温泉クンの旅日記

温泉巡り好き、旅好き、堂社物詣好き、物見遊山好き、老舗酒場好き、食べ歩き好き、読書好き・・・ROMでけっこうご覧あれ!

高遠城址公園 長野・伊那

2009-04-29 | ぶらり・フォト・エッセイ
  <高遠城址公園>

 伊那インターを出て南アルプスの裾野にある高遠城址に向かう。

 高遠城址にいくのは初めてである。つい二、三年前までわたしの旅の主たる目的
が温泉だったので、高遠城址のすぐそばにある温泉には行ったことはあるが寄りも
しなかったのだった。

 ただ最近の旅は写真を撮ることも楽しみのひとつになっているので、観光も目的
の主要な部分に変わってきたのである。



(桜はまだ咲いているだろうか・・・)

 中央高速で諏訪から伊那までの間では、満開は過ぎたようだがあちこちでまだ
桜が残っていた。
 道沿いには、「ローメン」とか「ソースかつ丼」の看板がちらほら見える。



 高遠城址に近づくと、桜祭のため交通整理をしている係員が道端に出ていて、
素直に誘導に従って川沿いの無料駐車場に車を止めた。
 城址公園には、この地にしか咲かない千五百本の高遠桜(タカトオコヒガンサク
ラ)が咲き乱れることで、長野県の桜の一大スポットとして有名である。
 あいにくの雨模様で、車から念のために傘をだして持っていくことにした。



 別名「兜山城」ともいわれる高遠城の歴史をざっと振り返ってみる。
 高遠城は諏訪氏の居城としていたが、諏訪の領有を巡り武田と対立し、天文14年
(1545年)4月に武田勢は高遠城と藤沢頼親の福与城攻めを行い、伊那地方への
進出拠点とした。



 弘治元年(1555年) 武田は続いて小笠原氏や知久氏を撃破し、木曾氏を制圧し
て信濃を平定する。高遠城は天文16年(1547年)に、軍師である山本勘助や秋山
信友に命じ大規模な改築が行われ、弘治2年(1556年)には秋山信友が城主とな
る。

 永禄5年(1562年) 、晴信の庶子で諏訪氏の娘を母とする四郎勝頼(後の武田
勝頼)が諏訪氏を継承し同時に高遠城主に、城主であった秋山は飯田城代となる。
勝頼は元亀元年(1570年) に武田家の後継的立場となり、信玄により甲府の躑躅
ヶ崎館に呼び戻され、城主は信玄実弟の武田信廉となった。



 やがて武田は領国を接する織田、徳川と対立、高遠城は対織田と徳川勢力の重要
な軍事拠点となる。武田氏は長篠の戦いの敗退を機に領国の動揺を招き、勝頼は
天正9年(1581年)に領国維持のため韮崎への府中移転、同時に異母弟の仁科盛信
を高遠城主とした。

 翌天正10年(1582年)、2月に織田信長は本格的な武田征伐を開始、長男の織田
信忠に五万の大軍で高遠城に攻めさせた。
 高遠城に籠もる城兵の数はたった三千で、仁科は降伏勧告を受けずに防戦する
が、城は落城した。



(あの長編「真田太平記」の冒頭のシーンはこのあたりからスタートしたのだっ
た・・・)

 この時籠城していた信玄の娘の松姫(盛信の妹)と、織田の総大将織田信忠は
元婚約者同士であり、落城にまつわる悲劇として知られている。
 高遠城の落城により、織田勢は伊那方面からも甲斐へ侵攻し、武田氏はついに
滅亡した。



(うーん、残念!)
 結局、満開の高遠桜には、数日遅かったようだ。
 胸がときめくような盛大な花見が、ただの<下見>になってしまったが、これは
これでしょうがないことである。

 まあいい。来年の楽しみにとっておこう。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« もときの天麩羅蕎麦 長野・松本 | トップ | わたしの新潟土産の定番 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ぶらり・フォト・エッセイ」カテゴリの最新記事