活断層ハウスの柄、キャサリンさんには不評だった。
そうだとは思っていた。キャサリンさんはチェックとかボーダーとか、無地のような無難な柄でくすみの無い青とか赤とかオレンジとかしか良いと言わないはずだから。
今の日本では壁に絵を描くというようなことはしない。せいぜい壁紙にちょっとしたテクスチャがある程度だったり子供部屋にそれらしき柄がある程度だ。やはり長期間使うことを考えたら飽きてしまいそうな絵柄は選べないということだ。
が、なぜそんな心配をするかというと、結局のところ「好き」で選んでいないからだ。家を注文する時に気に入った画家を呼んで描いてもらうというのは江戸時代の殿様じゃないのでできない。それじゃ自分で描くかというと下手すれば何十年先まで汚点を残すことになりかねないからしない。
そうして自分の家なのに無難さの塊を作ってしまうことになる。残念だけれどもそんなもの。
無難さといえば色柄だけじゃない無難さというのを我々は常に経験している。日本家屋は基本的に何にでも使える部屋造りになっている。寝室にも居間にもなる四角い部屋がそれだし、公共の建築物でも長テーブルを並べれば会議室になりお茶を持ってくれば談話室、全部退ければヨガ教室になったりする。全く無難で何にでも使える。
けれど、何に使うにしても全部中途半端だ。談話室として使うと妙に寂しいし、会議をやるにしてはパイプ椅子の座り心地が悪くプロジェクターも音響設備も具合が悪い。つまり何にでも使える何にも使えない部屋と言える。
建築でよくやるのが特定の機能を持たない曖昧な空間を建物の一部に作るというものだが、それによって何かが誘発されるとか思いも寄らぬ出会い(人と人だけじゃない)が発生するとか。まあ、上手くやればそれもできないこともないのかもしれないが、ほとんど無理だろう。なぜならその場所に人がいて何も感じない空間を作ってしまいがちだから。無難な言い訳だ。
と、そんなことは置いておいて、この活断層ハウスは自分という個人の持ち物なわけで、そうした無難さを排することが簡単にできる。誰かに遠慮する必要は全くないのだから。床間を潰してスピーカーの為に使うのも壁の色柄も天井を取り除くのも押入れを壊してしまうのも何でもできる。ここはそういう「場所」になったわけであって、既に人が住むための「家」ですらない。
そういう「場所」というのは、機能面でも特にそうだ。最近スピーカー設置の件をFBなどで載せているせいで何人かが「ライブハウスにするの?」「ジャズ喫茶にするの?」などと聞かれる。いえいえ、音楽聴きたければ一日中聴いてもらって構わないし、ギター弾きたければやってもらって構わない。勉強でも読書でもお喋りでもお茶でも食事でも寝ててもできるなら何でもOKな、ただの「場所」を作ったつもり。
ただ、音楽を聴くとしたら自分の家ではいろいろ制約があってヘッドホンで聴くかミニコンポ程度になってしまう人もいると思うけれど、ここでは割とちゃんとしたオーディオシステムの大きなスピーカーで大きな音を出して聴いて欲しい。それだけは家と違うよ、と。