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もんく [マレーシアで働いて13年→2022猫を連れて日本]

意識は身体活動の単なる一部だとすれば

たぶん多くの人は自分の意識というものが存在して、それが統合された一つのものと認識しているだろう。そしてその意識が自分全体をコントロールして上手く考えたり決めたりそれに身体を動かしたりしているとも考えていると想像する。想像するのは自分がなんとなくそう感じているから。違う人がいるかもしれないが。

その意識はきっと脳あたりのどこか精神活動をしている。でも意識自体はそれが脳なのかその他なのかがわかっていない。脳という物体があってそれがどう動いているからこの意識が動いているというのは意識の側では全く感じない。それどころか、意識は肉体をを離れた遥か遠い宇宙のようなところと繋がっているとさえ考えている場合があるほど。(←極端な例として)

しかしながら、ちゃんと見てみれば意識は単に肉体(脳など)の活動の結果に過ぎないと考えられる。

例えばある種の認知症になった時、脳に変化があって意識にもそれが表れる。意識は自分がこれまでと違わないと思っていたとしてもそんなわけはない。例えば十代から二十代の頃のことを思い返してみる。身体が成熟に向かうその時点とそれから長い年月を経た今とでは同じような状況に面しても考えは違う。青虫が腹を満たすのに葉を齧るが蝶になってから葉を齧ろうとは考えないのと同じだ。

ともかく、今の自分というもの、自分の意識、精神的あり方は宇宙とか霊的な何かとかそんな崇高なものじゃなくて肉体に貼り付いているその結果なわけで、自分で思うより物理的だ。残念だがそうだ。脳がある機能を失えば意識の上での活動も失われる。ただそれだけ。

けれど、人間はそんな自然に反抗して生きるものでもありそうだ。例えば教育は親から与えられた自然に反抗する一つの手段だ。それともう一つは意識は意識自信を監督するスキルを身につけることができる。自分自信のあり方を自分自信でモニターして修正できる。訓練は必要だが。

自分の場合、父親はとても怒りっぽい人だった。抑圧的でもあった。今、弟を見るとあの父親の精神的傾向がいくらか写し込まれているように見える。物事に対する身体的な反応の仕方が親から伝わっているのだろう。けれど、同じ事象に対して他の人は笑って対処しているのを知ることもできるし、何らかの快適なやり方を自身で訓練することだってできる。不愉快なやり方は捨てることができる。快適なやり方を習慣化することで自然に反抗できる。

そのうちまた脳が変化して別の不快を催すかもしれないにしても、さらに反抗できるかもしれない。
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