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もんく [マレーシアで働いて13年→2022猫を連れて日本]

自分が正しくて相手が間違っていても戦ってはダメ

政治の話をすると他人との関係が上手くいかなくなってしまうとは、昔から言われる。

これ自体について当然のように言われるが、そのことに疑問を持つ人はあまりいない。そして、正しくない意見を言う人(人そのもの)を批判するのは当然だと考えている人が多い。多いというか、世間一般にそうだ。

先日、ある自治体の市長選挙があった時にある候補者を応援する●●党の議員が別の候補者を非難したことに抗議する意見がFBに書かれていた。支持する候補者の政策が良いと思うのなら対立候補を下げる必要はないのだ。

対人関係が悪くなるのは家の中でも起きる。(起きている) 自分はそもそもYoutubeのトークチャンネルは聞かないが、キャサリンさんは聞く。最近よく聞いているのはここから遠いところにある、ある市の市長のチャンネルだ。このことを言うと険悪になる。

先にちゃんと言っておくが、自分はその市長が間違っているとは思わないし、嫌いでもない。何かを変える必要があると考えて行動しているのは評価する。

ただ、その方を全面的に支持する事はできない。問題はそこだ。(「そこ」は我が家と市長とのことが入れ子になっている)自分がその市長のすることを支持できないのは市長が戦っているからだ。彼は自分が正しいと考えていて自分を引きずり下そうと考える古参議員たちはそうではないと考えている。そして自分は戦ってはいないと言う。つまり相手が勝手に・・・だ。最期には自分はそれで痛くも痒くもなく、影響を受けるのは市民と言う。一見まともなことを言っているようだが、言う事を言っていればそれで良いということで、つまりは実現が目標でなくいつしか言うことが目標になってしまっている。だから実現しないことに痛みを感じることはない。

同じことが戦争の中でもある。正しいことを言う、正しい方を支持する、でも実際の被害を被るのは自分じゃない。つまり問題はいつも自分の外にあると考えている。問題を解決するには外のものをどうにか打ち負かせば良いとなる。できなくてもそれは自分の外部の何かが悪いのだから仕方ない。

話をもとのところに戻すと、今この場所がこんなに悪くなってしまっているのはあの人たちのせいだ。だから自分は正そうと考えて正しいことを言っている。そこに発生するのは分断だ。世代間の分断。これまでやってきた年齢層の高い人たちと正そうと考える若い人たち。

結局、人と人を分断してしまえば、根本的なこととして話し合い、議論はできない。過去の時間に部分最適を求めてきたやり方を時代が変わった中で考慮せずに否定してしまい、そしてそれを行った人を巻き添えに否定すれば永遠に話し合いは進まず、お互いに戦うことが目的化してしまう。

それがこちらにも飛び火して冒頭の「政治の話をすると・・・」になる。もっと悪いことに、こうしたことは他人勝手な思い込みで判断、そして断罪してしまうことに繋がる。神でもないのに人を判断したり順位付けしたり。(歴史の教科書にも書かれている最もしてはいけないことではないのか?)
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