おりおん日記

電車に揺られて、会社への往き帰りの読書日記 & ミーハー文楽鑑賞記

「厭世フレーバー」 三羽省吾

2008年08月13日 | ま行の作家
「厭世フレーバー」 三羽省吾著 文春文庫 (08/08/13読了)

 巻末の解説(by角田光代氏)は超・絶賛モードでしたが、私は「なんとなくイマイチ~」という気分のまま読了してしまいました。

 一つ屋根の下に暮らす崩壊寸前の家族の物語。一家の大黒柱であるはずのお父さんは退職勧奨されて会社にいづらくなり、割り増し退職金をもらって行方不明。残されたのは不倫を経て妻の座に収まった母ちゃん、血のつながらない兄と妹・弟、ややボケぎみの爺ちゃん-の5人。崩壊寸前というよりも、事実上の破綻状態ですな。

 残された5人が順に(末っ子から始まり、最後は爺ちゃん)、自分について、家族について語っていく形でストーリーが展開。一見、バラバラのように見える家族なのに、それぞれが家族をさりげなく思いやり、身勝手なようでいて純粋で、投げやりなようでいて一生懸命で-だから、歯車がかみ合い始めると、急速に収れんし始める。気が付くと、主人なしでも、家族は再生へのも道を歩み始めているという感じなわけです。しかし、語り手が次々と変わることで読者の視点も変わり、それによって、欠けた部分が埋まり、読み終わると、物語が完成している-という手法って、まあ、ありがちのような。しかも、最初の二章、ケイ&カナのティーンズ姉弟の部分の、わざとらしい若者言葉が、読んでいて疲れてしまいました。さらに、語り手が変わるたびに「実は…」というちょっとした種明かしがあるのですが、それも、やや無理があるというか…出来すぎの印象を受けました。
 
 ただ、爺ちゃんの語りの中で「どいつもこいつも簡単に『殺したい』『死にたい』『逃げ出したい』などと口にするが、そんなのはワシに言わせれば厭世ごっこだ」という言葉は、ズシンと来ました。タイトルが「厭世フレーバー」であるということを考えあわせると、恐らくは、著者が一番、伝えたいことは、まさに、この爺ちゃんのセリフだったのではないでしょうか。とすれば、「複数の登場人物による語り分け」などという技巧に走らず、もっとストレートに、爺ちゃん中心の物語でもよかったのかなぁと。ま、「重いことを重いまま書く」か「重いことを軽いタッチで書くか」も、著者の選択であり、どちらが正しいということもないのでしょうが…私的には、本当に言いたいことを表明するまでの過程が、ちょっと回りくどすぎた感じがします。


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