作家 小林真一のブログ パパゲーノの華麗な生活

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【 会津藩は気の毒な宿命に墜ちた(歴史エッセイ132話) 】

2013-04-09 17:50:08 | 05 歴史エッセイ

藩主松平容保は、元々会津松平家の人間ではない。
尾張の属領ともいうべき、高須藩に生まれ、兄が尾張を
そして弟が、戊辰の役で会津と共に幕府側の主力として
最後まで戦った桑名の藩主になった。

容保は高須三兄弟の真ん中である。
弟が養子に入った桑名藩は、すでに京都所司代に任じられ
ており、幕末の勤皇の士が、或はそれを名乗るものが跋扈して
京都所司代のチカラだけでは、取締りの役目が果たせなくなって、
容保の会津藩に、それまで職名もなかった京都守護職を、
幕閣から命じられた次第。

長州を主軍に、倒幕の勢いが増す京都に、大軍を率いて赴任
するのは、会津藩を挙げて猛反対の気運の中を、容保は藩祖
保科正之以来、徳川宗家の危機に際しては、論議の外と強引
に藩の重役たちの反対を押し切っての上洛。

すでに京都に在って、殺伐な時代の主役化していた、浪士組の
新撰組の抱え主となったことが災いした。新撰組を美化して描く
馬鹿者が作家を名乗る中に多くいるが、実体は連合赤軍の粛清
を想起させる程の、殺戮集団である。

新撰組は食い詰め浪人の集まりで、それが会津候お抱えとなって
衣食が足り、浪士と見れば問答無用の殺害に及んで、世間の眉を
ひそめさせる振る舞いが多かった。

さて、藩祖保科正之だが、彼は二代将軍秀忠が侍女に産ませた、
隠し子で、信州の小藩保科家で保護されて成長した。
実弟忠長を、謀反の名を着せて切腹させた三代家光が、正之の
存在を知って、大いに喜び、以後弟して厚く遇した事が、後世に
会津藩にとっての仇となる。

孝明帝が最も信頼したのが容保であったにも関らず、不良公卿の
岩倉具視が帝を暗殺し、容保と会津藩の運命が暗転する。

徳川家康は、個人的には大嫌いなヤツだが、十五代の徳川将軍の
中では唯一、秀でた人物と言えて,後の十四人は、吉宗を含めて
ロクデナシばかりである。

保科正之は、不幸な生い立ちではあったが、家康の血を引いた人間
の中で、ただ一人の人物であったと思われる。
縁もない高須藩から、容保を養子に迎えたばかりに、長州勢を主力
とする官軍に、およそ日本の歴史上も、もっとも残酷な目に遭わされた。

藩を挙げて、下北半島の寒風吹きすさぶ、コメなど取れるはずも無い
僻地に追いやられるのである。こと会津に関する限り、その悲惨な運命
に涙する。

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