地球に夢中研究所

肺ガンIV期。自身のガンを治しつつ、世界の人々の健康への貢献を目指す、「地球に夢中研究所」代表 太田和廣の日記。

学ぶ力(内田樹ブログ)

2011-09-09 10:05:47 | 文化
内田樹さんのブログ

http://blog.tatsuru.com/

脳腫瘍・手術の影響で読むスピードが落ちてしまって、以前は全部読んでたのがだんだん溜まっていって、ついに「最近の記事」のところの全部読んでない状態だ。
もうこうなったら、と、すっ飛ばして、最新作を読む。

感動。

まるで、私に書いてくれた話だと思った。
以前にも読んだ話のアレンジだけど、そんなことはどうでもいい。
今の私に、必要な話だった。

「学ぶ力」。
私は、今、まさに、多くの師匠に支えられ、いろいろなことを学んで成長している。
内田先生もその一人なんだなあ。
時々読ませていただきます。
がんばってねってサイン本もいただいたなあ。
あらためて、うれしいなあ。

ケータイの人もいるだろから、以下、全文掲載するよ。
内田先生は、むしろお喜びになるはずだ。

---
内田さんのブログ「内田樹の研究室」より。

2011.09.02
学ぶ力
「学ぶ力」という文章を書きました。中学二年生用の国語の教科書のために書き下ろしたものです。本が届いて、読んでみたら、なかなか「なるほど」と思うことが書いてあったので(自分で言うなよな)、ここに再録することにします。
中学二年生になったつもりで読んでね。

「学ぶ力」



「学ぶ力」

 日本の子どもたちの学力が低下していると言われることがあります。そんなことを言われるといい気分がしないでしょう。わたしが、中学生だとしても、新聞記事やテレビのニュースでそのようなことを聞かされたら、おもしろくありません。しかし、この機会に、少しだけ気を鎮めて、「学力が低下した」とはどういうことなのか、考えてみましょう。
 そもそも、低下したとされている「学力」とは、何を指しているのでしょうか。「学力って、試験の点数のことでしょう」と答える人がたぶんほとんどだと思います。ほんとうにそうでしょうか。「学力」というのは  「試験の点数」のことなのでしょうか。わたしはそうは思いません。
 試験の点数は数値です。数値ならば、他の人と比べたり、個人の経年変化をみるうえでは参考になります。でも、学力とはそのような数値だけでとらえるものではありません。「学力」という言葉をよく見てください。訓読みをしたら「学ぶ力」になります。わたしは学力を「学ぶことができる力」、「学べる力」としてとらえるべきだと考えています。数値として示して、他人と比較したり、順位をつけたりするものではない。わたしはそう思います。
 例えば、ここに「消化力」が強い人がいるとしましょう。ご飯をお腹いっぱいに詰め込んでも、食休みもしないで、すぐに次の活動に取りかかれる人は間違いなく「消化力が強い」といえます。「消化力が強 いです」と人にも自慢できます。しかし、それを点数化して他人と比べたりしようとはしないはずです。  「睡眠力」や、「自然治癒力」というものも、同様のものだと思います。どんなときでもベッドに潜り込んだら、数秒で熟睡状態に入れる人は睡眠力が高いといえるでしょう。この力は健康維持のためにもストレスを軽減するうえでも、きわだって有用ですが、睡眠力を他人と比較して自慢したり、順位をつけたりすることはふつうしません。怪我をしてもすぐに傷口がふさがってしまう自然治癒力も生きるうえでは、おそらく学力以上に重要な力でしょうが、その力も他人と比較するものではありません。わたしは「学力」もそういう能力と同じものではないかと思うのです。
 「学ぶ力」は他人と比べるものではなく、個人的なものだと思います。「学ぶ」ということに対して、どれくらい集中し、夢中になれるか、その強度や深度を評するためにこそ「学力」という言葉を用いるべきではないでしょうか。そして、それは消化力や睡眠力と同じように、「昨日の自分と比べたとき」の変化が問題なのだと思います。昨日よりも消化がいいかどうか、一週間前よりも寝つきがよいかどうか、一年前よりも傷の治りが早いかどうか。その時間的変化を点検したときにはじめて、自分の身に「何か」が起きていることがわかります。もし「力」が伸びているなら、それは今の生き方が正しいということですし、「力」が落ちていれば、それは今の生き方のどこかに問題があるということです。
 人間が生きてゆくためにほんとうに必要な「力」についての情報は、他人と比較したときの優劣ではなく、「昨日の自分」と比べたときの「力」の変化についての情報なのです。そのことをあまりに多くの人が忘れているようなので、ここに声を大にして言っておきたいと思います。自分の「力」の微細な変化まで感知されている限り、わたしたちは自分の生き方の適不適を判定し、修正を加えることができます。
「学ぶ力」もそのような時間の中での変化のうちにおいてのみ意味をもつ指標だと私は思います。その上で「学ぶ力」とはどういう条件で「伸びる」ものなのか、それを具体的にみてみましょう。
「学ぶ力が伸びる」ための第一の条件は、自分には「まだまだ学ばなければならないことがたくさんある」という「学び足りなさ」の自覚があること。無知の自覚といってもよい。これが第一です。
「私はもう知るべきことはみな知っているので、これ以上学ぶことはない」と思っている人には「学ぶ力」がありません。こう人が、本来の意味での「学力がない人」だとわたしは思います。ものごとに興味や関心を示さず、人の話に耳を傾けないような人は、どんなに社会的な地位が高くても、有名な人であっても「学力のない人」です。
 第二の条件は、教えてくれる「師(先生)」を自ら見つけようとすること。
 学ぶべきことがあるのはわかっているのだけれど、だれに教わったらいいのかわからない、という人は残念ながら「学力がない」人です。いくら意欲があっても、これができないと学びは始まりません。
 ここでいう「師」とは、別に学校の先生である必要はありません。書物を読んで、「あ、この人を師匠と呼ぼう」と思って、会ったことのない人を「師」に見立てることも可能です(だから、会っても言葉が通じない外国の人だって、亡くなった人だって、「師」にしていいのです)。街行く人の中に、ふとそのたたずまいに「何か光るもの」があると思われた人を、瞬間的に「師」に見立てて、その人から学ぶということでももちろん構いません。生きて暮らしていれば、至る所に師あり、ということになります。ただし、そのためには日頃からいつもアンテナの感度を上げて、「師を求めるセンサー」を機能させていることが必要です。
 第三の条件、それは「教えてくれる人を『その気』にさせること」です。
 こちらには学ぶ気がある。師には「教えるべき何か」があるとします。条件が二つ揃いました。しかし、それだけでは学びは起動しません。もう一つ、師が「教える気」になる必要があります。
 昔から、師弟関係を描いた物語には、必ず「入門」をめぐるエピソードがあります。何か(武芸の奥義など)を学びたいと思っていた者が、達人に弟子入りしようとするのですが、「だめだ」とすげなく断られる。それでもあきらめずについていって、様々な試練の末に、それでもどうしても教わりたいという気持ちが本気であるということが伝わると、「しかたがない。弟子にしてやろう」ということになる。そのような話は数多くあります。
 では、どのようにしたら人は「大切なことを教えてもいい」という気になるのでしょう。
 例えば「先生、これだけ払うから、その分教えてください」といって札束を積み上げるような者は、ふつう弟子にしてもらえません。師を利益誘導したり、おだてたりしてもだめです。だいたい、金銭で態度が変わったり、ちやほやされると舞い上がったりするような人間は「師」として尊敬する気にこちらの方がなれません。
 師を教える気にさせるのは、「お願いします」という弟子のまっすぐな気持ち、師を見上げる真剣なまなざしだけです。これはあらゆる「弟子入り物語」に共通するパターンです。このとき、弟子の側の才能や経験などは、問題になりません。なまじ経験があって、「わたしはこのようなことを、こういうふうな方法で習いたい」というような注文を師に向かってつけるようなことをしたら、これもやはり弟子にはしてもらえません。それよりは、真っ白な状態がいい。まだ何も書いてないところに、白い紙に黒々と墨のあとを残すように、どんなこともどんどん吸収するような、学ぶ側の「無垢さ」、師の教えることはなんでも吸収しますという「開放性」、それが「師をその気にさせる」ための力であり、弟子の構えです。たとえ、書物の中の実際に会うことができない師に対しても、この関係は同様です。同じ本を読んでいても、教えてもらえる人と、もらえない人がいるのです。
 「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。繰り返します。
 第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
 第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
 第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
 この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。数値で表せる成績や点数などの問題ではなく、たったこれだけの言葉。これがわたしの考える「学力」です。このセンテンスを素直に、はっきりと口に出せる人は、もうその段階で「学力のある人」です。
 逆に、どれほど知識があろうと、技術があろうと、このひとことを口にできない人は「学力がない人」です。それは英語ができないとか、数式を知らないとか、そういうことではありません。「学びたいのです。先生、教えてください。」という簡単な言葉を口にしようとしない。その言葉を口にすると、とても「損をした」ような気分になるので、できることなら、一生そんな台詞は言わずに済ませたい。だれかにものを頼むなんて「借り」ができるみたいで嫌だ。そういうふうに思う自分を「プライドが高い」とか「気骨がある」と思っている。それが「学力低下」という事態の本質だろうとわたしは思っています。
 自分の「学ぶ力」をどう伸ばすか、その答えはもうお示ししました。みなさんの健闘を祈ります。


谷口るりこ展(8/10鑑賞、まだやってます8/13まで@番画廊)

2011-08-12 12:14:26 | 文化
この絵のスタイルは、谷口るりこ画伯の、生き様そのものである
少し画伯とお話してから鑑賞してそれを理解できた
(全くの誤解かもしれないけど)
こうやって、全身全霊をかけ芸術に生きる人がいる
よもや、内田先生のサイン本からこんな展開になるとは思いもよらなかった
またしても、縁が縁呼ぶ展開!
何かの導きを強く感じる
私は、音楽の世界に戻らなければならない

2日後の今日
とは言え、仕事に戻る準備も大事
清荒神の大きな図書館へ向かう
ところが…

あとでパソコンでツイッター張り付けるね
まだ外でケータイだから

結論:仕事の準備はテンオン以降に回して、今は音楽に集中するよ

---
以下、ツイッターより

OotaCantaKaz 太田 和廣
清荒神の図書館、第二金曜で休館、がっくし
前回は水曜で休館
最近の私の縁が縁呼ぶ展開を思えばこれは異常
神は私に行くなと言ってる
いや、単に目的の仕事本、日経エレとか、俺の無意識が拒んでるんやろなあ(笑)
2時間前 お気に入り 返信 削除

映画評「幸せの太鼓を響かせて~INCLUSION~」

2011-07-31 22:34:46 | 文化
OotaCantaKaz 太田 和廣
「幸せの太鼓を響かせて~INCLUSION~」
素晴らしかった
単館物だけど結構席埋まってた
エンドロールで誰一人立たない映画に久しぶりに会った
最後に拍手さえ起きた
8/5まで

(ツイッターより)

---

知的障害者のプロ和太鼓チームの活躍を描いたドキュメンタリー作品。
そんなには期待してなかったけど、メジャー系に興味がある作品がなく、この作品か、原発ドキュメンタリーかの選択の中で、最近、縁や出会いの連鎖や不思議な引力のようなものを感じてて(また紹介します)、その関係でこっちの映画を選びました。
大成果。
中心線は単純に楽しい。
この映画のために、世界的和太鼓奏者が書き下ろした曲を練習して自分たちのものにして、最後、ホールで演奏して、ブラボーの嵐。
その楽しい機軸の背後に、様々な問題を表す。
子供のころのこと。
施設に入ってからのこと。
結婚。
子育て。
子供に生じる問題。
施設の変化。
地域の変化。
プロとしての心構え。
笑い。
凹み。
そして満場の拍手。

ほんとに、ほんとに、ブラボー。
そして、ありがとう。
今度こそ、私は、音楽への取り組みを真剣に再開する。

内田樹サイン本ありがとう!&『山本浩二の芸術』

2011-07-28 21:40:24 | 文化
» OotaCantaKaz 太田 和廣
スミちゃんから内田樹サイン本が届く
ありがとう!
それより驚きはサインをもらってくれた人、山本浩二氏、内田先生の友人、スミちゃんの絵の師匠、凄い画家です、凄い絵です、スミちゃん何者?師匠共々絵を見たいなあ
5時間前 お気に入り 返信 削除

» OotaCantaKaz 太田 和廣
内田先生、山本先生、スミちゃん、多くの人の世話になって頂けたんだなあと思うと、よけい嬉しい
タイトル「邪悪なものの鎮め方」も私にピッタリ(笑)
4時間前 お気に入り 返信 削除

(ツイッターより)

---

ネット上で小さい大きさしか見れてないけど、山本浩二先生の絵が、私にはとてつもなくヒットなのだ。
ミラノと日本を往復して活躍されてるすごい人だそうだ。
ネットで内田樹先生の書いた、山本浩二先生に関する文章を見つけた。
内田先生は、常々、文章を自由に使ってよいと仰っている。
それどころか、内田先生の言葉を、そのまま、自分の意見として使っていいとまで仰っている。
世界中の人が、内田先生と同じ意見を持つに至れば幸せと考えているからである。
そういうわけで、その文章を、しかし、内田先生のご意見として、書かせていただきます。
私自身は山本先生の絵から、生の躍動を感じ、内田先生の感想と異なるのですが、他ならぬ山本先生自身が内田先生に「その通りです」と答えてるので、この文章の通りなのでしょう。
まあ、私は絵そのものを見てませんので。
見たいなあ。
(死を描くのは、生を描くのと同じことかもしれないですね。)

(注:後日追記)私、内田さんの文章を読み間違えて、大きな勘違いをした文章を上に書いている。
  だが、コメントとの対応を考えて恥を忍んでそのままにしている。
  上の文章は無視して内田さんの文章を読まれたし。

---

『山本浩二の芸術』

画家はどういう理由で、その技法を「具象」と「抽象」に分岐するのか。長い間、それが私にはわからなかった。
漠然と、目の前にある対象を「写生」的に再現することに喜びを見いだす画家と、目の前にある対象を超えたもの、その向こうにあるものを描き取ることに喜びを見いだす画家のあいだには気質の違いのようなものがあるのだろうと考えていた。

私は作家ではないし、美術批評家でもない。だから、私の仮説があたっていようと、はずれていようと、誰からも抗議されるおそれはない。けれども、問題はそれほど簡単ではないということをそのうちに学んだ。

山本浩二の古くからの友人であるひとりの静物画家の展覧会でのことだ。
その画家の静物画からは「死臭」がした。
私は山本君とその画家を前にして、その印象のとおりのことを述べた。
あなたの画からは死臭がします。それがあなたの画に恐ろしいほどの厚みをもたらしている、と。

画家は目をきらめかせて、その通りですと答えた。

彼は葡萄の画を描いていた。最初にテーブルに置かれた葡萄は画家がキャンバスにそれを写しているうちに腐敗して、崩れてゆく。腐った葡萄の粒を画家は取り除き、色とかたちの似た粒を接着剤ではりつける。そのようにして一枚の画を描き終わったときに、最初にテーブルの上にあった葡萄はすべて腐って棄てられた。そして、画布の上にだけみずみずしいその葡萄の「デスマスク」が残されたのである。

では、あなたは静物=死んだ自然を描くことを通じて、それらすべてを含むもの、すなわち「時間」を描いていたのですね、と私は言った。

彼はふたたびその通りだと言った。

造形的にはみずみずしい果実が死臭を発していることで視覚が決して描くことのできないもの、すなわち時間を空間的に表象しているのだ、と。

奇妙な話だが、私はその静物画家の言葉をきいた時に、山本浩二がその抽象的な造形を通じて、何を描き出しているのかを不意に理解した。

彼らは二人とも同じものを相手にしていたのである。

それは空間的表象形式では表象できないもの、すなわち時間である。考えてみれば当然のことだったのだ。芸術家に真の栄光があるとすれば、それはその芸術形式では絶対に表現できないはずのものを表現することに違いないからである。

彼が選んだ表現形式の「限界」を突破すること。真の芸術家ならそのような不可能な夢に取り憑かれているに違いない。

あの才能豊かな静物画家は「死」を、それも「いきいきとした死」を描くことに成功した。「いきいきとした死」というのはまさに「生きているものが死につつあるその状態」のことである。だとすれば、と私は自分に問いかけた。山本浩二はいったい何を、どう描くことで、芸術家たちをそこに釘付けにしている空間的表象形式の限界を突破する気でいるのだろうか。

私には今ならその答えがわかるような気がする。
あの画家が「死」を描こうとしたのとは逆に、彼は「生成」を描こうとしているのである。
何かが生まれる瞬間の、というより直前の、ざわめきや、震えや、ときめきを描こうとしているのである。
彼は「運動」を描こうとしているのである。
静止することを拒否するもの、とどまることに耐えられないものの緊張そのものを描こうとしているのである。
分裂し、増殖し、浮遊し、膨張するものを描こうとしているのである。
一言で言うなら、彼は「生命」を描こうとしているのである。

今まさに生成せんとしているものには、それに固有の図像的な特徴がある。山本浩二が数十年にわたる修行の日々を通じて把握しようとしていたのは、おそらくその「決して空間的に表象されえないものが、空間のうちに予兆として、あるいは痕跡として残す造形的特徴」だったのだと私は思う。それをつかみとるために彼は模写をし、作品の構造分析を行い、終わりない実験を自分に課してきた。

私はその歳月の成果がこの展覧会の作品のうちにはっきりと示されていることを確信している。

彼の画を見たあと、人びとの多くは私のこの言葉に深く同意してくれるはずである。

内田樹


映画評「阪急電車」+追記

2011-06-01 18:38:16 | 文化
「阪急電車」ブラボー!半年ぶりの映画が君でよかった!

(ツイッターより)

全然期待してなかったんだ
脳への刺激が少ないだろうと思って選んだ
ところがドッコイ、脳はジーン、そして胸、ジーンジーンジーン、多分ボイトレ30回相当の衝撃波を敵に与えたと思う
脚本が思い切ったいい仕事をしていた
しかし単純な話、最大の成果は、テーマの着想の良さを映像の力を借りて、地味ながら最大限表現した、てことだと思う
「この世も、そう捨てたものじゃない」
なんて、超ローカル線の今津線で言い放つ主人公たち
ブラボー!

追記。

映画や小説って、普通に考えたら有り得ないけど、もしかしたら有るかも、て、ギリギリの線を突いてくる。
電車に乗ってる人同士がこんな絡みするか?て思うかもしれないけど、ここならあるかもしれない、それが阪急今津線なんだ。
小説はそれが十分伝わるように書いてある。
映画では特に説明はなかったけど、ゆかりのない人でも、雰囲気で伝わると思う。
みんながこの映画を観て、嘘の世界ではなく、阪急今津線には本当にこんな世界が広がってるんだと知ってもらって、
「この世も、そう捨てたものじゃない」
なんて、主人公たちのセリフを心から発することが出来れば、この世はずいぶん風通しがよくなるのでないかと思う。


ライブ鑑賞報告、iyco(アイコ)

2011-05-14 20:05:58 | 文化
本日、ミヤゲヤに誘われ、尼崎にてインストアライブ鑑賞してきた。
昼間とはいえ、そういうこと出来るようになって、うれしい。

すごい、すごい、素晴らしかった!
iyco(アイコ)さんと、パーカッション・樋下さんと、ピアノと、コーラス2名で繰り広げられる、東アフリカ音楽!
歌もすごいが演奏もすごい。
特に樋下さんのパーカッションは何個音色あるねん!な、音色の数々を正確かつグルービーに奏で、iycoワールドを見事に構築していた。
踊りたくて堪らなかった。

ライブ後、お二人とお話できた。
タンザニアへ想いを交換することが出来て、そこでもまた、感激した。

今日は、本当にいい日だった。
アフリカテーマにもう一曲出来そうな勢いだ。
いや、出来ねばなるまい。







書評「5つのチベット体操・若さの泉・決定版」ピーター・ケルダー

2011-05-08 10:16:37 | 文化
タイトルからわかるとおり、若返り体操の本である。
読者からの手紙欄には、「私、20歳も若く見られましたの!」などの手紙がこれでもかと並ぶが、アメリカ版の初版は何と1939年とのことだから、なんか時代の雰囲気でてる、てことで、それもご愛嬌。
もちろん、私は若返りなどに興味はなくて、ここに紹介するのは二つの理由からだ。

まず、体操として素晴らしい。
首、腕、背中、腰、腹、尻、足、いろいろなところに負担をかけれる素晴らしい体操だ。
息を続けながらというのもよい。

次に、物語にまつわる「謎」が面白い。
筆者は、退役軍人ブラッドフォード大佐と知り合う。
二人とも60代。
やがて大佐はチベットにあるという「若さの泉」を探しに旅に出る。
数年後、戻ってきた大佐は、どう見ても30代にしか見えなかった!
そして、大佐は語った。チベットの奥地でラマ層たちの間に伝えられていた、5つの儀式について!さらに、「若さの泉」の秘密を!
あー面白い!
と、まあ、そこも面白いんやけど、そこやないんだ、私が感心してるのは。
ピーター・ケルダー氏(筆者)はなぜこんな面倒なことをしたんだ?
チベットの体操を単純に紹介するのでなく、なぜ物語仕立てなんだ?

本文中、ブラッドフォード大佐の解説では、チベットの奥、何年もかけて探し当てれる奥地の僧院に弟子入りして、儀式を学んだとのことだ。
フィクションだろう。
ブラッドフォード大佐、て名前がまずちょっと。。。かっこよすぎる。。。
実際、筆者ピーター・ケルダー氏は、ブラッドフォード大佐について無言を貫いているとのことだ。
となると、次に気になるのは、どこからがほんとの話?
本当にチベットにこの体操はあったのか?
その後、中国によって、チベットは侵略され破壊され今も破壊は続き、もはや迷宮入りだ、てのがまた、物語外の悲しい現実である。

最大の謎、ピーター・ケルダー氏!
1939年に初版を発行した彼は、現在も元気に活動中とのこと!
彼こそが「若さの泉」?
彼は本当に存在するのか?

さて、儀式は5つだけでなくて、もっとある。
第6(=若さの泉の真の正体)、
第7(=「マントラ」)
番号はついてないが重要な儀式(=「マントラム」)

「第6若さの泉」はどうでもいいとして(ちなみに第1も若返り専用で、筋肉トレーニングになってないので、私はやってない。)、「第7マントラ」と「番号なし・マントラム」は私も相当力を注いでいる。
ちなみに、
「俺は超人的知力と超人的体力と超人的健康を手に入れる。オーームーーーーーー」
とつぐやくというものだ。(文面は自分で決める。)

なんだが健康によさそうだろう?
わかったら、みんな、書店へゴー!


オイトコラサォン・セッション/今日の太田/最近のハチ

2011-04-27 17:06:45 | 文化
今日のツイッター(オイトコラサォン・セッション):

interplay8 いんたーぷれい8
今夜はオイト・コラサォン・セッションです!毎月最終水曜のオイト・コラサォン・ライブは、リーダー太田くん入院中は相方上野さんがホストをつとめ、オイト・コラサォン・セッションとしています。太田くんが帰るまで、盛り上げていきたいと思いますので、皆様ぜひ参加下さい!
8時間前 お気に入り リツイート 返信

OotaCantaKaz 太田 和廣
@interplay8 みなさんますます元気そうで楽しそうで、私もだいぶ元気なので覗きたいなあと思うのですが、まだまだ夜に出歩くのは難しいです。いつも9時に寝てるオコチャマです。たまに11時とかになってしまうと次の日グダグダです。皆さんの勇姿を思い描きながら今日も自宅で歌います!
1分前 お気に入り 返信 削除

---

今日の太田:

午前:病院へ。MRI。行くまで忘れてたけど結果が出るのは連休明けだ。えらい先!
2時ごろ戻ってきて、あまりにもしんどいので2時間寝る。昨日夜更かししてしまったからなあ。4時起床。まあまあすっきり。
今に至る。
今日はホンマになんもやってねえ。

---

最近のハチ:

土曜セッションはもちろんのこと、平日も半分以上ライブやセッションがつまってそう。
しかも、どれもすごい面白そう!
まずはツイッターを覗いてみて。
週の頭と、ライブ当日に、上記のように心のこもった案内が出てるよ。


書評、済陽高穂(わたようたかほ)「副作用が楽になる、抗ガン剤がよく効く食事」

2011-02-08 20:20:02 | 文化
脳腫瘍のダメージで漢字の読み書き力が落ちてるが、リハビリ効果で急速に回復中、やっと読み終わった、長かったー!

で、この本
正直、うーん、根拠薄い…
個別の事例は多くあるけど、何人中何人が、て話になると途端に分母が小さくなる
また、効果の仕組みも何か曖昧に感じる

しかし、責める気はしない
患者のために、試行錯誤しながら、明らかに効いてると思われる方向へ突っ走ったのが伝わって来るんだ

それに、私個人的な経験も、この、わたよう式食事療法を、○と訴えている



11月、初のてんかん発作直後に撮ったシーティーには、ウニのようなトゲトゲを備えた腫瘍が映ってた
ところが1ヵ月後、手術前に撮ったシーティーでは、ツルツルピンのまん丸腫瘍
おかげで脳にダメージを与えないで綺麗に取り除くことが出来た
どういうことだ?
以前と異なる点
・カポエイラをしてない
・まあちゃんが優しい(^^;
いや、これらがそう影響するとは思えぬ
ならばこれしかない
食事療法だ



もう一つ
抗ガン剤で体調最悪になって、いろんな物が食べれなくなっても、食べれるもの、それがこの食事療法で勧められてる物とよく合う
ということは、この食事療法で勧められてる物こそは、体に負担をかけない優しいものではないか

というわけで、概ね、この食事療法に従う、というスタンスを続行する
概ね、と言うのは、だって、わたよう先生、野菜ジュースを1日1.5リットル飲め、て言うねん、それは無理だ、ゆるく行かせてもらう

あと、ルールを厳密に守ることを要求されている点と、わたよう先生は消化器系が専門で果たして肺に効果有るのかどうか不安ではある(事例としては上がってて効果ありだったが)が、大丈夫、脳に効いたんだから、安心して突き進もう

ところで、玄米もヨーグルトも、野菜ジュースだって絞り立てのはメッチャ美味いぜ、予防にもなるってことだ、君もやってみないか?

CD評、live wire live(瀬川晶子)「Door」

2010-12-20 11:51:01 | 文化
まだ発売前のパッケージもないお試し版CDを聴きながら、何度も目頭が熱く、どころか、告白すれば何度かヤラレテしまってる

歌うまいなあ
いい歌書くなあ

いつも覚えてるはずやのに、ライブとかCDとかで聴くたびに、ああ、こんなにもそうやったなあ、覚えてるつもりで、覚えてなかったんやなあ、と思う
いつも、いつも

CDは年末の神戸ライブでまず発売、東京は年明けライブで発売、ウェブでも時期はわからないが発売するだろう
ブックマークの妹のブログでチェックしてくれ
バリバリのジャズプレーヤーなら気に入らないこともあるかもしれないが、自分は音楽やらないけど人一倍音楽聴くのが好きというタイプの人なら、必ず気に入って、それどころか惚れるだろうことを百パーセント請け負うよ、男も女も

CDの内容をざっと紹介しよう
楽しい曲からバラードまで、オリジナル8曲+スタンダード1曲、楽しい構成です
脇を固めるプロ集団も絶大なる信頼をおいでるメンバー、ご機嫌です
言っていいのかわからないので言いませんが、ラストのスタンダードは超豪華メンバー、スゴいことになってます

ちょっと誉めすぎやないかって?
キョウダイの欲目が入ってないかって?
いや、ない、真面目な話、ない
俺だってミュージシャンの端くれ、自分でわかるよ、信じてくれ

CD評、iyco[アイコ]UTA…アフリカンと和の融合、大自然とリンクする強力な歌声

2010-12-19 18:38:46 | 文化
モジャ、ムビリ、タトゥ、ンネ
…(途中不明)
ジナラング、アイコ
ジャンボ
ジナラング、アイコ
ジャンボ


日本語訳:
1、2、3、4
…(途中不明)
私の名前はアイコです
こんにちは
私の名前はアイコです
こんにちは



スワヒリ語やないか!
アフリカリスペクトらしいとは聞いていたが、西の方が圧倒的に音楽さかんだから、私がいった東の言葉が出るとは思わなかった!
今日もボチボチの体調だったが、瞬間ボルテージ急上昇、こんな気分久しぶり、やっぱいい音楽聴かなあかんなあ!
2曲目以降は日本語、さすが作詞家を別途起用しているだけあってクオリティ高い
曲は全部アイコさん自身、これがまた素晴らしい
アレンジもいろいろあって楽しい、例えばカリンバ(親指ピアノ)が使われてたりする
でもやっぱり特筆すべきはボーカルだ
素晴らしい

伊丹オールウェイズに出入りするようになりだしたころ、ミヤゲヤとその店のセッションに行ってアイコさんの歌を聞いた
まだ習ってるとこと言って出たがらないのを無理やり出されて歌ってはったが、それがスゴいのなんの!ミヤゲヤと2人衝撃を受けた
もう何年も前の話だ

時は流れて…土産はいらんと言ってたのに、ミヤゲヤが土産を持って昨夜来た
(2度目だ、いい男だ、2度とも仕事に戻って行った、いい男だ)
ミヤゲヤは土産を絶対気に入るはずだと言った
さすが、よくわかってくれてる
今回知ったんだけど、アイコさんは、敬愛するスーパードラマー樋下さん一派の仲間らしいね、どうりで素晴らしいわけだ
みんなもぜひ経験してみてくれ

ここまで書いて思い出したけど、妹のCDを聴いてなかった
カフェのパソコンでCDが聴けることに今日気づいたんだけど、まず聞くべきは妹のやった、すまぬ、昨夜ミヤゲヤから土産としてもらったばかりだったんでついウッカリm(_ _)m

書評、吉田修一「悪人」、重要な追記

2010-10-25 20:13:27 | 文化
流石は稀代のストーリーテラー吉田氏、エンディングで主人公初め各々がそれぞれの道を見つける展開は圧巻
上下二巻という大作、なるほど、一人の人間の死(殺人)にまつわる関係者の心をここまで深く描くにはこれだけの分量がいるわけだ
この本は、虐待や出会い系やといった時事問題を含みながら、基本「恋の力」話である
というわけで正直私にはちょっとキツい
恋のパワーをまだ信じることが出来るあなたにとっては、忘れられぬ一冊となるだろう
それとも、と、ふと思う
人は、「恋」を通じて「愛」を知る
親から愛を受けなかった人間にとっては、恋はこれほどまでに狂おしく愛しいものなのだろうか

---

読んだ直後、整理出来ぬまま恥ずかしい書評を書いた
これ、ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」ばりの大傑作である
最後の一行、吉田氏は登場人物のセリフを通してある問いかけをする
私は、素直に(というのも変だけど)、反対の意味にとった
だがそんな単純な話じゃないことに気づいた
恋は落ちるもの、愛は意志、なんてクールに構えてるあなたにこそ、忘れられぬ宝玉の一冊となるだろう

書評、吉田修一「悪人」

2010-10-25 08:19:14 | 文化
流石は稀代のストーリーテラー吉田氏、エンディングで主人公初め各々がそれぞれの道を見つける展開は圧巻
上下二巻という大作、なるほど、一人の人間の死(殺人)にまつわる関係者の心をここまで深く描くにはこれだけの分量がいるわけだ
この本は、虐待や出会い系やといった時事問題を含みながら、基本「恋の力」話である
というわけで正直私にはちょっとキツい
恋のパワーをまだ信じることが出来るあなたにとっては、忘れられぬ一冊となるだろう
それとも、と、ふと思う
人は、「恋」を通じて「愛」を知る
親から愛を受けなかった人間にとっては、恋はこれほどまでに狂おしく愛しいものなのだろうか

映画評「アイスバーグ」「ルンバ」

2010-10-16 15:45:42 | 文化
神戸アートビレッジセンター「アイスバーグ」「ルンバ」二本立て
すごい
テーマ、切り口、ギャグ、画、素晴らしい
ロングショットロングテイク、久々映画らしい映画みた
テーマの取り方がなあ、こういうの観るとやっぱフランスて文化先進国やなあと思う
ブラボー

(ツイッターより)

---

大満足
さあ帰ろう、なう