4月17日(月)晴れ
義父が亡くなった時、皆が口を揃えて「幸せな人だった。」と羨ましがり、自宅で介護していた義弟を褒め称えた。
もちろんワタクシも、すごいと思うし頭上がらないしお義父さんは幸せだっただろうと思うし、その前に同じように自宅で亡くなった義母も幸せだっただろうと思う。
でも、ここに至るまでの間、ワタクシは何度も、違和感のようなものを抱いた。
それは、夫の実家とワタクシの実家の、宗教観の違いとか、家庭環境、その他もろもろ色んなものが複雑に入り混じってのことだ。
まず義母の癌が発覚した時。
転移も見られ、もう手術はできないとのことだった。
ワタクシは「もっと大きな病院で診てもらえば?」と言った。
しかし、実家から通院できる病院で診てもらいながら自宅での介護が始まった。
痛みをお灸で癒したりしてたと聞き、癌の壮絶な痛みをそんなもので解決できるのだろうか。普段から我慢強かった義母だからできたことだと思った。
ワタクシは、いや、ワタクシの両親及び一族は、基本西洋医学を一番と思っている。信用している。
癌と聞けば「切ってくれ!」と思う。
「切れない」と言われたら、「切ってくれるところ」を探し回る気がする。
そして、どうしても見つからなかったら絶望して、そこから少しずつ立ち直って(どんなシミレーションだ?)死に向き合うと思う。
しかし痛みとか恐怖はやはり西洋医学的なもの=病院に頼ると思う。
癌で亡くなった叔母が二人いるが、二人とも病院で亡くなった。
一人の叔母(父方)は、初めは自宅で最期を、と言ってたが癌の痛みに耐え切れず入院した。
それを聞いた我が母も「きっとあたしもそうすると思う」
年齢的なものも関係するとは思うが、癌経験者であるワタクシも、ものすごくジタバタした。
病院に100%委ねた。
まずは、こういう点で、ワタクシは違和感を感じた。
次に、自宅での介護についてだが、どんなに福祉の力を借りたとしても、やはり自宅で介護というのは大変なことだ。肉体的にも精神的にも。
義母が亡くなった時に、義弟の部屋に掛かってたカレンダー一面に殴り書きされた「南無阿弥陀」の文字が、義弟の精神状態そのものに思われてならなかった。
怖かった。
ワタクシだったらとっくに壊れている。
そして、義弟よりもっと精神的に弱かった義父は、弱っていく妻(義母)を見ることも看ることも慰ることすらもできなかった。
だから、義母が亡くなった時、一人で抱え込んだ義弟が吐いた捨て台詞のようなものは、ワタクシの心に突き刺さった。
「父ちゃんが寝たきりになっても俺は面倒見ないからなっっっ!」
「そうだそうだ!君だけが抱え込むこの環境は良くないよ!」と、距離を言い訳に、何もできないし、しようともしない長男の嫁は心から同意した。
しかし、いざ、その直後に義父が寝たきりになった時も、また、いつの間にか自宅で義弟が看るということになった。
ここらの経緯はよく分からない。
兄弟で話し合った結果、こうなったらしい。
ワタクシの母は、「もし母さんが介護が必要な時になったら施設に入れてね。」と言い続けている。
それが刷り込まれているのか、はたまた遺伝子として生まれ持ってのものか、ワタクシも娘にそう言う。
我が子の人生の負担になりたくないと思う。
そりゃ元気で、自宅で、楽しく暮らせて、眠るように死んでいけたらそれが一番だが、そうそう上手くいくものじゃない。
頑張って頑張って自分たち夫婦だけでなんとか頑張って、それでも厳しい状況になったら、施設に入れるだけの蓄えを備えておこうというのがワタクシの将来設計。
娘に、資産を残してあげたいとはこれっぽっちも思わないが、負担だけは負わせないというのが、ワタクシが思う親としての最後の義務だ。
でも、おそらく夫や、義弟達は違うのだろう。
義母が、自宅で舅姑達の介護をしてきたのをずっと見て育ってきた。
それが当たり前のことだから、自分たちも両親を家で看取るべき(実際には残ってる義弟一人でだったが)と思ってたのだろうし、
義父母も、なんの疑問もなく子供の世話になったのだろう。
家庭環境の違いからか、ワタクシはずっと違和感というか、「義弟の人生はこれでいいだろうか?」と思い続け、もっと言えば、義弟が結婚してなくて良かったかも、とすら思った。
おそらく、義弟は、嫁にも当たり前のこととして親の介護をさせたであろうから。
義父の容態が悪化したと聞き、とにかく息のあるうちに一目会ったほうがいいよと、帰省を勧めた。
義母の時にも最期に間に合わなかった辛い思いがあるので、年度末のチョー激務中だったが、夫は連休を使って帰ることにしていた。
帰省予定の前日、義父が救急車で運ばれたものの、老衰なので(まだ82歳なのに!?老衰って!!!)治療もなく、そのまま自宅へと連れ帰った。
そして、その晩に亡くなったのだが・・・
それまでの、彼ら兄弟の考え方(自宅で看取る)は揺るがないものということは理解できる。
病院で亡くなってしまったら、それまでの義弟の苦労が半減するとは思わないけど、それに近いものを彼らは感じるのかもしれない。
だから、意地でもうちに連れて帰ってきてあげたかったのだろう。
ただ、ワタクシだったら、最期の瞬間に立ち会って、手を握っててあげたいと思ってしまう。
本人はもう意識はないだろうから、これはもう残されたものの勝手な感情なのかもしれないが。
だから、そのためには、少しの延命措置くらいは許されないだろうか。
遠く離れた所に住む子供たちが帰ってくるまでの間、病院で、息をしている状態で、待ってもらうのは、残されるものの最後のわがままと許してもらえないだろうか。
ワタクシは、自分の親にはそうしたいと思う。
たとえ、そこが自宅でなくても良いと思ってしまう。
これは、自分にも当てはまる。
最期は、家族が手を握ってくれて、ワタクシに余裕があれば「ありがとう」くらいは言いたい。
義弟が「医者が来るまで、息の止まった親父を30分間、ただ見てた。何をしたらいいかも分からなかったからさ。」
一人で、親の死に目に立ち会う辛さって悲しすぎないか?背負わせすぎてないか?
人が生きて死んでいくことは、いろいろ大変だ。
子供にだけは迷惑かけないようにしよう、これが50を過ぎたワタクシの思う生きる目標である。
義父が亡くなった時、皆が口を揃えて「幸せな人だった。」と羨ましがり、自宅で介護していた義弟を褒め称えた。
もちろんワタクシも、すごいと思うし頭上がらないしお義父さんは幸せだっただろうと思うし、その前に同じように自宅で亡くなった義母も幸せだっただろうと思う。
でも、ここに至るまでの間、ワタクシは何度も、違和感のようなものを抱いた。
それは、夫の実家とワタクシの実家の、宗教観の違いとか、家庭環境、その他もろもろ色んなものが複雑に入り混じってのことだ。
まず義母の癌が発覚した時。
転移も見られ、もう手術はできないとのことだった。
ワタクシは「もっと大きな病院で診てもらえば?」と言った。
しかし、実家から通院できる病院で診てもらいながら自宅での介護が始まった。
痛みをお灸で癒したりしてたと聞き、癌の壮絶な痛みをそんなもので解決できるのだろうか。普段から我慢強かった義母だからできたことだと思った。
ワタクシは、いや、ワタクシの両親及び一族は、基本西洋医学を一番と思っている。信用している。
癌と聞けば「切ってくれ!」と思う。
「切れない」と言われたら、「切ってくれるところ」を探し回る気がする。
そして、どうしても見つからなかったら絶望して、そこから少しずつ立ち直って(どんなシミレーションだ?)死に向き合うと思う。
しかし痛みとか恐怖はやはり西洋医学的なもの=病院に頼ると思う。
癌で亡くなった叔母が二人いるが、二人とも病院で亡くなった。
一人の叔母(父方)は、初めは自宅で最期を、と言ってたが癌の痛みに耐え切れず入院した。
それを聞いた我が母も「きっとあたしもそうすると思う」
年齢的なものも関係するとは思うが、癌経験者であるワタクシも、ものすごくジタバタした。
病院に100%委ねた。
まずは、こういう点で、ワタクシは違和感を感じた。
次に、自宅での介護についてだが、どんなに福祉の力を借りたとしても、やはり自宅で介護というのは大変なことだ。肉体的にも精神的にも。
義母が亡くなった時に、義弟の部屋に掛かってたカレンダー一面に殴り書きされた「南無阿弥陀」の文字が、義弟の精神状態そのものに思われてならなかった。
怖かった。
ワタクシだったらとっくに壊れている。
そして、義弟よりもっと精神的に弱かった義父は、弱っていく妻(義母)を見ることも看ることも慰ることすらもできなかった。
だから、義母が亡くなった時、一人で抱え込んだ義弟が吐いた捨て台詞のようなものは、ワタクシの心に突き刺さった。
「父ちゃんが寝たきりになっても俺は面倒見ないからなっっっ!」
「そうだそうだ!君だけが抱え込むこの環境は良くないよ!」と、距離を言い訳に、何もできないし、しようともしない長男の嫁は心から同意した。
しかし、いざ、その直後に義父が寝たきりになった時も、また、いつの間にか自宅で義弟が看るということになった。
ここらの経緯はよく分からない。
兄弟で話し合った結果、こうなったらしい。
ワタクシの母は、「もし母さんが介護が必要な時になったら施設に入れてね。」と言い続けている。
それが刷り込まれているのか、はたまた遺伝子として生まれ持ってのものか、ワタクシも娘にそう言う。
我が子の人生の負担になりたくないと思う。
そりゃ元気で、自宅で、楽しく暮らせて、眠るように死んでいけたらそれが一番だが、そうそう上手くいくものじゃない。
頑張って頑張って自分たち夫婦だけでなんとか頑張って、それでも厳しい状況になったら、施設に入れるだけの蓄えを備えておこうというのがワタクシの将来設計。
娘に、資産を残してあげたいとはこれっぽっちも思わないが、負担だけは負わせないというのが、ワタクシが思う親としての最後の義務だ。
でも、おそらく夫や、義弟達は違うのだろう。
義母が、自宅で舅姑達の介護をしてきたのをずっと見て育ってきた。
それが当たり前のことだから、自分たちも両親を家で看取るべき(実際には残ってる義弟一人でだったが)と思ってたのだろうし、
義父母も、なんの疑問もなく子供の世話になったのだろう。
家庭環境の違いからか、ワタクシはずっと違和感というか、「義弟の人生はこれでいいだろうか?」と思い続け、もっと言えば、義弟が結婚してなくて良かったかも、とすら思った。
おそらく、義弟は、嫁にも当たり前のこととして親の介護をさせたであろうから。
義父の容態が悪化したと聞き、とにかく息のあるうちに一目会ったほうがいいよと、帰省を勧めた。
義母の時にも最期に間に合わなかった辛い思いがあるので、年度末のチョー激務中だったが、夫は連休を使って帰ることにしていた。
帰省予定の前日、義父が救急車で運ばれたものの、老衰なので(まだ82歳なのに!?老衰って!!!)治療もなく、そのまま自宅へと連れ帰った。
そして、その晩に亡くなったのだが・・・
それまでの、彼ら兄弟の考え方(自宅で看取る)は揺るがないものということは理解できる。
病院で亡くなってしまったら、それまでの義弟の苦労が半減するとは思わないけど、それに近いものを彼らは感じるのかもしれない。
だから、意地でもうちに連れて帰ってきてあげたかったのだろう。
ただ、ワタクシだったら、最期の瞬間に立ち会って、手を握っててあげたいと思ってしまう。
本人はもう意識はないだろうから、これはもう残されたものの勝手な感情なのかもしれないが。
だから、そのためには、少しの延命措置くらいは許されないだろうか。
遠く離れた所に住む子供たちが帰ってくるまでの間、病院で、息をしている状態で、待ってもらうのは、残されるものの最後のわがままと許してもらえないだろうか。
ワタクシは、自分の親にはそうしたいと思う。
たとえ、そこが自宅でなくても良いと思ってしまう。
これは、自分にも当てはまる。
最期は、家族が手を握ってくれて、ワタクシに余裕があれば「ありがとう」くらいは言いたい。
義弟が「医者が来るまで、息の止まった親父を30分間、ただ見てた。何をしたらいいかも分からなかったからさ。」
一人で、親の死に目に立ち会う辛さって悲しすぎないか?背負わせすぎてないか?
人が生きて死んでいくことは、いろいろ大変だ。
子供にだけは迷惑かけないようにしよう、これが50を過ぎたワタクシの思う生きる目標である。