかった。
 小説はつまらないが、哲学の合理・独創は超一流。
 私の具体的な行動スタイルは、
 坂口安吾によって決したとも云える。
 堕ちよ、生きよ! そして、また堕ちる。

 あの佐藤桂子・山崎泰フラメンコ舞踊団が
 安吾の作品を採り上げてくれるというので、
 予習も兼ね、およそ30年ぶりに、
 今さっき、『桜の森の満開の下』を読み返した。

 篠田正浩監督によって映画化されたり、
 野田秀樹さんによって舞台化もされたが、
 私はその両方とも観てない。
 原作の凄絶なシーンが、私にストップをかけたのだ。
 安吾がフラメンコになるのは、おそらくこれが初めてだろう。

 毎年一度、もう四半世紀にわたり観続ける、
 佐藤桂子・山崎泰フラメンコ舞踊団。
 森田志保や鍵田真由美などの名手を輩出する名門舞踊団だ。
 日本における本格的フラメンコ・スペクタクルの元祖であり、
 その本格的な舞台性や斬新性は、
 スペインのフラメンコ界よりも先を行っていたかもしれない。
 毎回毎回、意表を突くような衝動が私を待ち受ける。
 
 前回は太宰治『走れメロス』を採り上げた、
 ワクワクドキドキのブラックホールシリーズ Part2。
 そして、今回は私にとってど真ん中ストレート、
 わが青春の坂口安吾である。
 あの数々のむごたらしい衝撃シーンを、
 そして、「堕ちよ、生きよ!」を、どうフラメンコ化する!?

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 20091216日/その170即興痴人

 ほんとうの現実というものは、
 小説や映画を軽々と超えてしまうほどに、
 実に唐突にして即興的なスリルに充ちている。<o:p></o:p>

 小説や映画のようにきちんと振付されたものとは異なり、
 現実というインプロは、
 あまりにも全体的な整合性を欠いているので、
 かえってリアリティが感じられないことも多いのだ。
 それらがまるで、三流フィクションの呈をなすことも多々ある。
 一方で、ドゥエンデは滅多に降りてはくれない。
 だから、実際の話を
 もっともらしいリアリティのある話として伝えるためには、
 逆に少しばかり唐突性を緩和する工夫が
 必要になることもある。<o:p></o:p>

 私の場合は、
 自分の眼に映る真実をより正確に伝えることを目的に、
 自分自身をピエロのように立ち回らせる手法を
 使うことがまれにある。
 この方法を用いると、興味や好感を持った対象の、
 その特徴をシンプルにすっきり描けるメリットが生じるからだ。<o:p></o:p>

 だが、その三流ピエロが、
 時おり本来の役割を忘れて即興で踊り出し、
 真摯に描こうとするドキュメントそれ自体を崩壊に導く難点が、
 現在の悩みどころである。
 まあ、これがおれのフラメンコなんだと、
 ドサクサ開き直っちまう手もないではないのだが、
 その前に、ロクに振付も踊れねえくせしやがって
 即興もクソもねーもんだという周囲の罵声で、
 耳がつん裂けそーである。

        
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 2009年12月17日/その171◇ある種の救い

 カッちゃんとは、1コンパス12年の呑み仲間だ。
 私より四つばかり年下だから、今年50になる。
 南の島の出身で、一見アルゼンチン人のような風貌だが、
 純然たる日本人なので、日本語もそこそこ喋る。
 明るく気立てもいいし、金離れもばっちりだし、
 見方によっては男前だ。

 主にスポーツと政治について、
 彼の卓見にはずいぶんと影響を受けたと思う。
 アパレル関連の社長歴32年のツワモノなのだが、
 自分のメインは音楽(ベース)だと主張してやまない。
 バッハもフラメンコもジャズも演歌もわからぬ奴が
 音楽語るなと決めつける私に、
 オレは天才DJだからさ、と臆するところもない。

 彼の愛した女性を、幾人か知っている。
 ある外国人女性は母国ロシアにトンズラし、
 ある才色兼備の女性は議員に当選し、
 20年下のある女性は道往く人が振り返るチョー美女だ。
 独り身を通す彼の辞書に、浮気はない。
 いつも一人の女性とガチンコと付き合う。らしい。

 そんな彼と、あるとき日本史論議になった。
 日本の犯した失敗をひとつずつ検証しながら、
 「でも、あの失敗は結果的によかったんだと思います」
 と、ひとつづつ丁寧に、彼は付け加えた。
 つまり彼は、過去の失敗はすべて許す。
 だが反対に、現在進行形の失敗には容赦がない。
 潔く徹底するその視点が、
 そこまでは徹底できない私には好ましく映る。
 とにかく、いまその瞬間に全力を尽くす。
 その延長線上にある未来のみが、
 彼の興味の対象なのだ。

 このカッちゃんに代表されるように、私の仲間は皆、
 世の中的にはズレまくるポンコツばかりなのだが、
 今さらそこに気づいたところで、
 すでに軌道修正は困難であるところに、
 ある種の救いがあるかもしれない。

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 2009年12月18日/その172◇国境の超え方

 佐藤桂子・山崎泰スペイン舞踊団公演
 ブラックホールシリーズ Part2「満開、桜風伝」
 (2009年12月17日/東京・北千住Theatre1010)

 satoyamazaki.jpg

 年末のお楽しみ、もう四半世紀近く観続ける、
 佐藤桂子・山崎泰スペイン舞踊団の公演。
 おなじみの鍵田真由美はじめ、優れた女性舞踊手を
 多数輩出する、創設32年の伝統ある名門舞踊団だ。
 文化庁芸術祭の三度におよぶ受賞など、
 舞踊関連の賞をほとんど総なめにしている。

 私が最初に観たのは1986年の『エレクトラ』。
 いや、ぶったまげた。
 それは、初めて私が目にする本格的な
 フラメンコ・スペクタクルだったから。
 その本格的な舞台性や斬新性は、本場スペインの
 劇場フラメンコよりも先を行っていたかもしれない。
 その舞台には、ギリシャ悲劇とフラメンコの足し算ではなく、
 掛け算としての相乗効果がもたらされていた。
 フラメンコはこんなことも出来るのか!
 当時31歳の私は、イッパツでこの舞踊団に心惹かれた。

 この『エレクトラ』は舞踊界全体に大きな衝撃と
 感動をもたらし、芸術祭賞と江口隆哉賞を受賞する。
 フラメンコの実力を舞踊界全般に知らしめたこの舞台が、
 私には誇りに思えた。
 エンタテインメントとして一般に通用する水準にも達していた。
 だが、どフラメンコ派の評判は芳しくなかった。
 その気持ちもわかったが、
 それに同意することは出来なかった。

 設立時から台本・演出を担当する唯一の男性舞踊ソリスト
 山崎泰が、私のインタビューに答えたこんなひと言が、
 今も強烈に脳裏に焼きついている。
 「僕は批評する側の人間じゃなくて、
  批評される側の人間だから、
  どんな批評も喜んで受け入れます」
 その潔い舞台人の信念が、その後も休むことなく
 チャレンジと意欲に充ちた素敵な作品を生み出し続けた。

 そして今回、前回の太宰治『走れメロス』に引き続き、
 無頼派・坂口安吾『桜の森の満開の下』に挑む。 
 坂口安吾は、若い私がもっとものめり込んだ作家だ。
 その哲学の合理・独創は超一流。
 バクチ暮らしのバイブルでもあった。
 小説はヘボだったが、『桜の森の満開の下』は唯一の傑作。
 篠田正浩監督によって映画化されたり、
 野田秀樹さんによって舞台化もされた。
 「堕ちよ、生きよ!」という彼の実戦的哲学によって、
 私の行動スタイルは決定されたが、惜しくも私の場合、
 そのあと「また堕ちる」という、
 残念な結果を引きずりながら今日に至っている。

 ひと晩明けて、脳裏に映るのは、
 舞台を夢幻化した桜のファンタジックな美しさと、
 その美しさを幾倍にも拡大した舞いの数々だ。
 「桂子先生の踊りって、ほんとにステキだよね」
 終演後、ばったり出喰わした西脇美絵子が、
 開口一番こう云った。
 フラメンコ界を代表した絶世の美女、
 佐藤桂子が桜を舞うシーンには、
 原作の凄艶美を凌駕する、夢のような現実が在った。

 舞台中盤、古の都を
 現代の都会に置き換える演出にはやられた。
 こんなところにも、この舞踊団の斬新・闊達なセンスがある。
 作品コンセプトを忠実に体現する舞踊団メンバーには、
 いつものように、自立とエロさに充ちた凄みがあった。
 舞踊家・山崎泰は、安吾という題材に打ってつけだった。
 原作の外観は、いつものようにデフォルメされていたが、
 桜や安吾の潔さと、潔い山崎のラストシーンの邂逅は、
 原作の本質のド真ん中を鋭く貫いていた。

 唯一の不満は、生フラメンコとのシンクロの弱さだ。
 べートーヴェンやピアソラからは、あれだけ見事な
 舞踊と音楽の理想的な相乗効果を引き出すのに対し、
 カンテ、ギターなどとの絡みには、その濃密さを欠いている。
 そこには、あくまで舞台全体を重視し、
 フラメンコのみを突出させないバランス感覚を感じるのだが、
 やはり私はこんなワガママを云ってみたい。
 何故なら私は、この命題こそが、この極めて優れた舞踊団が
 より発展・深化するための大きなポテンシャルと考えるからだ。

 佐藤桂子・山崎泰スペイン舞踊団には、いつでも
 エロス(生への衝動)とタナトス(死への衝動)が共存している。
 だから、思わず息を呑むようなおどろおどろしいシーンが
 決まって唐突に出現する。
 その真摯な毒性が「どフラメンコ派」を引かせる要因だろう。
 だが、もうひとつ奥の次元に踏み込んで視るなら、
 それらは国境を超えて、
 見事にフラメンコの本質と合致している。

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 2009年12月19日/その173◇レオンハルトのバッハ全集

 グスタフ・レオンハルト。
 バロック音楽を現代に蘇生させた巨匠。
 世界中の音楽ファンに愛される、
 オランダのキーボード奏者(主にチェンバロ)である。
 映画でバッハの役を演じたこともある。

 小石川・共同印刷のハードなバイト(電話帳製本)で
 メシも抜きぬき、時給230円で10時間働いて、
 ようよう買えたレオンハルトの初めてのレコード。
 うれしかったね。
 そのチェンバロ演奏に夢中でカブりついた高校時代。
 別にLP盤をむしゃむしゃ喰ってたわけじゃないけど。
 
 今年になって、そのバッハ全集が出た。
 20枚組ボックスセットで1万円である。
 1枚なんと500円である。
 それらすべてを持っているのだが、躊躇なく買った。
 分厚い解説書も付いてたしね。

 レオンハルト.jpg

 国境を越えて、
 たくさんのバッハファンを育てたレコードたち。
 それが今じゃ、1枚たったの500円かよ。(涙)
 そんなんじゃアーティスト印税は雀の涙だよ。
 アートばかりは、安けりゃいいってもんじゃない。
 ま、普及のためには安価は好ましいからと、
 無理やり自分を納得させ、3枚ばかり聴く。

 『ゴルトベルク変奏曲』
 『パルティータ』
 『フーガの技法』

 適度に重たいモノクロームの世界に、
 繊細な色彩が点滅するような、
 レオンハルトの宇宙が広がる。
 睡眠不足をものともせずに、
 リラックスしながらタイミングを見計らい、
 その宇宙にワープする。
 しばしの宇宙遊泳。
 てゆーか半分くらい眠っちゃってるし。

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 2009年12月21日/その175◇ありゃりゃ

 「ペースメーカーの人がいるかもしれないから、
  携帯のスイッチは切りなさい」

 シルバーシートに座る、携帯に夢中な少年に対し、
 そのとなりに座る男性が、こう注意した。
 その男性は40歳そこそこだった。

 小田急に乗ってたら、こんな光景に出食わした。
 てゆーか、二人ともまずその席譲んないと。
 だがその直後、私も乗るその車両が
 「女性専用車両」であることに気づいた。(汗)
         
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