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もんく [とある南端港街の住人になった人]

8 親子の話し合いが無駄なわけ

キャサリンさんがYoutubeで父親の介護をテーマにしたチャンネルを観ているので一緒に観せてもらっている。

その人は親の希望をよく聞いているしそれに沿うようにも動いている。つまりよくやっている。だが、その父親は自分のお金が底をついているにも関わらず無駄と思えるコストはそのまま垂れ流しにしていて、下手すると家を手放さなければならないまでになっている。さらに言うには、充分に供給されている食べ物が少ないと不満を言う。(認知機能の問題でそう言っているのではない)

そうした不満は少なくとも2年前から変わっていない。普通の感覚で考えれば、「電気代や水道代を払えなくなった人ならその時点でもう生活のやり方を変えなければいけないと考える」はずだと我々は思う。そう考える人もいるだろうが、実際はそうでもない。沈む船に乗りながらも「大丈夫だろう」と考えて本当に死んでしまうのが人間だ。

さて、それはそうとして、だったら見ている方はどうすれば良いのかという問題になる。沈むのは沈む人の問題だが、見ている方には別の問題が出てくる。どうすれば良いのか、だ。

多くの人は当事者の話を聞いたり、話し合ったり、意見交換のような事をする。とりわけ肉親であれば普通にそうするだろう。だが、実際のところ、そのやり方は無意味だ。その理由は、話を聞いて話し合いをして何かを決めて実行という段取りを想定するだろうが、それは単に相手の言葉に「反応」する機会を設けているに過ぎないのだ。

誰かが自分に向かって「バカヤロー」と言ったら対抗して「このクソヤロー」と返すに過ぎない。それは名目上は話し合いだろうが、実際には「反応」だ。言葉でクソヤローならまだしも、本当のところ「ワンワン」「シャーシャー」と変わらない。そんなのは長年親子やってきていれば誰にでもわかるが、変えられない。そんなものだ。話なんか聞いてもしても無駄なのだ。

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