<クロサワと達磨寺>
ひょんなことから、黒澤明の脚本「達磨寺のドイツ人」を読む機会があって、矢も盾もたまらず車を駆って舞台となった高崎の小林山達磨寺に馳せ参じてしまった。
『延宝年間のはじめ、碓氷川の氾濫し、その水が引けた夜に村人が良い香りのする古木を
発見し、この地にあった観音堂に奉納した。一了という老行者が、夢で達磨大師からの
お告げを受けてここを訪ね、その霊木で達磨の座禅像を彫りあげる。
それ以後「達磨出現の霊地、小林山」として近隣に広まった』

ここ小林山達磨寺、開創の縁起である。
昭和九年(1934年)の夏の盛りに、一人のドイツ人が達磨寺に現れる。いや、正確には連れの女性がいるから二人だ。
そしてこの胸突き八丁の石段を、きっとふうふういいながら登ったのだろう。

そこからさらに、もうひとつの短い石段を登ったところにあるのが本堂である。

ドイツ人だが、作品が国際的評価を受けた建築家で名前はブルーノ・タウト(54)という。
ナチス政権が台頭して、職と地位を奪われ、身の危険を感じ、日本インターナショナル建築会の招待を機に、妻子をドイツに残したままエリカ・ヴィティヒと共に日本に亡命した。
五月に敦賀に到着し、京都へ。案内された桂離宮の素晴らしさを後に世界に広めた。
京都から仙台、そして縁あって高崎に招かれる。
達磨寺の境内、庫裏からすこし離れたところにある「洗心亭」に滞在する。

山門からの長い石段を登り切った左側に庫裏がある。

そこの前を通り、洗心亭に行く途中に見晴らしのいいところがあって、高崎市街が展望できる。きっとふたりもここで足を止めたにちがいない。

六畳と四畳半、台所と湯殿、大柄な外国人が住むにはさぞ不便で狭かったことだろう。布団と畳の生活にもさぞや苦労したのではあるまいか。

ブルーノとエリカは、毎日の散策のときに近隣の農家の造りや生活ぶりを見て回った。
高崎では、家具の設計や、竹や和紙などの日本の素材を使った作品や漆器などモダンな作品を作った。
充分な生活費もなくドイツから持ってきたお金を取り崩す生活をしているのに、碓氷(うすい)川の洪水で罹災した地区に友人を介して見舞金を贈り、その残金は貧困家庭に分けた。
日本では、本業の建築の仕事にあまり恵まれず力を発揮できなかったが、関西から東日本を精力的に廻り、日本建築と日本文化についてのいくつかの著作を残した。
洗心亭での百日の滞在予定が、いつしか二年三カ月もの長期滞在になってしまった。
そんな折り、トルコから建築科教授、兼政府最高建築技術顧問として招聘があり、日本に未練を残しつつその要請受ける。
昭和十一年(1936年)十月、赤坂で行われた送別会の挨拶の最後には「出来うるならば私の骨は小林山に埋めさせていただきたい」と締めくくった。
さすがに「私は日本の文化を愛す」と小林山にその言葉を残しただけのことはある。
しかし、翌年の十二月、トルコで脳溢血のため死去。
エリカはタウトの遺志を果たすため翌年九月にデスマスクを小林山に納めた。
黒澤明が、このブルーノ・タウトをモデルに脚本を書きあげたのは三十歳の1941年というから、まだ助監督のころだ。タウトが達磨寺に居るころからその存在に注目していたのかもしれない。
ブルーノ・タウトは五十台だが、脚本の主人公のドイツ人、ランゲは独り住まいの六十歳である。
最大の単純の中に最大の芸術がある、というのが主人公ランゲの持論で、その見事な具体化を日本の古い建築や彫刻や美術に見出したという。論文を起草するためには、洗心亭のような日本的な環境が是非必要である・・・。
そんな日本贔屓のドイツ人ランゲと、和尚一家や小学校の先生と児童、世界情勢の変化に揺れる近隣の村人との交流を暖かく描いている作品だ。
独ソ不可侵条約が締結されるや、ランゲの立場が村のなかで険呑な気配に包まれる。
そんな状況のなかで、和尚の会話がなかなかいい。(脚本、シーン56山門の一部からシーン57鐘楼の冒頭まで)
和尚「儂はこの寺と村をつないでいる道が二ツあると思ってるんだが・・・・・」
河野「・・・・?」
和尚「一ツは山門へ登ってくる此の石段です」
と、和尚は言葉を切って、じっと石段を見降ろして暫く無言である。

河野「もう一ツの道というのは?」
和尚「ハハハハハ」
と、和尚は気持ちよさそうに笑って、
和尚「いらっしゃい。今、見せて上げます」
と、歩きだす。
二人来る。
和尚「これですよ」
と、和尚は鐘を見上げる。

・・・(略)・・・
和尚「石段、山門、本堂、これはいわば寺の身体です・・・・・鐘は寺の心だ」
このクロサワの脚本「達磨寺のドイツ人」、読み終わってけっこう心にしみた。テレビドラマでもいいからぜひ観てみたい。

わたしも喜捨をすると、息を整え、寺の心であるその鐘を思い切り突かせていただいた。
ひょんなことから、黒澤明の脚本「達磨寺のドイツ人」を読む機会があって、矢も盾もたまらず車を駆って舞台となった高崎の小林山達磨寺に馳せ参じてしまった。
『延宝年間のはじめ、碓氷川の氾濫し、その水が引けた夜に村人が良い香りのする古木を
発見し、この地にあった観音堂に奉納した。一了という老行者が、夢で達磨大師からの
お告げを受けてここを訪ね、その霊木で達磨の座禅像を彫りあげる。
それ以後「達磨出現の霊地、小林山」として近隣に広まった』

ここ小林山達磨寺、開創の縁起である。
昭和九年(1934年)の夏の盛りに、一人のドイツ人が達磨寺に現れる。いや、正確には連れの女性がいるから二人だ。
そしてこの胸突き八丁の石段を、きっとふうふういいながら登ったのだろう。

そこからさらに、もうひとつの短い石段を登ったところにあるのが本堂である。

ドイツ人だが、作品が国際的評価を受けた建築家で名前はブルーノ・タウト(54)という。
ナチス政権が台頭して、職と地位を奪われ、身の危険を感じ、日本インターナショナル建築会の招待を機に、妻子をドイツに残したままエリカ・ヴィティヒと共に日本に亡命した。
五月に敦賀に到着し、京都へ。案内された桂離宮の素晴らしさを後に世界に広めた。
京都から仙台、そして縁あって高崎に招かれる。
達磨寺の境内、庫裏からすこし離れたところにある「洗心亭」に滞在する。

山門からの長い石段を登り切った左側に庫裏がある。

そこの前を通り、洗心亭に行く途中に見晴らしのいいところがあって、高崎市街が展望できる。きっとふたりもここで足を止めたにちがいない。

六畳と四畳半、台所と湯殿、大柄な外国人が住むにはさぞ不便で狭かったことだろう。布団と畳の生活にもさぞや苦労したのではあるまいか。

ブルーノとエリカは、毎日の散策のときに近隣の農家の造りや生活ぶりを見て回った。
高崎では、家具の設計や、竹や和紙などの日本の素材を使った作品や漆器などモダンな作品を作った。
充分な生活費もなくドイツから持ってきたお金を取り崩す生活をしているのに、碓氷(うすい)川の洪水で罹災した地区に友人を介して見舞金を贈り、その残金は貧困家庭に分けた。
日本では、本業の建築の仕事にあまり恵まれず力を発揮できなかったが、関西から東日本を精力的に廻り、日本建築と日本文化についてのいくつかの著作を残した。
洗心亭での百日の滞在予定が、いつしか二年三カ月もの長期滞在になってしまった。
そんな折り、トルコから建築科教授、兼政府最高建築技術顧問として招聘があり、日本に未練を残しつつその要請受ける。
昭和十一年(1936年)十月、赤坂で行われた送別会の挨拶の最後には「出来うるならば私の骨は小林山に埋めさせていただきたい」と締めくくった。
さすがに「私は日本の文化を愛す」と小林山にその言葉を残しただけのことはある。
しかし、翌年の十二月、トルコで脳溢血のため死去。
エリカはタウトの遺志を果たすため翌年九月にデスマスクを小林山に納めた。
黒澤明が、このブルーノ・タウトをモデルに脚本を書きあげたのは三十歳の1941年というから、まだ助監督のころだ。タウトが達磨寺に居るころからその存在に注目していたのかもしれない。
ブルーノ・タウトは五十台だが、脚本の主人公のドイツ人、ランゲは独り住まいの六十歳である。
最大の単純の中に最大の芸術がある、というのが主人公ランゲの持論で、その見事な具体化を日本の古い建築や彫刻や美術に見出したという。論文を起草するためには、洗心亭のような日本的な環境が是非必要である・・・。
そんな日本贔屓のドイツ人ランゲと、和尚一家や小学校の先生と児童、世界情勢の変化に揺れる近隣の村人との交流を暖かく描いている作品だ。
独ソ不可侵条約が締結されるや、ランゲの立場が村のなかで険呑な気配に包まれる。
そんな状況のなかで、和尚の会話がなかなかいい。(脚本、シーン56山門の一部からシーン57鐘楼の冒頭まで)
和尚「儂はこの寺と村をつないでいる道が二ツあると思ってるんだが・・・・・」
河野「・・・・?」
和尚「一ツは山門へ登ってくる此の石段です」
と、和尚は言葉を切って、じっと石段を見降ろして暫く無言である。

河野「もう一ツの道というのは?」
和尚「ハハハハハ」
と、和尚は気持ちよさそうに笑って、
和尚「いらっしゃい。今、見せて上げます」
と、歩きだす。
二人来る。
和尚「これですよ」
と、和尚は鐘を見上げる。

・・・(略)・・・
和尚「石段、山門、本堂、これはいわば寺の身体です・・・・・鐘は寺の心だ」
このクロサワの脚本「達磨寺のドイツ人」、読み終わってけっこう心にしみた。テレビドラマでもいいからぜひ観てみたい。

わたしも喜捨をすると、息を整え、寺の心であるその鐘を思い切り突かせていただいた。
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