<わら家のうどん(2) 高松・屋島>
覗きこむと、ほの暗い店内では、担当の女性たちがルーティンの開店準備の作業をてきぱきとこなしている。
昭和50年(1975年)創業の「わら家」だが、正式名称は「ざいごうどん本家 わら家」という。ざいごうどんとは“在郷”が訛ったことばで、いなかうどんといった意味だそうだ。
総客席数は二百席あるというからさぬきうどんでは大型店舗で、どちらかというと“よそいき”の店、観光客や、地元民が遠来の客をもてなすうどん屋だ。有段者好みの製麺所値段よりは五割増しといったところだが、入門者には決して高くはないと思う。
「たいへん、お待たせしました。どうぞ、お入りください」
入口がガラガラと開き、わたしに声が掛かった。入ったところで検温と手指の消毒をし、正面の会計で食券を購入すると、席に案内される。
店内に並ぶ年季が入った重厚な木のテーブルと椅子、それにドーンと設置された大きな釜にはかすかな見覚えがある。
釜脇のところからセルフサービスで、出汁を入れる器(蕎麦猪口)である黒い湯呑と、お茶を入れる用の白い湯呑茶碗の二つを自席に持ってくるシステムだ。
安置されているでかい羽釜だが、百食分のうどんを一度に茹でることができ、飯なら四十升の米が炊ける。釜の上にはなぜか、ありがたい陰陽石が祀ってあり、奉納された賽銭は歳末助け合いに寄付されるそうだ。
徐々に客が入りだしてきていた。
(あれっ、生の生姜が置いてないな・・・)
記憶によると、生姜は卓の上に生のままいくつかゴロンと投げ出されるように置かれていて、それを客が自分の分をおろし金で摩り下ろすシステムだった。おろした生姜を薬味入れに用意してあるところをみると感染症対策かもしれない。
秘伝のだしは、香川の伊吹島の炒り子と利尻産昆布そして鰹節をベースにして門外不出の製法で作られ、一升徳利に入れ、湯煎して出される。
徳利は極めて熱いので、オレンジの紐部分を持ち傾けて注ぐ。そのだしに、薬味のみずみずしい高知県産のやっこねぎと、土佐の新鮮なおろした生姜をたっぷり入れる。
うどんが運ばれてくる。もちろん作り置きせずの「できたて茹でたて」のうどんである。
(よっ、久しぶりだな!)
長い年月を置いて再会したうどんは、あいかわらずピチピチに若くて美人である。
釜あげうどんは、茹でたうどんを釜湯とともに器に移したうどんをいい。冷水で締めてないため、麺の表面は柔らかい。冷水で締めなくても腰(粘り、弾力、歯ごたえ)を出すために、生地の熟成と保管温度に細心の注意がいり、茹で時間もこまやかな調整が必要だ。
だしに浸けて、さぬき独特の、絶妙な太さの活きのいいうどんを啜り込む。
思わず唸ってしまう。つややかで別嬪なうどんは、ポールダンスも楽々こなせそうなしなやかな腰もあり、喉越し最高で、たまらない。
麺によく絡む薬味たちだが、ねぎが脇役でたっぷりの生姜が助演男優賞、主役のうどんに風味と切れ味のある爽やかな辛味をそえて魅力たっぷり、飽きさせない。
蕎麦は、麺とつゆだけの笊蕎麦でも栄養的には満点だが、うどんは天ぷらなどを付けないといけないという。
でも、ここのさぬきうどんを食べたら、だからなんだ旨ければいいじゃないか、素うどんになんか文句でもあるか、という気になってしまう。
あれは、ふた昔を超えるくらい前のことである。
「水沢うどん」と「稲庭うどん」くらいの乏しい経験しかなかった、当時どちらかというと蕎麦派のわたしを、この店のとんでもなく安くて旨いうどんが、うどんに関して持っていたあらゆる偏見をきれいさっぱりぶっとばし、たった一度の食でわたしはとりこまれ、いわゆる虜にされてしまったのだ。
ところで、あの日のうどんはたらいに入って供されたと記憶している。
山形でぎゃふんと言わされる(大盛り蕎麦で半分残しというみっともないザマ)までは、麺類といえば“大盛り”を頼んでいたのだ。現在のメニューだと“特大”からがたらいなのだが、あのころは“大盛り”もたらいだったのではあるまいか。
それとも、ここに案内してくれたタクシーの運転手さんも待ち時間を食事時間にしたのか、隅の席にすわり店員と懇談していたので、もしかしたら彼が気をきかせてくれたのかもしれない。
お代りしたいところだが、やめておいて出発としよう。さあ、これから大仕事が待っている。坂道を下り、琴電屋島駅に急いだ。
→「わら家のうどん(1)」の記事はこちら
→「長崎空港で地獄炊き」の記事はこちら
→「みやけうどん」の記事はこちら
覗きこむと、ほの暗い店内では、担当の女性たちがルーティンの開店準備の作業をてきぱきとこなしている。
昭和50年(1975年)創業の「わら家」だが、正式名称は「ざいごうどん本家 わら家」という。ざいごうどんとは“在郷”が訛ったことばで、いなかうどんといった意味だそうだ。
総客席数は二百席あるというからさぬきうどんでは大型店舗で、どちらかというと“よそいき”の店、観光客や、地元民が遠来の客をもてなすうどん屋だ。有段者好みの製麺所値段よりは五割増しといったところだが、入門者には決して高くはないと思う。
「たいへん、お待たせしました。どうぞ、お入りください」
入口がガラガラと開き、わたしに声が掛かった。入ったところで検温と手指の消毒をし、正面の会計で食券を購入すると、席に案内される。
店内に並ぶ年季が入った重厚な木のテーブルと椅子、それにドーンと設置された大きな釜にはかすかな見覚えがある。
釜脇のところからセルフサービスで、出汁を入れる器(蕎麦猪口)である黒い湯呑と、お茶を入れる用の白い湯呑茶碗の二つを自席に持ってくるシステムだ。
安置されているでかい羽釜だが、百食分のうどんを一度に茹でることができ、飯なら四十升の米が炊ける。釜の上にはなぜか、ありがたい陰陽石が祀ってあり、奉納された賽銭は歳末助け合いに寄付されるそうだ。
徐々に客が入りだしてきていた。
(あれっ、生の生姜が置いてないな・・・)
記憶によると、生姜は卓の上に生のままいくつかゴロンと投げ出されるように置かれていて、それを客が自分の分をおろし金で摩り下ろすシステムだった。おろした生姜を薬味入れに用意してあるところをみると感染症対策かもしれない。
秘伝のだしは、香川の伊吹島の炒り子と利尻産昆布そして鰹節をベースにして門外不出の製法で作られ、一升徳利に入れ、湯煎して出される。
徳利は極めて熱いので、オレンジの紐部分を持ち傾けて注ぐ。そのだしに、薬味のみずみずしい高知県産のやっこねぎと、土佐の新鮮なおろした生姜をたっぷり入れる。
うどんが運ばれてくる。もちろん作り置きせずの「できたて茹でたて」のうどんである。
(よっ、久しぶりだな!)
長い年月を置いて再会したうどんは、あいかわらずピチピチに若くて美人である。
釜あげうどんは、茹でたうどんを釜湯とともに器に移したうどんをいい。冷水で締めてないため、麺の表面は柔らかい。冷水で締めなくても腰(粘り、弾力、歯ごたえ)を出すために、生地の熟成と保管温度に細心の注意がいり、茹で時間もこまやかな調整が必要だ。
だしに浸けて、さぬき独特の、絶妙な太さの活きのいいうどんを啜り込む。
思わず唸ってしまう。つややかで別嬪なうどんは、ポールダンスも楽々こなせそうなしなやかな腰もあり、喉越し最高で、たまらない。
麺によく絡む薬味たちだが、ねぎが脇役でたっぷりの生姜が助演男優賞、主役のうどんに風味と切れ味のある爽やかな辛味をそえて魅力たっぷり、飽きさせない。
蕎麦は、麺とつゆだけの笊蕎麦でも栄養的には満点だが、うどんは天ぷらなどを付けないといけないという。
でも、ここのさぬきうどんを食べたら、だからなんだ旨ければいいじゃないか、素うどんになんか文句でもあるか、という気になってしまう。
あれは、ふた昔を超えるくらい前のことである。
「水沢うどん」と「稲庭うどん」くらいの乏しい経験しかなかった、当時どちらかというと蕎麦派のわたしを、この店のとんでもなく安くて旨いうどんが、うどんに関して持っていたあらゆる偏見をきれいさっぱりぶっとばし、たった一度の食でわたしはとりこまれ、いわゆる虜にされてしまったのだ。
ところで、あの日のうどんはたらいに入って供されたと記憶している。
山形でぎゃふんと言わされる(大盛り蕎麦で半分残しというみっともないザマ)までは、麺類といえば“大盛り”を頼んでいたのだ。現在のメニューだと“特大”からがたらいなのだが、あのころは“大盛り”もたらいだったのではあるまいか。
それとも、ここに案内してくれたタクシーの運転手さんも待ち時間を食事時間にしたのか、隅の席にすわり店員と懇談していたので、もしかしたら彼が気をきかせてくれたのかもしれない。
お代りしたいところだが、やめておいて出発としよう。さあ、これから大仕事が待っている。坂道を下り、琴電屋島駅に急いだ。
→「わら家のうどん(1)」の記事はこちら
→「長崎空港で地獄炊き」の記事はこちら
→「みやけうどん」の記事はこちら
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます