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郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

龍馬暗殺に黒幕はいたのか?

2012年01月27日 | 幕末土佐

 「龍馬史」が描く坂本龍馬の続きでしょうか。
 あるいは、桐野利秋と龍馬暗殺 前編後編の続きかも、なんですが、「木漏れ日に命を!」のノブさまのご著書を、読ませていただきました。

龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた 幕末京都の五十日
中島 信文
彩流社


 私、いわゆる龍馬暗殺黒幕ものは、ほとんど読んでおりません。
 歴史の謎、といいますものは、さまざまに設定が可能です。
 素人は素人でも私は変人ですから、一般にはほとんど興味を持たれていないモンブラン伯爵の維新における活躍なんぞといいますものに、多大な関心を抱いたりしているのですけれども、通常でいいますならば、昔邪馬台国、今龍馬暗殺かなあ、と思ったりします。

 そういえば、最近あまり、邪馬台国関係の出版物を見かけなくなりましたねえ。
 あれこそ、史料があまりにも少なくって、素人が簡単に取り組める歴史の謎でしたから、乙女の頃の私は、あれこれと他人様のご著書を拝読しては、なるほどー、そうかもー、いやまってー、こうかもーと、推測するのを楽しんだものでした。
 しかし、龍馬暗殺について言いますと、アーネスト・サトウと龍馬暗殺に書いておりますが、故・西尾秋風氏のご高説に、お口ぽっかーんとあきれてものがいえない状態になってしまいまして以来、馬鹿馬鹿しくって、読むのは時間の無駄、と思ってまいりました。

 邪馬台国とちがいまして、史料がないわけではありません。
 あるんです。それなりに。
 実のところ私、西尾秋風氏のご高説も、詳しく承知しているわけではなくって、おそらく最初の頃と後の方では、お説にちがいがでてきていたのでは、と思うのですが、少なくとも私が知っていた範囲では、中村半次郎(桐野利秋)だということでして、これが実に馬鹿馬鹿しい話なのです。
 桐野利秋と龍馬暗殺 後編に、龍馬の甥、高松太郎が事件の二ヶ月後に、龍馬の兄夫婦へ宛てた手紙を引用しております。以下、必要部分を再録。

 僕六刀を受けて斃る。十六日の夕方落命。次に才谷を斬る。石川氏同時の事、然れども急にして脱力にいとまもなく、才谷氏は鞘のまま大に防戦すると雖、終にかなわずして斃る。石川氏亦斃る。石川氏は十七日の夕方落命す。衆問ふといえども敵を知らずといふ。不幸にして隊中の士、丹波江州、或は摂津等四方へ隊長の命によりて出張し京師に在らず。わずかに残る者両士、しかれども旅舎を同うせず。変と聞や否や馳せて致るといえども、すでに敵の行衛知れず、京師の二士速に報書を以て四方に告ぐ。同十六日牛の刻に、報書の一つ浪花に着く。衆之を聞き会す。すなわち乗船17日朝入京、伏見より隊士散行す。

 高松太郎は、大阪にいて、16日の夜中に事件の知らせを受け取り、11月17日の朝には入京しています。そして、中岡慎太郎(石川)が落命したのは17日の夕方で、慎太郎は「知らない奴らにやられた」と語り残していた、というんです。
 私は、平尾道雄氏の「海援隊始末記」から孫引きしてこのときのブログ記事を書いていまして、私が参照しましたのは古い版のものですが、いまでは、下のように文庫本で出ていますので、簡単に手に入ります。

坂本龍馬 - 海援隊始末記 (中公文庫)
平尾 道雄
中央公論新社


 下の「陸援隊始末記」もそうなのですが、龍馬と中岡慎太郎について、平尾道雄氏のご著書は、基本中の基本だと思うのですね。

陸援隊始末記―中岡慎太郎 (中公文庫)
クリエーター情報なし
中央公論新社


 桐野にとって、元治元年からつきあいのある慎太郎と、寺田屋事件の後に薩摩で新妻とともにもてなしたこともある龍馬と、大詰めを迎えての二人の死は、なんとも口惜しいことであったと思いますし、それは、慎太郎ファンでもある私にとってもそうなのです。
 しかし、犯人さがしについて言いますならば、平尾道雄氏が述べられておられます基本線につけ加えることは、ほとんどないのではないか、といいますのが、正直なところです。
 にもかかわらず、今回、ノブさまのご著書を拝読させていただきましたのは、「犯人の狙いは龍馬ではなく、実は慎太郎が本命だったのではないか」という憶測には、私も少々関心がありましたし、ノブさまが当初ブログに書かれておりましたのは、そういうようなお話だったからです。
 
 ただ、慎太郎本命説には、難点があります。殺された場所が、龍馬の居所の近江屋であったことと、慎太郎が即死していなかったこと、です。
 即死していなかったことにつきましては、犯人は死んだと思ったけれども、昏倒していた慎太郎が一時蘇生したのではないか、とは、十分に考えられますし、慎太郎は「知らない奴らだった」と言い残しているわけですから、犯人にしてみましたならば、虫の息があったにしても正体がわかるわけがない、という安心感があったのではないか、という推測も成り立つでしょう。
 しかし、事件の場所が龍馬の居所の近江屋であった、につきましては、慎太郎とともにやはり龍馬も狙われていたのだろう、としなければ説明のつき辛いことでして、今回、ノブさまがそういう観点からご著書を出されたのは、卓見だと思います。

 それでー、ご著書の内容なのですが、大筋ではけっこう説得されます。
 といいますか、もし、一会桑サイドではなく黒幕がいる、としましたら、この線ならまあ考えられなくはないのかなあ、と思ってしまう、常識的なお話をされていまして、声を失いますような奇説、珍説とは、一線を画しておられます。
 それについては、ご著書の「はじめに」で、ノブさまはこう述べておられます。
 
 今までに論じられていた諸説に対して、論議の前提や思考方法にどこか違和感を感じていた。というのは、江戸時代や幕末、そして、現代にしても、人間の行動や思考は大きくは変わらず、龍馬らの暗殺も現代に通じる事件ではないかと考えたからである。そういったことから、当時の幕府や諸藩の動きを洗い直し、現代における会社組織などの動きや人間の行動と比較検討が必要ではないかと思った。

 「時代は変わっても人間の行動や思考は大きくは変わらない」という信念を基本に持っておりました歴史家として、『近世日本国民史』の徳富蘇峰がおります。彼は、そういう目で歴史を見、現実も見ておりましたので、敗戦後にはいち早く、アメリカが日本を助ける方向に舵をきるだろうと見極めた、鋭い観察眼を示していたりします。

 基本的には、ノブさまのおっしゃる通りなんです。
 ですけれども、しかし……、です。
 時代は変わりますし、その時代の風潮に、人間は大きく影響されるものである、とも、私は思っています。
 例えば、暗殺という行為に対します評価です。
 幕末・明治と現代では、受け止め方が、まったくちがうと思うのです。

 古い記事ですが、慶喜公と天璋院vol2に大筋のところは書いてあるのですが。
 まずは桜田門外の変。
 幕府の側からしますならば、大老が公道で浪士に襲われ、殺されたのですから、まぎれもないテロです。
 しかし、井伊大老は安政の大獄という政治的な大弾圧を行っていましたので、弾圧されました側からは、この暗殺は義挙でした。
 
 弾圧された側には、高位の公卿・大名もあり、土佐の山内容堂などは、「首を失って負けたおまえが成仏できるものかな。おまえの領地は犬や豚にくれてやれ」というものすごい漢詩を作って大喜びしています。
 まあ、しかし、です。当時の状況としましては、密かに漢詩を作っていただけなのですから、自分を失脚させた政敵が殺されて、表面ではお悔やみを言いながら日記に罵詈雑言を書き残すくらいのことは、現在でもありえそうなのですけれども。

 しかし、ですね。
 いつのまにかテロが正義となり、堂々と天誅がまかり通ったあたりは、どうでしょうか。
 「京の天誅の最初の一石となった島田左近暗殺には島津久光のひそかな指示があったのではないか」と書いたことについて、私はいまもそうであったのではないか、と思っています。久光に「あいつが怖いんですのやー」と訴えた近衛忠房は、島田が無事殺されたと知って「希代希代珍事、祝すべし、祝すべし」と喜んだというのですから。
 大会社の会長がですね、提携する政治家から「ライバルの用心棒が怖いんやー」と訴えられたので部下に暗殺を命じるって、現代ではまず、ありえんですわね。

 これに証拠があるのか、といえば、状況証拠しかないわけですけれども、確実なところでいけば、例えば久光の命令による上意討ちであった方の寺田屋事件、です。大会社の会長がですね、社員が勝手に他者の社員と連携して事を起こそうとしているからって、「やめろというわしの命令に従わないなら殺せ」って部下に命じるなんてこと、現代ではありえないですわね。書きかけなんですけれども、寺田屋事件と桐野利秋 前編は、時代相に即して、事件を追おうとしたつもりです。

 暗殺といっても、それは自分の命をかけてするものですし、命がけですることは賞賛される時代だったのだと、私は思います。
 それはしかし、当時においては日本だけのことではなく、世界的にもそうだったのではないでしょうか。
 例えば、イタリア統一運動にかかわっていましたカルボナリ党のフェリーチェ・オルシーニですけれども、もともとはカルボナリ党であったにもかかわらず、フランスの皇帝となってからのナポレオン三世がイタリア統一に背を向けたと見られたことから、皇帝の馬車に爆弾を投げつけるというテロを決行するのですけれども、失敗に終わって皇帝は軽傷。しかし、周囲のなんの関係もない一般フランス人がまきこまれて、死者十数人、負傷者百名以上という、大惨事になってしまいます。
 しかし、大義に殉じようとするオルシーニの裁判での態度がりっぱだということで、一般のフランス人もけっこう同情しますし、結果、ナポレオン三世は、イタリア統一に力を貸す決意をします。
 ちょっと、現代ではありえない話ですよね。

 もしかしましたら近デジにあるかな、と思うのですが、明治32年発行の「尚武養成 軍隊必読」という読み物があります。古今の武勇談を集めた読み物なんですが、新撰組の近藤勇が一人で龍馬と慎太郎を斬り殺したことになっていまして、その武勇が賞賛されていたりします。
 「龍馬死に臨み慎太郎を呼び起し、幕府末運に臨むもかかる武士あり。未だ侮るべからずと語り、嗟嘆して死す」って、現代ではちょっと理解し辛い価値観、ではないでしょうか。
 まあ、明治42年、伊藤博文を暗殺しました安重根を、日本人が義士と称えるような風潮もあったわけですし。

 と、まあ、そういうような観点からしまして、ですね、ノブさまの描写されます時代の様相が納得がいくかといいますと、ちょっとちがうかな、と感じるんです。例えば、以下です。
 京都の街自体は、緊張感は以前とは比べものにならないほど高揚してはいたが、それが逆に街の安全や治安に効いており、表面上は台風の目の中にいるような、ひと時の奇妙な静けさを持った、治安もかなり守られていた街だったのだ。笑い話だが、慶喜に大政奉還を建白した土佐藩要人などは、坂本龍馬らが斬殺された日、仲間と朝から芝居見物を暢気に楽しんでいたという話も残っているくらいである。
 
 えーと、まず芝居見物については、ですね。
 例えば一会桑側が、です。れっきとした土佐藩要人を襲ったのでは、それで黙っていては土佐の藩としての面目が立たず、確実に土佐藩そのものを敵にまわしてしまいますし、そんなことをば一会桑側も望むわけがないですから、別に土佐藩要人の身に危険はないわけです。
 一方、龍馬と慎太郎は、といえば、です。現実に二人が殺された後、犯人は新撰組だと噂されましたが、むしろ土佐藩邸は、二人を関係ないものとして扱うことで面目を保ち、それで一会桑の敵にまわるということもなかったのですから、殺したところで大問題とはならず、ひるがえって考えると、彼らは危険にさらされていたわけです。
 危険か危険でないかは立場によってちがった、ということでして、桐野利秋と龍馬暗殺 後編に書きました以下の部分を訂正する必要を、私は感じておりません。

 慶応三年十月、大政奉還が公表された当時の京は、殺伐とした空気を濃くしていました。
 昨日もご紹介しましたが、10月14日、大政奉還のその日、京在海援隊士・岡内俊太郎から、長崎の佐々木高行への手紙の最後は、この文句で結ばれています。
 「新撰組という奴らは私共の事に目をつけ、あるいは探偵を放ちある由にて、河原町邸(土佐藩邸)と白川邸(陸援隊)との往来も夜中は相戒め居候次第に御座候」
 新撰組のやつらはぼくたちに目をつけて、探偵にさぐらせていたりして、ここ白川邸と河原町藩邸とを行き来するのも、夜はやめておこうと気をつけているほどなんだよ。

 
10月28日の桐野の日記には、そんな殺伐とした状況をうかがわせる記事があります。
 桐野の従兄弟の別府晋介と、弟の山之内半左衛門が、四条富小路の路上でいどまれ、「何者か」というと、「政府」との答え。「政府とはどこか?」とさらに聞けば、「徳川」とのみ答え、刀をぬきかかったので、別府が抜き打ちに斬り、倒れるところを、半左衛門が一太刀あびせて倒した、というのです。
 大政奉還があった以上、薩摩藩士は、すでに幕府を政府とは思っていません。
 一方で、あくまでも徳川が政府だと思う幕府側の人々にとって、大政奉還は討幕派の陰謀なのです。
 そして………、土佐藩在京の参政、神山佐多衛の日記です。
11月14日
 薩土芸を会藩より討たずんば有るべからざると企これあるやに粗聞ゆ。石精(中岡)の手よりも聞ゆ
 「会津藩は薩摩、土佐、安芸藩を討つべきだということで企てがあるという。中岡慎太郎も同じ事を言っていた」というんですね。


 神山佐多衛の日記などを読んでいますと、あきらかに、この時期の京都土佐藩邸要人は、おびえています。なににおびえているかといいますと、白川の土佐藩邸にいる陸援隊と新撰組の間で騒動が起こり、それに土佐藩そのものがまきこまれるかもしれないことに、です。
 一橋慶喜や松平容保のレベルの話では、ないんです。
 幕府にしろ会津藩にしろ、新撰組の動きを確実にコントロールできているわけではないですし、陸援隊にしろ海援隊にしろ、浪士の集まりなんですから、土佐藩がコントロールできたわけでは、決してありません。
 
 もう一つ。
 倒幕派と佐幕派と、あるいは土佐藩士と会津藩士と、自由に会っていたについて、なんですけれども、いや、桐野利秋と龍馬暗殺 後編、そして中井桜洲と桐野利秋をご参照いただきたいのですが、脱藩薩摩人で、海援隊に席をおいておりました中井桜洲は、です。倒幕派の桐野利秋・永山弥一郎と非常に親しく(このことは、後世のものになりますが、中井の書簡で確かめられます)、西郷・大久保・小松が討幕の密勅を奉じて国元に帰りました直後に、永山とともに桐野を訪ねているんですね。桐野の日記によれば、桐野は西郷から密勅の写しを見せてもらっていて、なぜ京都薩摩藩邸の要人三人がそろって国元に帰ったのか、真相を知っています。中井は、密勅について、桐野から聞き知っていた可能性が非常に高いんですね。
 しかし、かなり自由にいろいろな陣営の人物と会って、土佐藩邸要人の情報源になったりもしています。どこまで中井がしゃべっていたかは、謎なんですけれども。

 あと、ですね。
 詳しくはfhさまのところの2007.08/16 [Thu]「備忘 寺島宗則19」にありますが、いわゆる王政復古のクーデターのその日、その首謀者といっていい大久保利通のブレーンだった寺島宗則が、なんでだか知りませんが、慶喜の側のブレーン西周に会おうとしていたりするんですね。寺島の自叙伝によれば、西周と榎本武揚に会おうとしていたことになっていまして、「西家略譜」『西周夫人升子の日記』でも、それは確かめられることなんです。
 寺島宗則は幕府の蕃書調所にいた人ですから、もともと西周とは親しく、えーと、このとき大阪の薩摩藩邸には五代とともにモンブランがいますし、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書いておりますが、フリーメーソンに加盟した西周は、オランダ留学帰りにパリにより、モンブランのもとを訪ねていたりするんですね。
 私といたしましては、寺島ママンはモンブラン・五代と西周を会わせて、そうですね、慶喜に対して、開港地を朝廷に渡して外交権を手放すことを勧めてもらおう、とか、考えていたんじゃないだろうか、と妄想したくなります。
 ま、あれです。治安がどうだろうが、会うべきと思えば、敵陣営の人物でも会おうとしてしていたりするもの、と、私は思うのです。

 それで、ですね。
 肝心要な部分、なんですが、最初に述べましたように、大筋では、ノブさんのなさっているような推理も、なりたたなくはない、と、私は思っています。
 土佐藩の史料をあまり読んでいないものですから、勉強させていただいたことも多々あります。
 しかし、そのご推測に関して、証拠はありません。証拠と思われたのでしたら、それは誤読、だと思います。
 思います、といいますのは、私は直接「寺村左善道成日記」を読んでいませんので、断言はできないんです。
 しかし、ちょっとネタバレになるかもしれませんが、慶応三年九月二十四日の「寺村左善日記」について、寺尾道雄氏が「陸援隊始末記」でこう記していると述べておられます部分を、以下、引用します。

 「相談の上、(陸援)隊士を白川邸から放逐することにしたが、命しらずのものが、うかつに処分するとどんな大事をおこすかも知れない。ついに後藤の裁断で壱千両を投げだし、おだやかに出すことにした」

 えーと、ですね。
 このもとの文章がどういうものなのか、私は読んでいないのでわからないのですが、ノブさまが引用しておられますこの日の日記の末尾、「吾邸内ヲ出ス事ニ決シタリ」が、平尾氏が要約しておられます冒頭の「(陸援)隊士を白川邸から放逐することにした」に呼応していると思われるんですね。
 で、この「吾邸内ヲ出ス事ニ決シタリ」を、ノブさまは「白川土佐藩邸にいた陸援隊や海援隊の隊長(巨魁)である坂本龍馬と中岡慎太郎を飢寒の徒で何をするか分からない危険な浪士であるので排除したい」と訳しておられるんですけれども、この意訳を平尾氏の解釈とくらべましたとき、大きく意味がちがっていますし、平尾氏の解釈の方が、原文に素直なものではないのか、という気がするんですね。

 平尾道雄氏は、「(土佐)藩邸でも佐幕派の連中は、この陸援隊を厄介視していた。幕府や会津の猜疑をおそれ、薄氷を踏む気持ちである」とも述べておられまして、「海援隊始末記」をあわせ読みますと、土佐の佐幕派が、海援隊も陸援隊も、同じように厄介視ししていたことは、大前提なんですね。

 そこまでは変わらないんですけれども、では陸援隊と海援隊を土佐藩から切り離すためにどうしようというのか、というところで、平尾氏とノブさまの解釈は変わってきています。そしてノブさまのように、龍馬と慎太郎を排除するというような解決法は、成り立たないのではないでしょうか。
 現実に、龍馬と慎太郎が暗殺されました後、海援隊・陸援隊の隊員の一部が、紀州藩士三浦休太郎と新撰組を襲う天満屋事件を起こしていまして、平尾氏の解釈のように「命しらずのものが、うかつに処分するとどんな大事をおこすかも知れない」という心配が大きかったと思います。
 先に述べましたように、佐幕派が陸援隊、海援隊を厄介視していましたのは、自分たちのコントロールできない浪士集団であり、彼らが勝手に暴れかねないことでして、そんな集団が土佐藩の白川藩邸に巣くっていたのでは、自分たちに災難をもたらしかねないから、です。

 以上を踏まえまして、ノブさまが引用しておられます「寺村左善道成日記」慶応3年10月5日の「白川邸浪士所分之事」を解釈しますと、これはもう素直に、そして平尾氏の解釈通りに「陸援隊士を白川邸から放逐すること」でまちがいはなく、「龍馬と慎太郎を暗殺すること」と解釈いたしますのは、不可能です。
 結論からいいまして、平尾氏が書いておられます通りに、陸援隊を白川邸から放逐したい、という、寺村左善の望みはかないませんでした。そして、なぜその当時、左善が切実にそう思ったのか、というような分析に関しまして、ノブさまのご推測は、非常に説得力のあるものなのです。

 いったいなぜ、慎太郎が龍馬とともに襲われたのか。
 ノブさまの他のご推測の部分、実は新撰組も関係していたのではないか、とか、考えさせられる部分は多かったですし、ご労作、楽しんで読ませていただきました。

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普仏戦争と前田正名 Vol6

2012年01月25日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol5の続きです。

 
巴里の侍 (ダ・ヴィンチブックス)
月島総記
メディアファクトリー


 またちょっと「巴里の侍」に話を返します。
 この小説中の前田正名の戦友として、架空の日本人がいます。
 えー、度会晴玄という名で芸州人だそうですから、渡六之介(正元)から思いついた登場人物なんでしょう。本物の渡六之介については、また追って書きたいと思うのですが、本物の渡がサン・シール陸軍士官学校に入りますのはもっと後の話ですが、度会晴玄はパリへ着いたとたんに士官学校へ入学しています。
 なめんなよ、サン・シールを!!!!!です。筆記試験がないとでも思っておられるのでしょうか。昔の日本の陸士は言うにおよばず、今の防衛大学だってけっこう難しいでしょうに。
 詳細はfhさまのところにあるのですが、本物の渡は30歳と年もけっこういっていましたし、普仏戦争後、公使として赴任してきました鮫ちゃん(鮫島尚信)が、「リセ就学ぬきでサン・シールに入れてやってはくれまいか?」と当局と交渉を重ねた結果、特別にサン・シール入学を認められたような次第です。
 通常ですと、オルチュス塾からサン・ルイ校(リセ)へ進学、そしてサン・シール受験です。

 そのいいかげんな設定の度会晴玄が、です。
「わしゃァかの土方歳三率いる隊を向こうに回して、一歩も引かん戦ぶりを見せたんよ?」 と自慢し、それを士官学校のフランス人同級生に話したところ鼻で笑われた、と怒るんです。
 もうーねえ。
この軍事好きだという芸州人は、1867年1月12日(慶応2年12月8日)フランス軍事顧問団 が来日して、戊辰戦争の幕府側にフランス人が参加していたことをしらなかった!!!!とでも言うのでしょうか。
 確かに度会は、函館までは戦ってない設定になっていますが、幕府軍がフランス軍事顧問団の伝習を受けていたことを知らない、軍事好きの日本人なんてありえませんし、ブリュネ大尉を中心としますフランス人の函館戦争参戦は、局外中立違反として、外交問題になっていたんです。一応、正名くんは、フランス人で、なおかつ日本の欧州総領事になっていましたモンブランの秘書です。知らないなんて、これまたありえません。

 ブリュネ大尉のことは、函館戦争のフランス人vol1に書いておりますが、鈴木明氏の「追跡―一枚の幕末写真 」(集英社文庫)によれば、帰国後、当然ですが普仏戦争に従軍し、セダン近郊で捕虜になっています。釈放は戦後。
 悲惨なセダンの戦場には、土方歳三とともに戦ったフランス人が他にもいました。
 函館戦争のフランス人vol3(宮古湾海戦)の一節を、以下、再録です。

 ニコールは、ブリュネ大尉たちとともに降伏寸前の五稜郭から抜け出し、コラッシュも結局、フランス公使に引き渡されて、二人は海軍を首になり、フランスへ帰されます。ところがその翌年、普仏戦争が勃発。
二人とも、一兵卒としてフランス陸軍に志願し、セダンの戦いでニコールは戦死。コラッシュは負傷しますが生き残り、明治4年、手記を出版したわけです。
セダンの戦いは、フランス軍にとっては無惨なものでした。

 
 白山伯も食べたお奉行さまの装飾料理にて訂正しておりますが、ウージェーヌ・コラシュが宮古湾海戦の折りの手記を旅行専門誌に発表しましたのは、1874年(明治7年)のことです。



 上、宮古湾参戦当時のコラシュを描いた手記の挿絵です。
 ニコールとコラッシュが、セダンで同じ隊にいたのかどうか、詳しいことはまったくわからないのですが、見習い士官の身でともに脱走して、日本での冒険に身を投じました二人は、普仏戦争でも同じ隊にいて、あまりのやりきれない事態に気が滅入ったときには、日本での楽しかった(普仏戦争の現実にくらべれば、格段に楽しかったと思います)戦いの思い出を語り合ったりしたのではないかと、想像したくなります。
 ニコールは、土方歳三と同じく、甲賀源吾が艦長をしておりました回天に乗り込んで負傷し、そして一兵卒としてセダンで戦死。
 前田正名とそれほど年もちがわなかったこのフランス人の若者の、最期の瞬間に思いを馳せるとき、私は言葉を失ってしまうのです。
 ニコールにとっての普仏戦争は、祖国防衛戦ですし、戊辰戦争とくらべて格段に重かったはずなのです。それが……、ありえないほどの思惑違いの連続だったのですから、無念というのでしょうか、納得できない激情を、死の瞬間までかかえていたのではなかったでしょうか。

壊滅 (ルーゴン=マッカール叢書)
エミール ゾラ
論創社


 実在のニコールとコラッシュは同年代の戦友ですが、「壊滅」の主人公、ジャンとモーリスは、39歳と20歳。倍近くも年が離れた戦友です。
 二人がいたアルザスの軍団は、プロシャ軍に退路を断たれる!という知らせに慌てて、プロシャ軍を見ることもなく、ミュルーズからベルフォールへ引き上げたのですが、兵士たちが極度の疲労の中で、四日ぶりに暖かい食べ物にありついたとき、とんでもない真相を知ることになったのです。
 そもそも、彼らがミュルーズへ向かったときの「マルコルスハイムにプロシャ軍が向かっている」という郡長の知らせは、事実ではなかったんです。恐怖のあまりか、郡長が幻に踊らされた、ということでして、水鳥の羽音に驚いて逃げた富士川の平家のようなものでした。

 そして、フニンゲンでプロシャ軍がライン川を渡った、という知らせは、確かに事実と言えば事実だったんですが、シュバルツバルト軍団(南ドイツ連邦の連合軍、と思います)のうち、ヴュルテンベルク王国の少数の分遣隊にすぎなかったんです。それが巧妙にも、攻撃と退却を反復して3~4万の軍団に見せかけていまして、その見せかけにおびえた退却途上、フランス軍はダンヌマリーの陸橋を爆破し、周辺の住民をパニックに陥れ、「卑怯者!」とののしられたんです。
 「どういうことなんだ! 俺たちは敵と戦うために出張っていたんじゃないのか? ところが敵は一人もいないぞ! 四十八キロ前進、四十八キロ後退、それなのに猫一匹いないぞ! こんなことしても何にもならないし、冗談にもほどがあるぞ!」
 兵士がそう大声で罵り、士気を無くしてしまったのは、無理もないことでした。

 そしてまたベルフォールで一週間、なんの情報もないままに、軍団は放っておかれます。ドゥエ将軍が命令を要請しても、梨のつぶてだったのです。
 ジャンとモーリスの部隊は、ベルフォール城塞の補強工事にかり出されました。
 兵士たちは不満でしたが、しかしこれは、けっして無駄なことではなかったのですけれども。

 ベルフォールの要塞は、基本ヴォーバン式要塞でして、広瀬常と森有礼 美女ありき10において、五稜郭の建築を思いついたのは仏軍艦コンスタンチン号が伝えたパリのヴォーバン式(稜堡式)要塞ゆえらしい、と書いたのですが、要するにあの五稜郭のような星形要塞が基本にはあります。
 ベルフォールは、ヴォーバン式でも最新式でしたところへ、その後も手が加えられ、ついこの5年ほど前にも大規模な補強工事をしたところでした。
 前回ご紹介いたしました松井道昭氏のブログ、「普仏戦争 地方の決起 第二節 ヴェルダン、ビッチュ、ベルフォール」にありますし、またベルフォールで検索をかけましても出てまいりますが、ベルフォールの街は、この補強されました要塞のおかげも被り、1万5千というわずかな籠城軍で、猛烈な砲撃にも耐え、自国政府の休戦命令が届くまで戦いぬくのです。
 この勇猛な抵抗は、相手のドイツ軍にも称えられ、戦後、アルザスがドイツ領とされる中、ベルフォールはフランス領にとどまります。

 一週間の要塞補強工事の後、ジャンとモーリスの部隊に命令が届きます。
 部隊は家畜車にぎゅうぎゅうにつめこまれて、パリへ。
 しかし、すぐにその夜、列車はランスへと向かいました。シャロンのマクマオン軍が、ランス郊外、広大なサン=ブリス=クールセルの平野に退却してきて野営をしていて、それにに合流したのです。
 ランスはシャロンよりパリに近く、モーリスは、パリまで退却してプロシャ軍を迎え撃つことになったのではないか、と推測します。

 ところが、ちがっていたんです。
 前回書きましたように、パリカオ伯爵と摂政のウジェニー皇后が皇帝とマクマオン軍のパリ帰還を拒み、メスのバゼーヌ軍と協力すべくヴェルダンをめざすように指示を出したわけなのですが、プロシャ軍の位置もつかむことなく、ろくに状況もわからず、なんの準備もなく、十万を超える軍団にともかく早く動けと後方からわめくのは、混乱を招くだけのことでしかありませんでした。
 見渡すかぎりに野営した軍が、いっせいに動き出した騒動の中で、モーリスはそれでも、今度こそ敵と面と向かい合って銃を撃ち、勝利を引きよせられると信じていました。

 しかし、それはすさまじい行軍だったのです。
 十万の軍には、なんの補給の準備もありません。街道筋の食料は、先に進んだ部隊が食べつくし、後を行く部隊には、ろくに食べ物も行き渡りません。プロシャ軍がどこにいるのかはわかりませんが、やがて、槍騎兵の噂を聞くようになり、姿の見えない敵の影が不安を呼び起こします。
 実はプロシャ軍は普仏戦争において、槍騎兵を強行偵察に使うという新しい戦法を採用していました。機動力のある騎兵が、まずは敵情をさぐり、他の部隊の前進はその後のことなのです。
 フランス軍の方は、ただ闇雲な前進です。
 しかもヴェルダンへの前進はパリからの命令で、皇帝もマクマホン元帥も、決して納得していたわけではありませんでした。
 モーリスは、空腹の上にあわない靴で足を痛め、絶望的な行軍の中、伍長のジャンに助けられ、心を通わせます。

 モーリスは彼(ジャン)の腕に身をあずけ、子供のように抱えられて歩いた。今までいかなる女もこれほどまでに暖かい手を彼に差し伸べてくれなかった。この悲惨な極限状態にあって、すべてが崩壊し、死を目前にして、彼を愛し介抱してくれる人間がいると感じることは、彼にとってまさに甘美な慰めであった。そして農民は土にへばりついている単純な人間だと最初嫌悪していた心のうちの考えが、今になって感謝のこもった無限の愛情へと変わったのであろう。すべての教養や階級を超えた友情、自ずから敵の脅威を前にして、相互に助け合うという日常の必要性から深く結ばれる友情、これが世の始まりの友愛ではなかったであろうか? 彼はジャンの胸の中にその人間性が高鳴っているのを聞いた。そして彼は自分自身がそれを強く感じ、救い上げ、心服しているのを誇りに思った。一方でジャンは自分の感情をよく確かめもしなかったが、自分にとって発育をとげていないこの友人の中にある優雅さと知性を保護することに喜びを味わっていた。

 いったいなにがしたいのか、行軍している本人たちにもさっぱりわからない迷走の末、モーリスの部隊は、スダン郊外、アルジェリー高原に布陣することになります。
 セダン(スダン)城内(セダンに城があるわけではなく、セダンの街を取り巻く城壁の内、という意味です)にはナポレオン三世がいて、その本隊を守るための布陣といえばそうなのですが、すでにプロシャ軍は多人数で包囲を終えていて、袋の口を閉じられ、セダンに押し込められた、という状態でした。
 
 この瞬間に大砲の最初の一撃がサン=マンジュから発せられた。まだ霧がもやもやと漂っている向こうで、何やらわからなかったが、雑然とした一群がサン=タルベールの隘路に向けて進んでいた。
 「ああ、奴ら」がいる!」とモーリスが言った。彼はあえてプロシア軍と言わずに、本能的に声を潜めていた。「僕たちは退路を断たれたんだ。畜生!」


 プロシャ軍の砲撃は激しく、部隊は三百メートル後退し、キャベツ畑で伏せて待機し続けます。

 砲弾が炸裂して、最前列にいた兵士の頭を粉々にしてしまった。叫びを上げることもなく、血と脳漿が飛び散った。ただそれだけだった。
 「気の毒な奴だ!」とサパン軍曹は蒼白になっていたが、取り乱すことなく、ただ呟いた。「だがこの次は誰だ!」
 しかし誰もがもはや理性を失い、とりわけモーリスは言い知れぬ恐怖におののいた。


 フランスの砲兵隊は、モーリスの部隊のすぐ近くにいました。しかし、あきらかに劣勢で、しかもプロシャ軍の砲隊は、新たにフランス軍が放棄した場所に陣取り、集中砲火を浴びせはじめたのです。

 さらにこの恐ろしい砲撃戦は続き、伏せている連隊の頭上を越え、炎天下の誰も見えない死んだような焦熱の平野の中で激しさを増した。この荒涼たる光景の中で展開されているのは砲撃の轟き、破壊の大旋風だけだった。時間は刻々と過ぎていったが、それは少しも止まなかった。だがすでにドイツ軍砲兵隊の優勢が明らかになり、長距離であっても直撃弾はほとんどすべてが炸裂した。一方でフランス軍の放った砲弾ははるかに射程距離が短く、標的に届く前にしばしば空中で燃えてしまった。だから全員が塹壕の中で小さくなっているしか手立てがなかったのだ! 銃を持つ手をゆるめ、茫然自失し、溜息をつくしかない。というのも誰に向かって撃つのか? なぜならば相変わらず地平線上には誰一人姿が見えないのだ!

 見方の砲隊はやがて沈黙し、敵の十字砲火は激しさをまし、次々に隊員が倒れ、しかし敵の姿は見えず、恐怖は極限まで達します。
 そのとき、前方四百メートル、小銃射程距離内の小さな森から、プロシャ軍が姿を現しました。その姿は、すぐにまた森の中に消えたのですけれども。

 だがボードワン中隊は、彼らを目撃してしまったので依然としてそこにいると思った。軍用銃が自ずから撃ち出された。最初にモーリスがその一撃を放った。ジャン、パシュ、ラブール、その他全員の兵士たちがそれに続いた。命令が下されたのではなく、大尉はむしろ銃火を止めようとした。するとロシャが気晴らしも必要だと言わんばかりに、大きな身振りを示したので、大尉は認めるしかなかった。さあ、ついに撃ったのだ! 一ヵ月以上も一発も撃たずに持ち回っていた薬包をついに使ったのだ! モーリスはそのことにとりわけ上機嫌で、恐怖も忘れ、銃声に恍惚となっていた。森の外れは死んだように音もなく、木の葉一枚そよともせず、プロシア兵も再び姿を見せなかった。そして兵士たちは不動の樹木に向けていつまでも銃を撃ち続けた。

 なんの効果もない銃撃、といいますか、弾が無駄になるだけのことなんですが、銃を撃ち続けることで、不安と恐怖がごまかせるんですね。
 砲撃にさらされるだけの長い長い待機の後に、ようやく前進命令が出ますが、すでにそのときには、前進どころか、逃げ惑うだけしかない状況に追い込まれています。
 予備のフランス軍砲兵隊がそばに来て布陣し、その中には、モーリスの従兄弟のオノレ・フーシャルがいました。しかし、布陣間もなく、プロシャ軍の砲撃に吹き飛ばされ、沈黙します。
 モーリスの歩兵部隊ではボードワン大尉も砲弾に倒れ、連隊長も死に、イイ高原のフランス軍騎兵隊は、自殺行為にも等しい壮絶な突撃をプロシャ軍にかけ、ほぼ全滅してしまいます。

 ロシャ中尉が中隊の退却を告げ、部隊はセダンの街中に向けて敗走をはじめますが、そのとき、砲弾の破片がジャンの頭をかすめ、ジャンは昏倒します。
 モーリスはそれを見捨てることができず、渾身の力を振り絞ってジャンを運び、川の水をくんでジャンの顔にかけます。そのとき、ふと遠くの谷間を見やると、朝見かけた農夫が、そのまま麦畑で働き続けています。
 ジャンは気をとりもどし、そうなってみると傷はたいしたことはなく、二人は自分たちの中隊に追いつき、プロシャ軍の嵐のような砲撃がおいかけてくる中、ガレンヌの森をつっきります。
 
 ああ、凶悪な森、殺戮の森だ! そこでは瀕死の樹々がむせび泣き、次第に負傷者たちの苦痛のうめき声が充満するようになってしまったのだ! 樫の木の下でモーリスとジャンは内蔵をはみ出させ、された獣のような叫びを上げ続けている一人のアルジェリア歩兵を目にした。さらに離れたところに別の兵士が火達磨になっていた。青い帯が燃え、炎は髪にまで及び、焼けこげていたが、おそらく腰のあたりをやられてしまい、動くことができず、彼は熱い涙を流していた。それから一人の大尉は左腕を引きちぎられ、右の脇腹は腿のところまで裂け、うつ伏せに倒れ、肘で這いながら、甲高く恐ろしいまでの哀願の声で殺してくれと頼んでいた。他にもまだ何人もがおぞましい苦しみの中にあり、草の小道にあまりにも多くの兵士たちが散らばって倒れていたので、通るときに踏み砕かれないように用心しなければならなかった。だが負傷者も死者もかまっているどころではなかった。倒れてしまった同僚は見捨てられ、忘れられた。後を振り返る余裕すらなかった。それが宿命だった。他人のことなどかまっていられなかったのだ!

 森の出口で、連隊旗を持った少尉が、肺に弾丸を受けて倒れます。

 「俺はもうだめだ。くたばるしかない! 連隊旗を頼むぞ!」
 そして彼は一人取り残され、何時間も苔の上でのたうち回り、この森の甘美な片隅にあって、麻痺する手で草をかきむしりながら、胸からうめき声を上げるのだった。


 フランス軍には、個々の兵士の勇気が欠けていたのでしょうか?
 いえ……、決してそうではないでしょう。
 圧倒的に強かったプロシャ軍ですが、一年に満たない戦争で13万人以上の死傷者(フランス軍28万以上)を出していますし、小銃同士の近接戦に持ち込めた場合には、プロシャ軍のドライゼ銃よりもフランス軍のシャスポー銃の方が射程が長く、フランス軍が善戦しているんです。
 なかなか、近接戦に持ち込ませてもらえなかったんですね。
 
 普仏戦争の戦死者は全体で25万人といわれますが、そのほんの2年ほど前の戊辰戦争の戦死者は、双方でわずか一万三千人あまり。
 火力の差もありますが、まずなによりも動員された兵士の数が圧倒的にちがいます。
 鳥羽伏見の戦いで、多めに見積もって幕府軍一万五千、薩長軍五千ですが、普仏戦争はセダンの戦いのみで、フランス軍が十万を超え、プロイセンはおよそ二十四万です。
 徴兵制ゆえの大軍です。島国で海軍中心のイギリスは、第一次世界大戦まで徴兵制はしかず、この時点で、こんな大陸軍は備えていません。
 いったい、フランスを見習って徴兵制を導入しました明治陸軍は、当初、どこの国のどんな攻撃に備えるつもりでいたのでしょうか。私には、明治初年からの長州の徴兵大陸軍指向が、さっぱり理解できません。

 それはともかく、セダンの戦いがフランスにとって悲惨だったのは、倍の数の敵軍により、十万を超える軍が狭い地域に押し込められ、圧倒的な火力をあびせかけられたがゆえ、です。
 人にしろ馬にしろ、あまりな数の死体で、勝者のプロイセン軍も、始末をつけることに難渋し、腐敗し、悪臭を放って、疫病が蔓延します。捕虜になったフランス軍は、これもその数の多さゆえに、なってなお、飢えに苦しみ、多数の死者を出します。

 ニコールは宮古湾海戦で、回天に乗り組んでいまして、艦長の甲賀源吾は戦死し、ニコールも軽傷を負いましたが、少なくとも、数がもたらす悲惨さからは、まぬがれていたと思うのです。
 命が助かったコラッシュは、普仏戦争が終わって宮古湾海戦をふりかえったとき、おとぎの国の戦いででもあったかのような、そんななつかしさを抱いたのではないでしょうか。
 ところで、その回天が、実はプロイセン海軍が初めて自国で作った軍艦、ダンジック号であったということも、なんとも数奇な運命です。
 回天について、詳しくはwiki-回天丸をご覧ください。

 なかなか、話が正名くんにいきつきませんが、次回に続きます。

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普仏戦争と前田正名 Vol5

2012年01月13日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol4の続きです。

 大佛次郎氏の「パリ燃ゆ I」をじっくり読んでみまして、「巴里の侍」 (ダ・ヴィンチブックス)の月島総記氏がどのように誤読なさったかは、なんとなくわからないでもないのかな、と思いもしたのですが、それにいたしましてもすさまじい誤読です。
 ぱらぱらっとめくって目についたところだけでも、まだまだ多数あります。

 ウィサンブールは原野の丘じゃなく、鉄道が停車する街だから!!!というあたりはまだしもこう、誤読の経緯の見当がつかなくもないのですが、ウィサンブールの戦いの折りの「大本営」とやらは、セダン(スダン)ではなくメスでして、ウィサンブールの戦いの敗残兵が翌日にセダンに逃げこむって、ありえんでしょ!!!と、このあたりはどうなんでしょうか。
 「パリ燃ゆ」にはちゃんと「メェッスに置かれた大本営では」とあって、こうなってまいりますと、「あーた、ほんとに読んだの???」と聞きたくなります。
 とりあえず、地図で地名をひろってみましたので、ご参照のほどを。

 Googleマップ 普仏戦争
 
 要約が下手というより、読解力がなさすぎなのかどーなのか、大佛次郎氏に失礼です。
 普仏戦争について、日本語で書かれた本は少ないのですけれども、うまい要約でしたら、鹿島茂氏がしてくださっています。

 
怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史 (講談社学術文庫)
鹿島 茂
講談社


 上の本から引用です。

 八月二日、両軍はザーレブリュック(ザールブリュッケン)で最初の衝突をした。敵軍の機先を制するつもりでナポレオン三世がプロシャ領内のザーレブリュックの攻撃を命じ、プロシャ軍を町から撤退させたのである。この「勝利」の知らせはパリで大きく報じられた。
 八月四日にはまずプロシャ領内のヴィセンブルク(ウィサンブール)でアベル・ドエー将軍率いるフランス軍部隊が皇太子カイザー・ヴィルヘルム二世の率いるプロシャ軍に蹴散らされ、六日には、ロレーヌのフォルバックでフロサール軍がフリードリッヒ・カルル王子麾下のプロシャ第一軍に、またアルザスのレショーファン(ライヒショーフェン)ではマクマオン軍がフリードリッヒ・ヴィルヘルム王子率いるプロシャ第三軍に、それぞれ急襲されて大敗北を喫し、退却を余儀なくされたのである。こうして、アルザスとロレーヌはプロシャ軍に占領され、第一次世界大戦までドイツ領となるのである。
 この大敗北をメッスの総司令部で知ったナポレオン三世は、絶望のどん底に突き落とされた。総司令部の将軍たちは、辛うじて退却に成功したフロサール軍とマクマオン軍を一カ所に集め、反撃を用意すべきだとしたが、ナポレオン三世は遠方のシャロンまで思い切って後退し、その地で予備役軍と合流し、パリ防衛のための強固な軍を再組織すべきだと考えた。


 文中、ヴィセンブルク(ウィサンブール)をプロシャ領となさっている点は、私が見ました普仏戦争の地図では、フランス領アルザスになっていまして、ちょっと疑問符をつけておきます。1801年、ナポレオン一世とローマ教皇の間で結ばれましたコンコルダート(政教条約)以前は、ドイツ諸国側のシュバイエル司教区管轄だったそうですが、第二帝政期にはどうだったのでしょうか。

 ともかく開戦当初、フランス軍とプロシャ軍は、アルザスとロレーヌの二カ所でぶつかります。
 フランス軍もドイツに侵攻する気がなかったわけではないのですが、不手際が重なり、結局、防御陣をしいてドイツ軍を待ち受ける形になるのですが、それが、ロレーヌのティオンヴィル(メス北方で国境を越えればルクセンブルク)を中心とした地域から、アルザスのベルフォール(ストラスブールの南で国境の向こうはスイスのバーゼル)まで、二百キロを超えるドイツ圏国境線に、20万人をばらまいたんですね。
 このことは、「パリ燃ゆ」にも「(フランス軍)敗北の主たる原因は二百六十キロに渡る国境線に軍を散開させたに依るものとされた」と、ちゃんと書いてあります。

 アルザス、ロレーヌは、もともとはドイツ語圏でして、アルザスは17世紀半ば、ロレーヌは18世紀半ばにフランス領となりました。しだいにフランス文化が浸透し、同化してはいたのですけれども、隣接しますドイツ語圏との関係も濃く、ドイツ人が親戚を訪ねたり、あるいは出稼ぎや取り引きに出向くことも多々ありましたので、いても目立ちませんし、プロシャは早くから多数のスパイを放っていたんですね。
 一方のフランスは、挑発されて、国民が熱狂してしまい、政府が戦争をするしかない状態に追い込まれての開戦。なんの準備もなく、士官、将官さえ、ろくに戦場の地図ももっていない状態だったと言います。

独仏対立の歴史的起源―スダンへの道 (Seagull Books―横浜市立大学叢書)
松井 道昭
東信堂


 松井道昭氏は、近代フランス社会経済史がご専門の先生で、大佛次郎記念館の嘱託研究員もなさっておられた方だそうです。この本は、ヨーロッパ史の中における普仏戦争開戦までのドイツ・フランス関係史を、わかりやすくまとめてくださっていますが、普仏戦争開戦時の状況について、以下のように述べておられます。

 準備万端整った国と不用意に挑発に乗ってしまった国との勝負では、実力以上の差が出てしまうであろう。しかも、戦争の大義はドイツ側にあった。ドイツは国家統一の達成という目的を掲げていた。対するフランスはそれを妨害することによって、綻びの目立つ帝政を繕うという目的を持っていた。だれの眼にも、燦然と輝く大義と、手前勝手で見栄えのしない大義とのコントラストと映った。

 兵力に歴然たる差があった。動員・装備・訓練・指揮のいずれをとってもドイツ側に一日の長がある。動員令が発令されると、ドイツ軍の総数五〇万人は四軍体制でもって記録的なスピードで所定の配置につく。鉄道が彼らの迅速な行動を保証した。全軍は、国境突破せよという命令を今や遅しと待つ。
 対するフランス軍は最初から混乱状態に陥る。正規軍は部隊編制不十分なまま闇雲に国境をめざすが、鉄道ダイヤはないも同然で時間を空費する。いざ部隊が目的地に着いてみると、兵器も弾薬も糧食も届かず、おまけに指揮官さえ到着していないという有様であった。予備役軍にいたってはめいめいが装備を整えたうえで市町村役場に出頭し、ここで命令書を受け取って目的地に向かう。鉄道便のあるところは、それを利用するが、それがないところでは歩いて行かざるをえない。ともかく七月中に動員された兵力は二五万人にしかならなかった。作戦計画はないも同然だったから、スイス国境に近いバールからルクセンブルクまで兵士を漫然と薄く並べたにすぎない。


 松井道昭氏は、普仏戦争について、詳しくブログに書いてくださっています。近々、本にされるそうで楽しみに待ちたいと思いますが、こんなに詳しいものをiPadで読ませていただけるとは、これだけでも幸せです!

 松井道昭氏のブログー普仏戦争

 松井氏のブログも参考にさせていただいて、アルザス、ロレーヌの大敗北以降を簡単にまとめますと、絶望したナポレオン三世は、バゼーヌ元帥に総司令官の地位をゆずり、軍を二つにわけます。アルザスにいた軍を中心とするマクマオン軍と、直接バゼーヌが率いる18万もの精鋭軍と、です。
 ナポレオン三世の当初のつもりでは、バゼーヌ軍もシャロンへ、ということだったのですが、結果的にバゼーヌ軍はメスに釘付けにされてしまいます。

 一方、ナポレオン三世とマクマオン軍はシャロンで、パリからの援軍と落ち合います。
 アルザス、ロレーヌ敗戦の報が届いたとき、開戦内閣は総辞職となり、太平天国の乱で活躍したパリカオ(八里橋)伯爵ことモントーパン将軍が、戦時内閣の首班となっていたのですが、なまじ軍人であったばっかりに、この人が摂政ウジェニー皇后といっしょになって、パリからマクマオン軍を指揮しようとするのですね。
 シャロンは守りに向いた地ではなく、皇帝はマクマオン軍とともにパリへ帰って防衛するつもりでした。しかし、パリカオはそれを拒み、メスへ帰ってバゼーヌ軍と合流するように要請します。
 結局、2万の軍だけをパリへ帰し、残り13万のマクマオン軍と皇帝は、メスへ向かうこととなりました。
 あげくの果てに、プロシャ軍にはばまれてメス方面には行けず、セダンに追い込まれ、袋の鼠になったというわけです。

 前回、エミール・ゾラの「ナナ」 (新潮文庫)のラストに、普仏戦争開戦の日のパリが描かれている、とお話しましたが、ルーゴン=マッカール叢書の最後を飾る19巻「壊滅」は、時期的にはこの直後、アルザス防衛の最前線から話がはじまります。当時を生きたジャーナリストのゾラが、綿密な取材を重ねて普仏戦争とパリ・コミューンを描いていますから、非常なリアリティがあり、大佛次郎氏も、資料として「パリ燃ゆ」で使っておられます。

壊滅 (ルーゴン=マッカール叢書)
エミール ゾラ
論創社


 主人公は、開戦直後、アルザス南端、ベルフォールにいましたフェリックス・ドゥエ将軍率いる第七軍団第二師団に属する、二人の兵士です。
 ジャン・マッカールはナナの叔父にあたり、実直な農民です。
 1859年、イタリア統一戦争に際して、フランスが統一を志すサルデーニャ王国に味方してオーストリアと戦ったソルフェリーノの戦いに、一兵卒として従軍していました。妻を亡くし、土地を失ったちょうどそのときに、戦争が始まるという噂を聞き、39歳にして志願しました。10年前の従軍経歴により、伍長になっています。

 モーリス・ルヴァスールは、セダンに近いシェーヌ・ポピュール(ル・シェーヌ)の出身で、祖父はナポレオン一世軍の英雄でした。
 父親は収税役人でしかありませんでしたが、モーリスを法律の勉強のためパリに遊学させます。
 しかし、若いモーリスは、帝政バブルのパリで放蕩の限りをつくし、父親は全財産を亡くして死にます。
 モーリスには、アンリエットという双子の姉がおり、弟を案じておりましたが、一文無しになりながら、スダンの織物工場の監督になっているヴァイスという好青年と、恋愛結婚をしていました。
 二十歳にして、実家を破産させるという不名誉を背負ったモーリスは、熱狂しやすく、そして感じやすいインテリです。
 当時の進歩的な思想でありました進化論にのめりこみ、戦争は国家の存亡のためにやむをえない必然的なことだと、信じていました。
 以下、引用です。

 大きな戦慄がパリを震撼させ、狂乱の夜が再び出現し、通りは群衆や松明を振りかざした団体群であふれ、「ベルリンへ! ベルリンへ!」と叫び立てていた。市役所の前で、女王のような顔をした大柄な美人が御者台に立って旗を振りながら、「ラ・マルセイエーズ」を歌っているのがずっと聞こえてきた。だからパリ自体が熱狂の中にあった。

 このパリの熱狂にかられてモーリスは志願し、一兵卒となりますが、一兵卒として経験する軍の現実、つまり垢にまみれて悪臭がし、教養もない(読み書きができないものも多数)粗野な兵隊仲間とのつきあいや、機械的で体は疲労し、頭は鈍くなる一方の訓練が、彼をうんざりさせます。
 それでも、部隊が汽車でベルフォールへ出発するときには、勝利を確信して、再び熱狂がモーリスをつき動かしたのです。
 ところが、です。

 すべての物資をまかなうはずであったベルフォールの軍事倉庫は空になっていて、悲惨極まりない欠乏状態に追いやられてしまった。テントもなければ、鍋もない。フランネルの腹帯も、医療行李も、馬の蹄鉄も足枷もないのだ。一人の看護兵もおらず、また一人の兵站担当者もいなかった。最近になって、銃撃戦に欠くことができない小銃の予備品が三万挺も紛失しているのに気づき、そのために一人の士官がパリへ派遣され、かろうじて何とか五千挺を工面して持ち帰ったと判明したばかりだった。

 というような状態でして、しかもフェリックス・ドゥエ将軍には、味方の他の軍団がどうしているのか、敵はどこにいるのか、さっぱりもってなんの情報も、入ってはきませんでした。これはなにも、この軍団に限ったことではありませんで、二百キロを超える国境線に散在した20万人のフランス軍団の連絡は、まったくもって上手くいってはいなかったのです。
 これもまた、どこもがそうだったのですが、なにもかもが足らず、予定の人数もそろわないベルフォールで、無為に二週間の時が流れます。
 そして、8月3日に突然、前日のザールブリュッケンの勝利が熱狂的に伝えられ、二日後、ウィサンブールの部隊がプロシャ軍のふいうちをくらって全滅との知らせ。
 
 地図を見ていただければわかるのですが、ベルフォールの東方、アルザスとバーデン大公国(南ドイツ連邦国でプロシャと同盟)の国境は、ほぼライン川の流れと一致します。この国境にそって、フランス・アルザス側の大きい都市はミュルーズで、バーデン大公国側はフライブルク(関係ないですが松山の姉妹都市です)。
 郡長から急報があり、プロシャ軍がライン川を渡ってきて、マルコルスハイムに向かっている、とのこと。
 ジャンとモーリスが属するベルフォール軍は、あわててミュルーズへ張り出すことになり、ろくに食料の準備もなく強行軍です。
 ようやっとたどりつき、ミュルーズから2キロの郊外で野営し、さあ戦うぞ!と意気込んでいましたところが、今度はまた突然、来た道をベルフォールへ退却。
 フランス軍の敗報が次々に伝わってくる中、マルコルスハイムとは別のプロシャ軍の部隊が、ミュルーズの南方、フニンゲン(エフリンゲン=キルヒェン)でライン川を越えて、アルトキルシュへ向かっているとの知らせがあり、このままではベルフォールへの退路を断たれて孤立してしまう、という不安から、一発も弾を撃つことなくの退却となったわけでした。

 パニックに陥ったのは、この地方の住人です。
 自分たちを見捨てて、フランス軍が引き揚げていくのです。一発の弾も撃つことなく。
 土地に愛着を持つ農民は、逃げるわけにもいかず、踏みとどまっていました。
 虚ろな目で、退却する兵士たちを見つめる農民のそばに、まだ若いその妻がいて、その腕に一人、そのスカートにすがる一人の子供とともに、泣いていました。
 しかし、背が高くてやせたその家の祖母は、怒っていました。
「卑怯者! ライン河はそっちじゃないぞ……ライン河は向こうの方だ。卑怯者、卑怯者め!」
 老婆の罵声に、自らも農民であるジャンは、目に大粒の涙を浮かべます。
 
 一見、水と油のようなジャンとモーリスは、負け戦の中で無二の親友となって、衝撃の結末を迎えることになります。
 
 えーと、話が正名くんまで行き着きませんでしたが、正名くんもモンブラン伯爵も、ジャンとモーリスと同時代のパリで、生きていたんです。
 次回に続きます。

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普仏戦争と前田正名 Vol4

2012年01月10日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol3の続きです。

 普仏戦争、パリ包囲戦におきます前田正名。
 正名くんは実際にその経験をしたわけでして、私なども、さまざまに想像してみるわけなのですけれども。

巴里の侍 (ダ・ヴィンチブックス)
月島総記
メディアファクトリー


 この本への文句ならば、最初からもう、山のようにあります。
 まず、いったい坂本龍馬がフ・レ・ン・チのなにを知っているというの?????、です。
 「エゲレスとは仲の悪い国じゃがの」「フレンチの屋台骨を支えるんは、軍の力、農の力、そして商と工の力じゃ。何にも負けぬ軍とそれを支える農民。盛んに貿易をして世界中から財を集め、それを元手に物を造る。豊かになるのはまあ道理じゃの」なんぞと、えらそーに正名くんに語ったことになったりしているんですが、もう、なんといいますか。

 第二帝政期のフランスはイギリスとは仲がいいんです。イギリスでの亡命生活が長かったナポレオン三世が、ちょっといきすぎなくらいの親イギリス政策をとっていたんです。クリミア戦争の出兵など、その典型でしょう。
 広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、フランスは、イギリスとの共同作戦で極東にまで来てペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦をくりひろげ、函館で傷病兵を休ませて、五稜郭ができるきっかけを作っております。
 太平天国の乱でもフランスは、英国といっしょになって鎮定軍を組織し、そのときにフランス軍を指揮しましたパリカオ将軍が、普仏戦争の陸相、次いで戦時内閣の首班になっていたりします。

 農の力はさておき、軍の力も商と工の力もイギリスの方がはるかに上です。「盛んに貿易をして世界中から財を集め、それを元手に物を造る」って、それはイギリスのことであって、フランスではないですから。
 これまでさんざん書いてまいりましたが、幕末、日本が開港しました当初、ヨーロッパで蚕の病気が流行り、さっぱりと生糸の生産ができなくなります。絹織物産業の盛んなフランスでは非常に困り、中国、次いで日本から生糸を輸入するわけなのですが、極東からヨーロッパへ生糸を運んで売るのはイギリス商人でして、まずはイギリスに荷揚げされ、それからフランスに輸出されていたんです。そういうルートがすでに確立してしまっていました。
 これをなんとか打破しようとしましたのが、フランスの駐日公使レオン・ロッシュで、知人で銀行家のフリューリ・エラールを抱き込み、日仏独占生糸交易をもくろみ、在日イギリス商人たちの多大な反発を買うわけなんですけれども、これはいわば、ロッシュ個人がもくろんだことでして、フランスが国として、イギリスと仲が悪かったわけでは、決してありません。
 前々回にも書きましたが、フランスがイギリスの上をいっておりましたのは、旺盛な消費意欲です。

 いや、ですね。
 こんなにものを知らない龍馬にフ・レ・ン・チのことを聞きませんでも、慶応2年当時の長崎には、正名くんと同年代の薩摩人でパリ帰りの町田清藏くんがいるんです!!!巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2参照)
 長崎に留学します前の正名くんは、門閥のおぼっちゃんである清藏くんのヨーロッパ密航留学が、うらやましくってうらやましくってたまらなかったわけなのですから、帰国しました清藏くんが、薩摩藩長崎留守居役の汾陽(かわみなみ)から、「ここの老人仲間におられてはご窮屈であるから、書生のところにおいでなさい」といわれて、自分たち長崎留学生のもとに来たのを幸い、清藏くんの話に、目を丸くして聞き入ったにちがいありません。あるいは、清藏くんを丸山遊郭に誘って費用を払わせた書生って、正名くんだったりしないともかぎりませんしい(笑)。
 なんといいましても清蔵くんは、「私が仏国留学中、モンブラン伯の御妹子が男爵家に御婚儀が調ひました時、あたかもその時はゼルマン(プロイセン)とオーストリヤとの戦争中でありましたから、男爵家の観戦御旅行に随従しましたが、私もまだ16歳の時で、かつまた戦ということは、前九年後三年の絵本で見たばかりで、実物の鉄砲戦は生まれて始めて見る事で、それはそれは恐ろしきや面白いようでした」ということでして、起こったばかりの普墺戦争の見学までしてきているのですから、その話がおもしろくないはずがありません。

 えー、言い始めるときりがないわけですが、普仏戦争とパリの薩摩人 Vol1で最初にふれましたように、どうもこの小説は、下の司馬さんのエッセイ集に収録されています「普仏戦争」に着想を得て、明後日な方向に膨らましてみただけのようです。

余話として (文春文庫 し 1-38)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 「龍馬の弟子がフランス市民戦士となった???」「美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子」を続けて読んでいただければわかるのですが、司馬さんにとっては、エッセイも説話です。
 
 それで、です。
 題名が「巴里の侍」というくらいでして、おおざっぱに言ってこの小説は、正名くんを主人公に「普仏戦争とパリコミューンに参加して戦って、日本の侍としての誇りを取り戻し、コンプレックスを解消する!」というような、荒唐無稽な筋立てなんですが、普仏戦争とパリコミューンって、侍の誇りとは水と油ですし、だ・か・ら、いつの時代のどこの話???と聞きたくなるくらい、わけのわからないことになっています。

 なにがいやだって、です。戦う話なんですから、せめて戦争のおおざっぱな、一般的な事実関係くらい正確に書いてもらいたかったんですけど、下の本を参考書に挙げながら、かなりの曲解をしていませんか?と、首をかしげたくなるんです。

新装版 パリ燃ゆ I
大佛 次郎
朝日新聞社


 いや、ですね。「パリ燃ゆ」はずいぶん昔に書かれたものですし、パリ・コミューンの位置づけなどについては、ソ連の崩壊以降、かなりちがった見方がされるようになってきてはいるんですけれども、そういった解釈の問題はさておき、大佛次郎氏は膨大な資料を駆使されていて、事実関係が大きくちがっていたりはしないんですけれども。

 最初に、普仏戦争開戦決定の日のパリです。
 このときのパリの民衆の大騒動は、ものすごく有名な話だと私は思っていたんですが、ちがうんでしょうか。
 大佛次郎氏が書いていないはずはない、と思いましたら、やっぱり、書かれてはいたんです。

「ベルリンへ!」
「ベルリンへ!」
 この声が不安を圧倒し去った。戦争には、いつものことだ。そのことしか見えなくなる。軍歌が危惧を打消し、また、その目的の為に一層声を高らかに歌われる。
 

 軍歌といいますのは、ラ・マルセイエーズです。
 ラ・マルセイエーズは革命歌でもありますから、王制や帝政期には、国歌ではなかったんです。しかし、対外戦争において、ナショナリズムを鼓舞する歌でもあるわけでして、戦争になると歌われるんです。

ナナ (新潮文庫)
ゾラ
新潮社


 前回もご紹介しましたエミール・ゾラの「ナナ」なんですが、この小説のラストシーンが開戦の日のパリなんです。
 私が読んだのは、確か高校生のころ。感じやすい年ごろだったせいでしょうか、グランドホテルの一室で、若くして天然痘で死んでいきますナナの無惨な姿と、窓の外の「ベルリンへ! ベルリンへ!」という群衆の熱狂の対比に圧倒され、ずっと記憶に残り続けました。
 ゾラは当時、政治ジャーナリストとしてパリにいて、実際にこの騒ぎを体験して、小説の中に描き残したんです。
 以下、引用です。

 その日、議会は戦争を可決したのだ。無数の群衆が街という街から出て来て、歩道に流れ、車道にまで溢れていた。
 
 ー見てごらんよ、ほら、見てごらんよ! 大変な人だわ。
 夜がいっぱいに拡がり、遠くのガス燈が一つ一つ灯っていた。だが、窓という窓には、物見高い人の顔が見分けられ、一方、並木の下には、人の波が刻々に膨れ上がって、マドレーヌ教会からバスティーユの監獄にかけて、巨大な流れとなって進んでいた。馬車ものろのろとしか進めなかった。同じ情熱のもとにひとつに塊まって、足を踏み鳴らし、熱狂したい欲求から集まってきた、まだ物も言わずにぎっしり詰まっていた群衆から、どよめきが湧き起こってきた。


 群衆は相変らず増えていった。店屋の光に照らされ、ガス燈の揺らめく灯りの幕の下には、帽子を運んでゆく両側の舗道の上の、二つの流れがはっきり見えた。この頃になると、熱狂が次から次へと伝わり、人々は作業服の一団のあとにくっついてゆき、絶え間ない人波が車道を掃いていった。あらゆる胸という胸から叫び声が迸り出て、断続して執拗に繰返した。
 ーベルリンへ! ベルリンへ! ベルリンへ!


 グランドホテルといいますのは、現在のインターコンチネンタル・パリ・ルグランのことでして、オペラ・ガルニエのすぐそばですから、グラン・プルヴァールと呼ばれましたパリ一番の繁華街。ティボリ街から、簡単に歩いて行ける距離です。

 司馬さんが、もしも開戦の日の正名くんを描いたとしましたら、かならずやゾラのこの名場面を引用し、ナショナリズムについて語ったりされたんだと思うのですが、「巴里の侍」の月島総記氏は、ある日正名くんが平穏なパリの街を歩いてティボリ街の公使館に着くと、モンブランが狼狽してこう言った、というような、唖然とするしかない珍場面に仕立ててくれているんです。

「今朝未明。我がフランスと隣国プロイセンが、交戦状態に入った」
「プロイセンとー?」
「そう、戦争だ」

 い、い、い、いや、いくらなんでも、パリの住人が、開戦の日に至って「プロイセンとー?」なんぞと暢気に聞くなんぞ、間抜けの馬鹿以外の何者でもないでしょ。

 えー、以降、書かなければいいのに、普仏戦争の一般的な描写が続きまして、これがまた、嘘ばかり。以下に、列挙してみます。

 ー瞬く間に時は過ぎ、それから約二週間後。八月二日の午後一時。
 所はパリの東、およそ五百km離れた平野地帯。
 広大な緑の草原の中に、なだらかな小高い丘がある。
 フランス=プロイセン国境傍の『ウィサンプールの丘』。そこには見渡す限りフランス軍兵士が並んでいた。
 恐らく今日、プロイセン軍との最初の衝突が起こると予想されている。

 い、い、い、いや、8月2日の最初の衝突は、アルザス国境のウィサンブールじゃなくって、ロレーヌ国境に近いプロイセン領のザールブリュッケンだから。ウィサンブールはその二日後。

 皇帝は開戦が決まってからしばらく、国境から遠く離れた後方に待機し、動こうとはしなかった。軍の指揮を行うよりも、外交戦術の方を優先していたのである。
 しかしその交渉の目処が立たぬまま、プロイセン軍が侵攻してきたのを聞き、ようやく三日前に重い腰を上げ、大本営入りしたのだった。

 い、い、い、いや、いくらナポレオン三世が軍事音痴でも、そこまでの間抜けじゃないから。ザールブリュッケン攻撃は皇帝の命令だし、小競り合いながら勝利してドイツ軍が撤退した直後、皇帝は皇太子を連れて視察と激励に入っているの。

 フランス軍の主力砲『四斤山砲』ー長さ九十六㎝の砲身に大きな車輪をつけた、運用の容易な移動砲台。爆発を伴う砲弾を使用し、火力にも優れたその砲が、十五門用意されていた。
 兵数もさることながら、装備も極めて充実している。

 あーた、フランス軍の前装四斤山砲が、プロシャ軍の後装クルップ砲に負けていた、というのは有名な話でしょうが。

 フランス軍に決定的に欠けていたものは、兵力でもなければ装備でもない。
 ただ一つ、士気であった。

 フランス軍の方が兵数もはるかに少ないし、輸送の不手際から装備もそろわず、食い物さえろくに配給されなかったりする状態だったりしたんだけどねえ。兵士の士気だけは旺盛だったのに、一発も撃たないうちに退却させられたり、右往左往させられたのでは、士気も萎えるでしょうよ。

 架空戦記じゃあるまいし、なんでここまで、一般的な記述で嘘を書いてしまえるんでしょうか。嘘といいますかなんといいますか、極めつけはこれです。
 
 当時のプロイセンはオーストリアとの戦いを制し、勢力を急速に拡大していた。
 その拡大した勢力地図に、フランス領が隣接していた。プロイセンにとって大国フランスは、自国の躍進を阻む目の上のたんこぶである。

 え、え、え、えーと。ラインラントは1815年からプロシャ領で、プロシャは普墺戦争の結果でフランスと国境を接したわけではないんだけどねえ。そして、普墺戦争も普仏戦争も、プロシャはドイツ統一のためにやったわけだし。

 この時期のフランスの対外戦争と外交は、プロシャがドイツ統一を志していたことと、サルデーニャがイタリア統一を果たそうとしていたことをぬきにしては、まったくもって語りようもないわけなのですが、普仏戦争をあつかいながら、この小説ではまったくの無視。
 戦争がただひたすら、個人的な勇気を披露する場でしかないのならば、実在の戦争の名をおっかぶせなくとも、架空のファンタジーでやってくださればよさそうなものなのですが。
 
 ブログの方は、実際の普仏戦争と正名くんを追って、次回に続きます。

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普仏戦争と前田正名 Vol3

2012年01月08日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol2の続きです。
 
 前回書きました名倉予何人と三宅復一について、なんですが、モンブラン伯の明治維新に、日記の孫引きをしております。2006年初頭の記事で、ろくにモンブラン伯爵のことがわかっていなかったころのものなのですが、大きな訂正はありません。

 ただ、ちょっと、ですね。クリスチャン・ポラック氏が、「絹と光―知られざる日仏交流一〇〇年の歴史」に五代友厚をはじめとする薩摩視察団を「サンジェルマン・デプレの自邸に迎え入れる」と書いておられる件、いったいなにを資料とされているのか、いまもってわかりませんで、気にかかっています。

 普仏戦争とパリの薩摩人 Vol1に書きましたが、新納竹之助(武之助)少年が通っておりましたオルチュス塾は、パリ左岸サンジェルマン・デプレにあり、としますと、五代がパリを訪れていた当時、ジェラールド・ケンがいて、後に町田清蔵くんが住むことになりました下宿は、やはりサンジェルマン・デプレであろうかと推測されるわけなのですが、一方で、「優雅な生活―“トゥ=パリ”、パリ社交集団の成立 1815‐48」によりますと、セーヌ川をはさんで、テュイルリー宮殿とむかいあっておりましたフォブール・サン=ジェルマン地区、第二帝政期にオルチュス塾があった地域なんですけれども、その地区は、ルイ一五世時代に貴族が屋敷をかまえていたんだそうなんですね。
 大革命期には政府に没収されたりしたのですが、その後返還されたものも多く、復古王制期になりますと、新興貴族の中にもこの古いお屋敷町を好む者が増えて、品のいい貴族街になったんだそうなんです。

 モンブラン邸のありますショセ=ダンタン地区は、いわば成り上がりの街です。
 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編の後半に書いておりますが、モンブラン家が伯爵となったのは1841年のことで、7月王制下、「中産階級のごきげんとりをする俗悪なルイ・フィリップ王」によって、です。
 それより以前、おそらくはモンブランの父親がインゲルムンステル男爵となったころに、新しく開発されていましたヨーロッパ街区の高級住宅地を買って邸宅としたのではないか、と思われるのですが、例えば叔母さんの家とか、母親の持ち家とか、サンジェルマン・デプレにも屋敷があったとして、おかしくないような気がしないでもありません。

 ところで、ショセ=ダンタン通りは一時、モンブラン通りという名だったことがあります。
 モンブラン(山です)を領地としておりましたサルデーニャ王国(ピエモンテ王国とも)をフランスが占領し、モンブランがフランス領となりました記念に、です。しかし、1815年、ナポレオン失脚後のウィーン会議で、サルデーニャは旧領を回復し、モンブランもフランス領ではなくなりましたので、再びショセ=ダンタン通りとなりました。
 いったいなぜモンブラン伯爵家なのか、あるいはモンブラン家はサルデーニャ王国、サヴォイアの出身だったりしないのかなあ、と憶測してみたり、です。

黒衣の女ベルト・モリゾ―1841-95
ドミニク・ボナ
藤原書店


 ベルト・モリゾは、1874年の印象派の旗挙げに、ただ一人の女生として加わっていました画家です。
 ブルジョワのお嬢さんですが、マネはモデルとしてベルトを気に入り、この表紙の絵は、マネの筆になります。
 それはさておき、上の本から引用です。

 ティボリ公園の跡地に作られたヨーロッパ広場の界隈には個性がある。サン=ラザール駅に近いことから、画家たちは容易に田舎や、アルジャントゥーユやオンフルール、あるいはポントワーズに行くことができ、快適な季節には戸外で喜んで絵筆を握る。界隈は大きな建物と、小市民階級がとりわけ好む小庭のある家々が奇妙に混じりあい、パティニョル地区のように、裕福な雰囲気の中に「労働者階級の」様子をとどめている。年金生活者や小市民階級、商人たちが暮らし、豪奢な邸宅には妾が囲われている。パリの中心にあるという利点を提供しながら、家賃は左岸や、十七区のもっと貴族的でもっとスノッブな地区、つまりマルセル・プルーストの十七区、クールセル大通りやテルヌ大通りより安い。生涯のある時期に、ここにアトリエを持つことになる、マネやバジール、ヨンキント、モネ、シスレー、ルノワール、ホイッスラー、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌたちにとって、またさほど遠くないモンセー街に住んでいるゾラにとって、また、パティニョル街八十九番地、次にモスクワ街二十九番地、さらにローマ街八十九番地にひどく質素に暮らすことになるマラルメにとって、パティニョル地区は望外の幸せだ。十九世紀末に非常に多くの芸術家たちが集まる。やがて旗印と集合地点になるだろう。印象派という用語のもとに結集する前に、印象派の画家たちの大部分が「パティニョル派」、つまりマネの友人たちのグループに属していたといえるだろう。

 「十七区のもっと貴族的でもっとスノッブな地区」といいますのは、第二帝政期のオスマン大改造で開発されました、モンソー公園周辺の高級住宅分譲地です。
 引用文中にも名前が出てきますが、ボードレールに続き、マネを擁護しました文筆家、エミール・ゾラは、第二帝政期を舞台にして20巻におよびます小説、ルーゴン=マッカール叢書を書いております。ゾラはもともとジャーナリストでして、綿密な取材に基づき、風俗を描写してくれていますので、当時のパリを知るのにとても役立ちます。
 一番有名な9巻目の「ナナ」 (新潮文庫)については、喜歌劇が結ぶ東西に詳しく書いておりますが、パリ万博が始まった1867年4月から、普仏戦争開戦の1870年7月までのパリが舞台です。
 この主人公の高級娼婦・ナナの豪壮で最新の流行に彩られた邸宅が、モンソー地区にあったりします。



 マネが描きましたナナです。
 背景に日本画みたいな絵がありますよね。実際、原作にも、ナナの家の調度品として「気取った日本の屏風」があげられていまして、日本の美術工芸品は、当時の最新流行の調度品だった、と考えてよさそうです。
 マネは、作者ゾラの肖像も描いていますが、その背景には、あきらかに日本の屏風と浮世絵があります。




 この肖像画は、1867年から1868年に描かれていまして、これは、1867年のパリ万博に日本が出品したものを購入したのでは? とも思えるのです。
 リーズデイル卿とジャパニズム vol10 オックスフォードに書いておりますが、1862年の第二回ロンドン万博には、駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックの手配で日本の美術工芸品が出品され、日本の文久遣欧使節団も会場に姿を見せておりました。
 この使節団には、夢の国の「シルクと幕末」に出てきます本間郡兵衛も通訳として加わっておりましたし、彼は北斎の弟子でした。
 また、奇書生ロニーはフリーメーソンだった!などに書いておりますが、使節団はフランスをも訪れていて、レオン・ド・ロニーが接待役を務め、関心を呼んでいますし、すでにこのころのパリには、日本の美術工芸品を専門に扱う店もあって、美術家たちには、絵草紙や浮世絵が非常な人気だったといわれます。

 
ジャポニスム入門
クリエーター情報なし
思文閣出版


 上の本によれば、「ジャポニスムという見地からマネが興味深いのは、日本美術からの造形的な刺激を自らの問題意識にそった形で作品の中に生かしているからである」ということでして、また、マネ自身は加わりませんでしたけれども、1874年にモネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾなど、マネの友人たちが開きました第一回印象派展を評して、カスタニャリは「印象派の画家たちは絵画の日本人たちと呼ばれている」と伝えているのだそうです。
 マネ、ゾラと親しく、印象派の擁護者だったテオドール・デュレもまた、「印象派の成り立ちを説明するにあたって日本美術からの影響を明確に指摘し、特に日本の絵冊子に見られる陽光の輝きに満ちた大胆で斬新な彩色からの刺激を協調した」と言います。

 マネは1864年から二年間ほどは、バティニョール大通り34蕃地に住んでいましたが、1866年から死ぬまで、サン・ペテルスブール街にアトリエと住居をかまえていました。このうちのサン・ペテルスブール街46蕃地のアパルトマンは、ベルン街とまじわるところにありまして、サン・ラザール駅のごくそば。モンブラン伯爵のティボリ街の邸宅からも、ほんの300メートルあまりの距離、といったところです。



 上のマネの絵は、マネが普仏戦争後の1873年(明治6年)に描いたものですが、「鉄道」という題名で、鉄格子の向こう、左手の建物がサン・ペテルスブール街46蕃地のマネのアパルトマン、右手にはさだかではありませんがヨーロッパ橋が描かれ、白い煙は機関車のもの。つまりは、サンラザール駅なのです。

 これまでに、ずっと書いてまいりましたが、1863年ころから、ティボリ街のモンブラン邸には、日本人ジェラールド・ケンが出入りしていまして、幕府関係の使節団員も姿を現し、慶応元年には新納久脩、五代友厚の薩摩使節団、次いで薩摩密航留学生たち、薩摩パリ万博要員と、数多くの日本人の姿が見られたはずなのです。
 同じ界隈にいましたマネやゾラが、果たしてそれを知らないでいたのでしょうか。

 ただ、ここで考えておかなければならないことは、この当時、ゾラは小説を書き始めたばかりの無名のジャーナリストですし、マネはスキャンダラスなばかりで一つも絵が売れない新米画家ですし、印象派は旗挙げさえしていなかったんです。
 彼らの本格的なデビューは、普仏戦争があって第二帝政が倒れ、第三共和制となってからのことなのです。
 モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌなど、現在では知らない者がないほどの印象派の巨匠ですが、当時は、均整のとれた古典美を無視する変な趣味の無名の若者たちでした。
 当時、パリでもっとも有名で売れていた画家といえば、ヨーロッパの王侯貴族御用達の肖像画家、フランツ・ヴィンターハルターじゃなかったでしょうか。wikiにページが立ち上がっていますね(wikiフランツ・ヴィンターハルター)。
 新古典なのか新ロココなのか、マネの絵とくらべてみてください。ものすごく典雅です。

 

 ヴィンターハルターによる、ウジェニー皇后(ナポレオン三世妃)と侍女たちです。
 描かれたのは1855年(安政二年)ですから、第二帝政の前期、篤姫が徳川家定に嫁ぐ一年前です。正名くんは、まだわずか5歳。

 日本の浮世絵は、マネとその友人たち、後の印象派にとっては大胆で斬新だったわけでして、既成のアカデミックな画壇からしますと、得体の知れない極東の島国の美術などというものは、けっこうそれだけで、スキャンダラスな要素を持ったものでした。
 
 モンブラン伯爵は、どういう立ち位置にいたのでしょうか。
 私がモンブランに興味を持ちました最大の理由は、モンブラン伯の日本観に書いておりますように、柔軟で自由なその日本観です。
 男爵な上に伯爵なお方ですが、双方、父親の代からのことでして、レオン・ド・ロニーに同じく、日本に深く興味を持つといいますことは、もうそれだけで、当時の欧州では、革新的な変わり者と見られる存在、だったのではないでしょうか。

 とすれば、マネとその友人たち、後の印象派の人々とも、けっこう親和性があったようにも思います。

 次回、ようやっとお話は、普仏戦争にまでもってゆけそうです。

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普仏戦争と前田正名 Vol2

2012年01月07日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol1の続き、です。
 えーと、ですね。第二帝政普仏戦争のお話は、カテゴリー 日仏関係の過去記事に、けっこう出てきますが、古い記事ですねえ。読み返していて、いや、けっこう、昔は短いながらにいちいち解説していたりするんだなあ、と感心。
 もしかしまして近頃は、すさまじいオタク記事になっていたりするんですかねえ。

 カテゴリー最初の『オペラ座の怪人』と第二帝政を書いたのが2005年です。このときにはモンブラン伯爵のこともよくわかっていなかったりしたんですが、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編で書きましたように、モンブラン伯爵が維新に果たした役割を正当に評価する学術論文も現れてきたりしている昨今です。

 『オペラ座の怪人』と第二帝政の後半に、パリのオスマン大改造のことを書いておりますが、これは、それほど訂正の必要はなさそうに思います。
 ただ、つけくわえますと、パリの再開発、経済復興は、すでに王制復古期にはじまっていた、ということでしょうか。

優雅な生活―“トゥ=パリ”、パリ社交集団の成立 1815‐48
アンヌ マルタン=フュジエ
新評論


 上の本によれば、ショセ=ダンタン地区全体、高級住宅街として開発がはじまったのが王制復古期からですし、「近代都市パリの誕生---鉄道・メトロ時代の熱狂 」(河出ブックス)によりますと、サン・ラザール駅に侵食されましたヨーロッパ街区は、ヨーロッパ全土の制覇をめざしましたナポレオン帝政が倒れた後、ヨーロッパの調和的発展を願って、街路にヨーロッパ各地の名前がつけられたんだそうなんです。
 
まあ、あれです。ナポレオンが外征によってフランスの栄光をどのように高めましょうとも、軍事的緊張の中での経済開発は難しく、王制復古により、少なくとも対外的な平和は保証されたわけでして、内需拡大へ指向が向いた、ということなのでしょう。

 しかし、ですね。一度、徹底的に踏みにじられました権威が、元のままに返るということはありえないんですね。
 フランス革命は、王政とともに社会を律していました宗教(カトリック)をも全否定する道をたどり、新しい社会創出を試みて、革命前の伝統社会は「アンシャン・レジーム(旧体制)」と呼ばれるようになったのですが、しかし伝統の存在は存在でして、無いものにしてしまうことには無理があり、革命後の社会もその上に築くしかなく、非常に不安定なものとならざるをえなかったわけです。
 ここらへんのことは、フランソワ・フュレの「アンシャン・レジームと革命」(「記憶の場―フランス国民意識の文化=社会史〈第1巻〉対立」収録)がわかりやすく解説してくれていますが、フュレが指標としていますのが、下の本です。

「フランス二月革命の日々―トクヴィル回想録」 (岩波文庫)
アレクシス・ド・トクヴィル
岩波書店


 アレクシス・ド・トクヴィルは1805年、ナポレオン帝政のはじまりの時期に生まれた人でして、直接には革命を知りません。しかし、貴族の家の三男に生まれ、両親は処刑されかかって、母親はそのときの恐怖から精神に異常をきたしていた、といわれます。
 両親も兄も親戚も、当然、ブルボン正統王朝派で、王政復古支持者でした。
 しかし、アンシャン・レジームを直接知らないで政治家になりましたトクヴィルにとり、ブルボン正統王朝は尊敬に値し、感情の上からは慕わしいものであったのですが、一方で、このままでは生まれたときから吸っていた自由の空気がなくなってしまうのではないか、という危惧も抱いていました。

 あまりにも旧式な復古王政には無理が多く、打倒され、ブルジョワに押されたオルレアン家のルイ・フィリップが即位し、7月王制がはじまります。
 25歳のトクヴィルは、親族に「裏切り者」と言われながら、ルイ・フィリップ王に忠誠の宣誓をします。中産階級(ブルジョワ)を中心に上下がうまく融合した、イギリスのような安定した立憲王政に移行できるのではないかという、期待を持ってのことでした。

 どこかで7月王制のことを書いた、と思いましたら、「リーズデイル卿とジャパニズム vol8 赤毛のいとこ」でした。
 バーティ・ミットフォードの父親ヘンリー・レベリーは、1804年生まれ、トクヴィルとほぼ同年代のイギリス人です。あるいは、知り合いであったかもしれません。以下、再録。

  幼いバーティは、チェイルリ宮殿前の広場で、お供はいつも一人だけで、地味な灰色のコートを着て散歩しているルイ・フィリップ王を見て、畏敬の念を抱いたのだそうですが、父ヘンリー・レベリーのもとに集まってくるフランスの友人たちは、それに賛成しませんでした。
 どうやらヘンリー・レベリーの友人は、正統王制派ばかりだったようでして、バーティが父の友人たちから聞いたのは、「中産階級のごきげんとりをする俗悪なルイ・フィリップ王」への嫌悪、でした。


 そもそもフランス革命以前から、フランスは非常に中央集権化が進んでおりまして、工業化を待つまでもなく、パリに人口が集中する傾向があったんですが、一応政情が落ち着きました王制復古期から7月王制期にかけまして、遅ればせながら産業革命が始まり、鉄道も敷かれますし、農村からパリへ、どっと人口が流れ込みます。首都に流れこめばともかく食べられますし、僅かながら、一攫千金の夢もあります。
 しかし、ブルジョワ中心の政治は金権に陥って腐敗し、貧富の差がはげしくなって、2月革命が起こります。
 その渦中に、43歳になったトクヴィルがいました。以下、「フランス二月革命の日々」から引用です。

 産業革命は、三十年このかた、パリをフランスで第一の工業都市にしたのであり、その市壁の内部に、労働者という全く新しい民衆を吸引した。それに加え城壁建設の工事があって、さしあたって仕事のない農民がパリに集まってきた。物質的な享楽への熱望が、政府の刺戟のもとで、次第にこれらの大衆をかり立てるようになり、ねたみに由来する民主主義的な不満が、いつのまにかこれら大衆に浸透していった。経済と政治に関する諸理論がそこに突破口をみいだして影響を与えはじめ、人びとの貧しさは神の摂理によるものではなく、法律によってつくられたものであること、そして貧困は、社会の基礎を変えることによってなくすことができることを、大衆に納得させようとしていた。

 カール・マルクスは、トクヴィルより13歳若いプロシヤ人でしたが、7月王政下のパリで活動をはじめ、ベルギーへ移って、1848年にはエンゲルスとともに「共産党宣言」を書いています。
 フランス革命は、労働者が主体となって起こったものではありません。過激なジャコバン派にしましたところで、中産階級(ブルジョワ)でした。
 1848年の2月革命は、世界で初めて起こった労働者主体の革命でした。産業革命により、都市部には多数の労働者が生まれ、従来の政治では、おさまりがつかなくなろうとしておりました。

 ルイ・フィリップは退位し、第二共和政が始まります。
 早々と普通選挙(ただし男子のみ)を採用しましたことが、この体制の命取りでした。地方の農民は保守的でして、パリを中心とする都会の労働者は、まだまだ少数派です。2月革命直後、パリの失業者慰撫のために臨時政府が設けました国立作業場は、普通選挙が終わり体制が確立すると同時に閉鎖されるのですが、これを不満として起こった6月暴動は、多数の信任をとりつけておりました共和国政府によって、武力鎮圧されます。

 そして、同年の12月、大統領選挙が行われるのですが、ナポレオンの甥、ルイ=ナポレオンが、圧倒的な多数票を集めて当選します。
 なにしろ、普通選挙が始まったばかりです。
 フランスの栄光を対外的に輝かせたナポレオンの名は、フランス人ならば誰でも知っていて、しかも農村の記憶では、ナポレオンの時代はそう悪いものではなく、いわばまあ、ナポレオンの名前だけで、大統領になったようなものなのでしょう。

 フランスの軍艦マーチに書いておりますが、ルイ=ナポレオン、クーデター後のナポレオン3世に関しましては、下の本が詳しく、参考にさせていただいております。

「怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史 」(講談社学術文庫)
鹿島 茂
講談社


 えーと、ナポレオン三世はトクヴィルより3つ年下、ほぼ同年代です。ナポレオンの没落とともに、ナポレオンの親族は亡命を余儀なくされていまして、少年期からフランスを離れておりました。
 つまり、ルイ=フィリップが退位し、ようやく帰国がかなって大統領になったとはいいましても、フランス国内にさっぱり、政治的基盤がありませんでした。あったのは、農民を中心とします大衆の圧倒的な支持ばかり、です。
 やがて、退役軍人クラブを立ち上げ、軍隊と警察を掌握し、協力者を得て、クーデター。成り行き上、血まみれクーデターとなってしまいましたことから、マルクスやら、フランスの国民的作家のヴィクトル・ユゴーやらは、大統領から皇帝になりましたナポレオン三世と、成立した第二帝政を、もうくそみそにけなし続けます。
 しかし、ティエリー ・ランツの「ナポレオン三世」 (文庫クセジュ)によれば、当時の暴動鎮圧に流血はつきもので、他の騒動と比べて犠牲者の数が多かったわけではない、とのことなんです。

 またクーデターの後、きっちりナポレオン三世は国民投票で大衆の支持を取りつけておりまして、第二帝政を独裁政権と呼ぶことには無理があります。
 マルクスによりますと、ナポレオン三世を支持しましたのはルンペンプロレタリアートだそうでして、いやはや、ナポレオン三世その人ではなく、支持しました大衆に投げつけた罵声なんですから、すさまじいですね。

 ところで鹿島茂氏は、ナポレオン三世には母性本能をくすぐるようなところがあって、女にもてたとしておられますが、母性本能の欠如しました凡人の私には、なにが魅力的なのやら、よくわかりません。
 なんだか、目つきがどんよりしておりますよねえ。
 伯父のナポレオンには似ても似つかない軍事音痴でして、実は母親の浮気の産物でナポレオンの家の血は引いていない、という噂もあったそうですが、三世の方の政治目標は貧困をなくす!でして、7月王政時よりも、はるかに大規模で徹底しましたオスマン大改造により、パリの街を近代化し、同時に景気を浮上させました。
 といいますか、地上げによります、あぶく銭やらなにやら、浮上させすぎましてバブル状態。

 豊かな文化は、旺盛な消費とともにあります。
 経済力、軍事力、外交力。それら、国力のすべてにおいて、当時、イギリスはフランスをはるかに引き離しておりましたが、消費文化という点にかけては、パリがロンドンを圧倒しておりました。
 社会の変化は、芸術におきましても新たなムーブメントを生み出し、ロンドンでもパリでも、古典的なアカデミズムを否定する人びとが現れるのですが、イギリスにおけるそれは象徴主義につながるラファエル前派であり、一方パリでは、世界の美術界をリードする印象派が、胎動し始めます。
 
 「近代絵画の創始者」 と呼ばれますエドゥアール・マネは、1832年生まれ。モンブラン伯爵より、一つだけ年上です。代々高級官吏を勤めてきたパリのブルジョワの名家の長男に生まれ、両親は息子に海軍士官への道を望んでいましたが、兵学校受験に失敗し、両親もあきらめて画家になりたいという息子の希望を受け入れます。
 なにしろ資産家のお坊ちゃんですから、別に絵が売れなくとも生活に困りはしないのですが、やはり両親の手前、アカデミー画壇から評価を受けたい気分はあったらしいのです。それがなぜか、超スキャンダラスな絵を描いてしまうのですね。
 1863年にサロン(官展)に出品しました『草上の昼食』です。下の本の表紙になっております絵です。実物はパリ、オルセー美術館蔵。

もっと知りたいマネ―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
高橋 明也
東京美術


 今となりましては、いったいなにがスキャンダラスなのやらよくわかりませんが、えーと、ですね。
 ヴィーナスの誕生とか、ギリシャ・ローマ神話など、歴史上のはるかな過去を題材に裸体を描きますことは、アカデミー画壇からも、りっぱに認められたことでした。
 しかし、あきらかな現代風俗で、「ブローニュの森なの?」と見えるほど身近に、生々しく裸体を描くことは御法度だったんです。
 そして、美術界も変わろうとしていました。上の本から引用です。

 じつは、この年、国立美術学校(エコール・デ・ボザール)にも大変革が起こっていた。1819年に設立されたこの美術学校では、いまだ旧弊な時代錯誤の教育が行われていたが、画家の登竜門だったローマ賞のコンクールから「歴史的風景画」のジャンルが廃止されたのである。

 写真の誕生により、記録する、という意味での絵画の役割は後退していました。
 そして、神話や歴史をあったことのように記録する絵画の役割も、消え去ろうとしていたのです。
 日常、身近にある一般的な風景や、隣に住んでいる人々。
 娼婦であろうが場末のカフェであろうが、そして煙を吐く超現代的な機関車であろうが、画家が面白いと思ったものはなんでも画材になる、という時代が、到来してきていました。

 1863年といいますと、文久3年。薩英戦争の年です。
 前田正名13歳、錦江湾に姿を現しましたイギリス軍艦に武者震いしていたころです。
 「モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2」に書いておりますが、文久3年のモンブラン伯爵の動向は、よくわかっていません。しかし翌元治元年、パリを訪れた横浜鎖港談判使節団の前に姿を現し、そのうちの名倉予何人と三宅復一は、まちがいなくティボリ街のモンブラン邸を訪れています。

 そして、そのモンブラン邸のごく近所に、エドゥアール・マネがアトリエをかまえていまして、サン・ラザール駅界隈は、印象派揺籃の地だったんです。
 次回へ続きます。

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普仏戦争と前田正名 Vol1

2012年01月03日 | 前田正名&白山伯

  一応、モンブラン伯の長崎憲法講義の続きでしょうか。これ以降、前田正名のことをまとめて書いたことは、なかったと思いますので。

 あけましておめでとうございます。
 昨年は年明けから体調をくずしていまして、確定申告が終わったらブログ再開、と思っていましたら大震災。その直後に、姪が東京の大学へ進学することになり、その手伝いで、放射能と電力不足の騒ぎの最中の東京へ。
 もともとが、けっこう時事好きの私です。頭の中がもう、すっかり政府への罵倒で渦巻き、熱くなりすぎましてブログも書けないありさま。ついでに禁煙をいたしましたところが、なにしろ私にとりましての書く作業は、ずっと喫煙と結びついてきておりまして、「文章を書くとタバコが吸いたくなるにきまっている」という脅迫観念から、書くことの方もやめてしまいました。
 半年を超えて、ようやくタバコを吸うことの幸せの記憶が少しは薄れてきたかなと。

 それはさておき、去年の11月から、時代劇専門チャンネルで、昔の大河ドラマ「獅子の時代」をやっておりまして、これ、モンブラン伯爵が登場する唯一の大河ドラマです。えー、1~5話がパリ万博でして、事実関係にはおかしなところもありながら、大筋で悪くはないですし、なかなかにおもしろいのですが、モンブランに関しては、ちょっと、ですね。もっと悪者に描いてもいいですから、印象に残る役者さんにお願いしたかったなあ、と。ただの小太りのおっさん、なんですわ。

 そして、さらに。暮れに下の本を読んだんです。

巴里の侍 (ダ・ヴィンチブックス)
月島総記
メディアファクトリー


 「美少年と香水は桐野のお友達」に書いておりますように、正名くんはどうやら桐野利秋のお友達です。
 桐野ファン大先輩の中村太郎さまが、「正名くんが主人公の小説が出た!」ということで、さっそく読まれましたところが、桐野は出てきませんし、ともかくつまらない、ということでして、「坂本龍馬と親しかった、という資料が、あるんですか?」とおっしゃるので、「いや、刀をもらったのは本当らしいですし、陸奥宗光と親しかったみたいですから、親しくないこともなかったんでしょうけど、司馬さんが書いてるほどではなかったと思いますよ」とお答えしますと、「司馬さんが書いているんですか?」。私は、「はい。エッセイですけど」と、ブログの過去記事「龍馬の弟子がフランス市民戦士となった???」「美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子」をご紹介いたしました。
 それにしても、話をお聞きするだけでつまらなそーですし、その時は読む気にならなかったんですが、宝塚でやるということを知りまして、「正名くんが宝塚??? これはちょっと読んでみなければ!!!」となったような次第です。

 それでー、なにがいやだって、愛がないんですっ!!! 正名くんへのというよりも、この時代に対するー、なんですが。時代物のハーレークイン・ロマンスなんかで、「えーと、なんでこの時代にしてるの? 単にびらびらの衣装着せたかっただけ???」みたいな、コスプレ指向のものがけっこうありますが、それと同じです。

 まっ、そういう大本の話は、順を追ってすることにしまして、細かなお話から始めます。 
 まず、この小説、モンブラン伯爵のパリでの住まいをリヴォリ街だと勘違いしているようなんですけれど、ティボリ街です。
 一見、どうでもいいことのようですが、後述しますように、このティボリ街界隈、かなりおもしろい場所なんです。

 って、パリの話に入る前に、正名くん洋行の状況を整理しておきますと。
 モンブラン伯の長崎憲法講義で書きましたように、正名くんの渡航費用はモンブランが出しています。鮫島尚信在欧外交書簡録に証拠の書簡が入っていまして、確かなことです。

 渡航の時期は、「ニッポン青春外交官―国際交渉から見た明治の国づくり 」(NHKブックス)によれば明治2年11月23日(1869年12月25日)でして、モンブラン伯とパリへ渡った乃木希典の従兄弟に書いておりますが、長州の御堀耕助(大田市之進)といっしょ、です。
 モンブラン、前田正名、御堀耕助の一行に先立ちまして、山県有朋と西郷従道が、パリへ行っています。
 
 国立公文書館のサイト、宰相列伝・山県有朋に「山県有朋露仏2国に差遣し地理形勢を視察せしむ(明治2年)」という書類がありまして、二人の通訳を中村宗見(博愛)が務めています。中村の任命時期から見まして、旅立ちは6月22日以降、のようですね。
 この山県、西郷の渡仏、詳しい資料がなくて困っているんですが、確か「青木周蔵自伝 」(東洋文庫 (168))に、山県と御堀が二人でプロシャに来た、みたいな記述がありましたし、中村博愛はモンブラン伯爵の世話でパリに留学していた薩摩藩留学生ですし、なんといいましても、このときのモンブラン伯爵は日本公務弁理職(日本総領事)ですし、パリのモンブラン邸はそのまま欧州日本総領事館ですし、一行が立ち寄っていないはずはありません。
 ただ、山県、西郷、御堀、そして中村博愛も、普仏戦争開戦直前に欧州を離れまして、確か船の中だかアメリカだかで、開戦の報を聞きました。

 なお、ですね。
 慶応2年の末に新納竹之助(武之助)少年が、慶応3年には岩下長十郎くんが、モンブランを頼って渡仏しておりまして(「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」 「岩下長十郎の死」参照)、ずっとパリで勉学に励んでいたわけです。この二人に、正名くんが日本からの便りを手渡しただろうことは、「セーヌ河畔、薩摩の貴公子はヴィオロンのため息を聞いた」に書いておりますように、十分に推測できることです。

 モンブランが日本へ行っております間、二人はおそらく、「巴里にさようなら、薩摩貴公子16歳の別れ vol2」の町田清蔵くんのように、とても家庭的な下宿に預かってもらっていたでしょう。あるいは、清蔵くんがいたところそのもの、だったかもしれません。

 で、その下宿の場所です。fhさまの「かっつんころころ☆倉庫」2007.03/03 [Sat] 備忘にもならない戯言3に出てまいりますが、「幕末・明治期の日仏交流 」(中国地方・四国地方篇1)に収録されております入江名簿(明治5年秋頃のものと推定されるパリの日本人留学生名簿)によりますと、新納武之助(竹之助)少年は、オルチュス氏塾で学んでおりまして、このオルチュス氏塾とはなにかと申しますと、リセで学ぶ前の進学塾のようなものです。これまたfhさまのところの2007.02/19 [Mon]にあるんですが、l'Institution Hortus(オルチュス塾)で検索をかけますと、住所は94 rue du Bac(バック通り94蕃地)、唯美派作家ユイスマンスが少年時代に寄宿していた塾だということがわかります。
 「ユイスマンス伝」、読んだのがずいぶん以前でして、記憶がちょっとあれなんですが、ユイスマンスは竹之助くんよりはるかに早く、1856年にオルチュス塾に入り、1862年には名門リセ・サン=ルイ(Lycée Saint-Louis)に進学しています。したがって、いっしょに受業を受けた、ということはありえなさそうなんですが、オルチュス塾の寄宿舎からサン=ルイに通っていまして、わずかながら、同じ敷地にいた時期があったようです。

 私といたしましては、竹之助くんがものすごく不味い食事を出した!といわれますオルチュスの寄宿舎にいたとは思えませんで、教師の家に下宿して塾に通ったのでは? と推測するのですが、やはりそれは、オルチュス塾のあるパリ左岸、サンジェルマン・デ・プレ界隈の学生街だったのではないでしょうか。

 さて、しかし。
 正名くんは一応、モンブラン伯爵の秘書です。
 1870年(明治3年)2月11日(「ニッポン青春外交官―国際交渉から見た明治の国づくり 」)、パリに着いてとりあえずは、ティボリ街の伯爵邸に入ったのではないかと思われるのですが、その場所です。
 Rue de Tivoli.8.(ティボリ街8蕃地)のティボリ街とは、宮永孝氏の論文「ベルギー貴族モンブラン伯と日本人」によれば、現在のrue du Amsterdam(アムステルダム通り)ですが、下の写真、「優雅な生活―“トゥ=パリ”、パリ社交集団の成立 1815‐48」、P408の地図によれば、rue du Athènes(アテーヌ通り)です。



 下の本のP82の地図でも、現在のアテーヌ通りが、rue de Tivoliですので、現在のアテーヌ通りとアムステルダム通りが交わるあたりの角、と考えればいいのかもしれません。

「近代都市パリの誕生---鉄道・メトロ時代の熱狂」 (河出ブックス)
北河 大次郎
河出書房新社


  パリ9区、ショセ=ダンタン地区の一部でして、王制復古から7月王制期にかけては、新興大ブルジョワや新興貴族、そして芸術家など、流行りの先端を行く富裕層が住む高級住宅街、であったようです。
 それが、ですね。ちょうど幕末維新と重なります第二帝政期には、あんまりにもサン・ラザール駅が近すぎまして、繁華街すぎて場末っぽい雰囲気もあり、どういうこと???と疑問だったんですが、上の本が見事に答えてくれていました。
 現在のサン・ラザール駅一帯は、ヨーロッパ街区と呼ばれ、ティボリ庭園周辺の土地を中心に、王制復古期の1821年から開発が始まった新興高級住宅分譲地でした。

 現在、サン・ラザール駅のすぐそば、線路の上にヨーロッパ橋があります。



このカイユボットの「ヨーロッパ橋」は、1877年(明治10年)のものですから、正名くんが、故郷薩摩でくりひろげられています西南戦争に思いを馳せながら見た景色です。

 しかし、実は当初の住宅地開発予定では、ここは地上のヨーロッパ広場であり、リヴォリ街の建物のように統一された高級住宅が建ち並ぶ予定、だったのだそうです。
 ところが、です。これと競合して鉄道計画が持ち上がり、1837年、ヨーロッパ広場のすぐそばに、パリ市内初めての鉄道駅であるサン・ラザール仮駅が出現します。しかも計画では、マドレーヌ広場の北側まで線路が延びて、終着駅ができるはずだったのですが、界隈の有力地権者の反対で実現せず、サン・ラザールが終着駅となってどんどんと膨れあがり、すでに1867年(慶応3年)に、ヨーロッパ広場は駅に呑み込まれて、線路の上にかかるヨーロッパ橋となってしまっていた、というわけなのです。
 下は「近代都市パリの誕生---鉄道・メトロ時代の熱狂」P102から、駅が広場を呑み込む経緯を示した地図です。



 
 カイユボットもそうなのですが、マネ、モネといった印象派の巨匠たちがこのサン・ラザール駅を描き残していまして、それはなぜなのか、モンブラン伯爵の邸宅があり、幕末から明治にかけ、正名くんを含む多くの日本人が訪れたこの場所はどんなところだったのか、次回に続きます。

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