おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「ばかもの」 絲山秋子

2011年02月24日 | あ行の作家
「ばかもの」 絲山秋子著 集英社文庫 2011/02/23読了  

 完全にノックアウトされた気分。 絲山秋子はスゴすぎる。

 フィギュアの高橋大輔選手のステップを見ていると、足がムズムズしてくる。スウェットを着て、毛布を被ってだらしない格好でテレビを見ているというのに、心は向こう側の世界に引きずり込まれ、一緒になってリズムを刻んでしまう。できることならば、踊り出したいような気分になる。私にとっては、絲山秋子の文章もそんな感じなのだ。複雑で、斬新で、最高に心地よいリズム。私の心も動き出す。いつまでも、いつまでも、鳴り止まないでほしい音楽。

 といっても、絲山秋子の文章は、いわゆる耽美主義的なものではない。なにしろ「ばかもの」の最初の一文は「やりゃーいーんだろー、やりゃー」という、全く、お上品とは言えないセリフだ。何をやるのかと思えば、かなりドギツイ、セックスシーン。自由奔放な額子が、年下の恋人・ヒデを言葉と態度でいたぶり、それでも、ヒデは額子に傅き、尽くそうとする。 

 物語の中に「ばかもの」というセリフが2回出てくる。1度は額子がヒデに対して、2度目はヒデが額子に対して発する言葉だ。確かに、ヒデも額子もとてつもない「ばかもの」だ。弱く、脆く、愚かだ。しかし、弱く、脆く、愚かなのは、額子とヒデだけではない。冒頭のセックスシーンは、人間の弱さ、脆さ、愚かさを象徴しているようだ。だから、ドギツイ描写のようでいて、全く、エロではない。結局、人間は、誰かと寄り添わずには生きていけないし、「永遠」なんてことは誰も保証してくれないけれど、やっぱり、永遠を信じずにはいられないのだ。

 その後、「結婚することにした」という額子に、ヒデは一方的に捨てられる。理不尽な別れを受け入れることができず、次第に酒に溺れていくヒデ。自らが選んだ結婚という選択に後ろめたさを抱き続け、不幸な事故を契機に、結婚に終止符を打った額子。

 その2人が地獄の苦しみを経て、再会する場面が美しい。もちろん、ここでも、嘆美主義的な美しさはない。絲山秋子は、決して、額子に甘い言葉を語らせることはない。額子は最後の最後まで、ちょっと乱暴で、ぶっきらぼうだ。それでも、愛する人に裏切られ、愛する人を裏切り、傷ついた2人が、やっぱり、寄り添わずには生きていけないことを悟り、「永遠」を信じようとする。弱く、脆い人間は、強く、逞しくもあるのだ。

 最後に、ヒデが額子に言う「ばかもの」という言葉の暖かさが、胸にジンワリと残る。美しい音楽の余韻を楽しむように、最後のページを閉じてしまうのがもったいないくらいに絲山秋子の文章の残響を楽しんだ。