おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「雷電本紀」 飯嶋和一

2011年06月21日 | あ行の作家

「雷電本紀」 飯嶋和一著 小学館文庫  11/06/20読了      

 

 江戸時代の伝説の力士・雷電為右衛門と彼を取り巻く人々にスポットを当てた時代小説。

にもかかわらず、ページをめくるたびに今日の日本のことを深く考えさせられる。 

 

 雷電は力士生活21年。生涯成績25410敗。勝率96分。名横綱として後生に名を残すであろう千代の富士や曙ですら勝率75分であることを考えると、時代が違うとはいえ「史上最強力士」の称号に納得がいく。

 

 当時、力士は各藩が抱える下級武士の身分。力士を戦わせ、その勝敗が、幕府公認の博打となっていた。故に、相撲とは純粋な力士同士の勝負というよりも、藩と藩とのメンツの張り合いであり、賭けの勝ち負けをめぐる思惑が働いたりした。「自藩のお抱え力士の負けがこまないように」「親しい藩に頼まれたから、勝ち星を一つ貸しておく」といった「拵え相撲」が横行していた時代に、雷電は、誰の指図も受けることなく、誰に手加減することもない真剣勝負の力士としてめきめきと頭角を現す。雷電は相撲界では疎んじられることも多々あったが、江戸の庶民たちからは熱烈な支持を得、そして、停滞していた相撲人気が復活する。

 

 ストーリーの中で、母親が子どもの無事な成長を願って力士に子ども託し、抱き上げ、厄払いしてもらう場面と、江戸の大火で焼き出された人々に力士たちが炊き出しをする場面が印象に残った。今でも、力士が子どもを抱きかかえて土俵に上がり、びっくりした子どもが泣き出す声を競い合う「泣き相撲」という伝統行事が各地に残っているが、鍛え上げられた美しい身体と、他を寄せ付けない圧倒的な強さには、神が宿っていると考えられているのだろう。私は、全く、相撲に詳しくはないが、それでも、全盛期の千代の富士、貴乃花の身体は神々しく、その強さは説明無用の説得力があったように思えた。

 

 勝負の世界には様々な思惑が働き、お金の魔力に負けてしまう人も少なからずいるのが世の常。ゆえに、江戸の「拵え相撲」の伝統が脈々と引き継がれ、平成の世になって「無気力相撲」や「八百長相撲」が行われていたのは、致し方のない現実なのだろう。しかし、時として、土俵の上に「神」が現れるからこそ、相撲は廃れることなく、なんとか生き延びてきたのではないだろうか。相撲人気は浮き沈みを繰り返しているが、それは「神」の在・不在によるものなのかもしれない。そういう意味では、観衆は「神」の存在を敏感に察知しているのだろうし、「八百長相撲」が表沙汰になったのは、今の相撲界に圧倒的な「神」が存在しないが故なのではないだろうか―とそんなことを考えた。ただ、被災地で炊き出しをしていた白鵬は美しかった。今の角界では、「神」に一番近い存在なのだろう。物語の中で江戸の力士が炊き出しをする場面とシンクロした。

 

 雷電は晩年に至り、かつて自分が負かしてきた力士たちの鎮魂のために、資金を集め寺の鐘を鋳造した。しかし、当時、寺社奉行は出世街道の要衝だったことが禍いし、幕府内部の権力闘争に巻き込まれる形で、「鋳造した鐘は幕府の定めに反している」と言いがかりを付けられて投獄され、江戸払いを申し渡される。雷電の最大・最良の理解者であり、鐘の鋳造に尽力してくれた助五郎は罪を1人で背負って獄死した。史上最強の力士の晩年は、決して幸福ではなかった。しかし、江戸の民は、本当に責められるべきは罪人とされた雷電ではなく、権力者たちであることを見抜いていた。

 

 大火が相次ぎ、疫病が蔓延し、人心荒廃しても江戸の役人たちが権力の虜となったように、平成の世でも永田町は相変わらず楽しい権力争いにうつつを抜かしていらっしゃるようだ。かくして、人間とは歴史に学ばず、同じことを繰り返し続ける運命なのだろうかと、暗澹たる気持ちになる一方で、権力者たちが無知蒙昧の民と思い込んでいる民草の生命力と英知こそが、時代を一歩進める原動力になるのだ―と願わずにはいられない気持ちで読み終えた。

 

 で、読み終えたあとの「オマケ」が素晴らしくよかった。久間十義氏による飯嶋和一インタビューが収録されていた。ネットで調べても、飯嶋和一氏に関する情報はほとんどなく、心の中で崇拝しつつも、その姿がまるで見えない人物だったが… ほんの少しだけ、後ろ姿を拝めたような気分。徹底したプロフェッショナリズムと、ストイックなまでの細部へのこだわりがあるからこそ、寡作にならざるをえず、でも、その分、完成度の高い作品を生み続けていることに納得。 

 

 飯嶋和一の作品を読むと、いつも、「歴史観」を持つことの大切さを思う。

 妄想的希望。飯嶋和一×磯田道史の対談を読んでみたい。誰だって、自分の生きた時代が後世の検証に耐えうるものであってほしいもの。そのためにも、歴史を見る眼を、振り返る心を養いたい。



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