郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

「長州ファイブ」から「半次郎」へ

2008年09月16日 | 桐野利秋
  ええと、突然ですが、昨日、「桐野利秋と結婚したい」とおっしゃるほどの大ファンの先輩から電話で、ヤフオクに春山育次郎著の少年読本の桐野の伝記が出ていることを教わりまして、さっそく入札したのですが、値段がつりあがって落とし損ねました。
 まあ、仕方がないですね。長年、古書店でさがしていたのですが、出たことのなかった本ですし。コピーはもっているわけですから、まあいいか、と。
 それで………、というわけでもないのですが、以下、書きかけで放っていたこの記事を、完成させることにしました。

 ちょっとよそで、半次郎~桐野利秋 風伝~(オフィシャルサイト)の企画が進行中であることを、教えていただきました。
 最近、頭の中が、オスカー・ワイルドだとかラファエル前派だとか、もうすっかり中高生のころに帰った感じで、そっち方面の英語サイトばかりをただよっていまして、存じませんでしたわ、まったく。

 ところで、ご紹介が遅くなりましたが、耳の家のみみこさまが、愛のバトンを受けてくださって、アーネスト・サトウへの熱い愛を、語ってくださっています。
アーネスト・サトウは………、萩原延壽氏の名著のおかげなんですが、読めば読むほど、ほんとうに魅力的な人物でして、私も、バーティとくらべてどちらに愛を感じているかといえば、サトウなんですが、………バーティは、一昔前の少女漫画の登場人物かよ、というくらいに、生まれ育ち、容姿、才能、腕力となにもかもそろいすぎな上に、莫大な財産は転がり込むは、皇太子のお気に入りになって地位も得る、結婚生活も順風で、陰がなさすぎ、とでもいうんでしょうか、でも本当はちょっと変な人みたいな、という疑いがなければ、興味の持ちようもないほどでして………、いや、負けますわ。ありがとうございました、みみこさま。

 で、桐野利秋(中村半次郎)についても、Nezuさまがコメントくださいましたように、「結婚したい!」とおっしゃる大先輩がおられまして、負けますです、はい。
 とはいえ、こうも長く思い続けてきますと、です。私にも強固に、自分のイメージが出来上がっておりまして、映画化には、複雑な気分です。
 ロード・オブ・ザ・リング(The Lord of the Rings)、「指輪物語」の映画化話を知ったときには、飛び上がって喜んだんですけどねえ。物語世界がどう描かれるか、というのと、実在した人物がどう描かれるか、というのでは、なんかこう、ちょっと、私の中での受け止め方が、ちがうみたいです。実在した人物の方が、私の思い入れが深いんでしょう、おそらくは。
 しかし、今度の映画化の話が、もしかすると、期待してもいいかな、と思えるのは、監督が、「長州ファイブ」の五十嵐匠氏であることです。

長州ファイブ

ケンメディア

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 この映画、封切りよりはずいぶん遅れて、うちの地方でも奇跡的に小劇場にかかりまして、喜んで見に行き、そのときにも、そしてDVDを買ったときにも、ブログに感想を書こうかな、と思ったんですが、なぜ後半のファンタジックな、つまりはフィクションである恋物語に心惹かれるのか、その理由を、自分で分析しかねていたんです。
 そりゃあもちろん、松田龍平演じる山尾庸三がとても魅力的だった、というのは、真っ先にあるのですが、それだけでは説明しきれないものが、確かに存在している感じを受けました。

 というのも、この映画は、題名そのままに「長州ファイブ」、つまり幕末に英国密航留学をしていた長州の5人、山尾庸三、野村弥吉、志道聞多(井上馨)、伊藤俊輔(博文)、遠藤謹助を描いている、というふれこみで、実際、前半は確かにそうなのですが、後半はがらりと、山尾庸三一人の恋物語となっていまして、まったくのフィクションであるその部分がなければ、私がDVDを買うことはなかった、と断言できるのです。
 なにしろ、ちょうど薩摩留学生のことを調べていたときでしたし、つっこみどころは豊富で、史実とくらべると、思わず、おい!と、いいたくなる場面も多々あったのです。

 山尾庸三が、後年、盲聾唖者の教育に尽力した、という事実にしても、俗説では、「伊藤博文とともに国学者の塙忠宝を暗殺したことを後悔して」といわれます。
 塙忠宝は「続群書類従」の編者でして、最初にこれを知ったときには、!!!でした。なにしろ当時、音楽や香に関する古書を編纂した「続群書類従」にはお世話になっていましたから、そんなありがたい人物を、「廃帝を画策している」とかのデマに踊らされて暗殺するとは、どういうおっちょこちょいの大馬鹿な二人なんだろう!!! と思ったような次第なんです。
 日本の文化をですねえ、大切に守ろうとしている人物を攘夷気分でまちがえて暗殺しといて、あっさり「さあ、イギリスへ!」って、なんとも小憎らしかったんですよねえ。
 この映画が、です。そういったことをいっさい出さないで、山尾の「聾唖のスコットランド女性との恋物語」というフィクションに語り代えたことは、通常ならば私は、あざとい感じを受けるはずなんですが、それが………、受けなかったんです。どころか、この恋物語こそに、魅せられました。

 それがなぜなのか、自分でもよくわからなかったのですが、今回、大ファンの先輩とともに、映画「半次郎」への期待を語っているうちに、気づかされました。

 山尾庸三は、周防出身でした。
 以前に書いたような気もするんですが、長州における周防出身者は差別されていまして、赤根武人の不運にも、それがあったのだと言われています。
 そして周防には、水軍関係者が多いんです。毛利氏に仕えた村上水軍本家が、伊予から周防大島に移住して、長州藩お船手組をとりしきった歴史があり、瀬戸内海の水運にかかわっていた人々が、多く居住していた地域でした。

 映画で、山尾が恋をする聾唖のスコットランド女性は、シェトランド諸島の出身で、シェトランド諸島といえば古のバイキングの地であり、近代化から取り残されたグレート・ブリテンの僻地です。

 維新以降、日本が近代化して、汽船が登場し、鉄道網が発達するにつれ、従来からの瀬戸内海の回船はしだいに衰えていき、周防でも新しい波に乗れなかった多数の人々が落魄れていきます。
 映画「長州ファイブ」は、前半で、西洋近代への日本人の恋を単純に描きながら、なんといいますか、こう………、近代化を受け入れる中で、見捨てられていく人々への哀惜を込めた断念、みたいなものが、男女のストイックな恋という形で、後半をふくらませたのではないか、と、私には感じられたのです。

 だったのだとすれば、五十嵐匠が描く桐野利秋には、もしかすると………、期待できるのではないかと思うのです。
 オフィシャルサイトのトップに、永山弥一郎の名が出てくるのも、希望の種です。
明治11年、西南戦争の直後に出ました短い桐野の伝記には、永山弥一郎、伊集院金二郎、肝付十郎の三名のみが、桐野のもっとも親しかった友人としてあげられていまして、このうち、伊集院と肝付は戊辰戦争で戦死していますから、西南戦争の時点で桐野の親友といえば、永山弥一郎のみだったのです。
 そして永山は………、まさに桐野への友情に殉じてくれたのだと、私は思っています。

「降り積もるはあの日も雪………」
 この歌で、あの日の桐野をしのびつつ、わくわくと次第に期待をふくらませているこのころです。
 たしか、GO!GO!7188は、鹿児島出身のバンドと聞いたような。

浮舟Ukifune GO!GO!7188-YouTube


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リーズデイル卿とジャパニズム vol10 オックスフォード

2008年09月01日 | ミットフォード
 リーズデイル卿とジャパニズムvol10 赤毛のいとこの続きです。
 前回、スウィンバーンのその後を書こう、と思っていたのですが、スウィンバーンの話はラファエル前派の話になりますし、そうであれば、まずは、バーティこと、アルジャーノン・バートラム・ミットフォード(Algernon Bertram Mitford)と、アルジーこと、アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン(Algernon Charles Swinburne)がともに進学し、ラファエル前派とも非常に関係が深い、オックスフォードの話をまとめてみることにしました。

 1854年(嘉永7年)、ですから、前年にペリーが初来航し、再来して日米和親条約が結ばれたこの年、バーティ・ミットフォードはイートンを卒業し、四週間ほど、バッツフォードを初めて訪れ、祖父の従弟にあたるリーズデイル卿、ジョン・トーマス・フリーマン・ミットフォードとともに、狩猟にあけくれて過ごしました。
 とはいえ、この時点では、バッツフォードがバーティに遺される可能性は、ほとんどなかったはずです。前に書きましたように、ジョン・トーマスは独身でしたが、まだ50そこそこですから、結婚して子供を作る可能性だってあったでしょうし、それよりなにより、まだバーティの二人の兄は、健在だったようなのです。
 それで、なのでしょうか。……それで、というのは、つまりこの時点のバーティは、資産を受けつぐ可能性の少ないヤンガー・サンですし、またイートンでの成績もよかったですし、あるいは学者でもめざしたのか、1855年の1月から10月まで、オックスフォードの入学準備に、ウェールズ在住の有名なギリシャ語学者のもとで、みっちりと指導を受けました。
 猛勉強のかいあってか、バーティは、クライスト・チャーチ学寮の奨学金を勝ち取って、オックスフォードに入学したのです。
 この奨学金、たいそうなもののようでして、バーティは主席入学したに等しいようです。

 オックスフォード大学には、現在では39にのぼる学寮(カレッジ)があり、バーティの進学当時も20の学寮がありましたが、その中でもクライスト・チャーチはもっとも貴族的な伝統を持つ学寮で、これは現在までの話ですが、13人の英国首相がこの学寮出身だそうです。
 貴族的な伝統、というのは、おそらく、なんですが、やはりもっとも英国王室と関係が深い学寮であるから、のようです。
 後にバーティが親しくなるエドワード皇太子も、この学寮で学びました。

    

 上の写真は、クライスト・チャーチ学寮の中心である大聖堂とホールの内部です。ホールの方は現在も学食として使われているそうで、双方、よく映画のロケに使われます。有名なのは、「ハリー・ポッター」シリーズでしょうか。
 日本が黒船騒動でわきあがっていたころ、こういう魔法使いの学校のような所に、バーティはいたわけです。

 「不思議な国のアリス」の作者、ルイス・キャロル、本名チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(Charles Lutwidge Dodgson 1832-98)は、バーティより5つ年上で、バーティとは入れ違いの1854年卒業ですが、やはり奨学金を勝ち取ってクライスト・チャーチに所属し、そのまま数学講師として学寮に残っていましたので、バーティは見知っていたはずです。
 バーティが入学した1856年、ヘンリー・リデルがクライスト・チャーチの学寮長となり、妻子をともなって赴任してくるのですが、「不思議な国のアリス」誕生のきっかけとなったアリス・リデルは、この新学寮長の娘でした。
  
ドリームチャイルド

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 映画「ドリームチャイルド」は、1932年、80歳の老婦人になったアリス・リデルが、ルイス・キャロル生誕100年祭でアメリカに招かれ、10歳の頃の自分とルイス・キャロルを回想するお話です。
 回想シーンには、クライスト・チャーチ大聖堂が出てきますし、「不思議な国のアリス」が生まれたのは1862年のことですから、バーティがいた時期の直後で、映画としての出来もいいのですが、ただ、ちょっと、ルイス・キャロルが年をとりすぎな設定なのが変かな、という感じです。実際には、30そこそこのはずなのですが、映画では50歳以上に見えるんです。
 中古DVDがえらいお値段ですが、予告編がありましたので。Dream child-YouTube

 この映画の子供のころのアリス・リデルは、実際のアリス・リデルに、とてもよく似ています。
 予告編にもちょこっと出てきます、着物のようなものを着て和傘を持つアリス。実際にルイス・キャロルは、チャイナ・ドレスに和傘のアリスの写真を撮っていまして、当時のイギリスの東洋趣味をうかがわせます。
 「不思議な国のアリス」は、1862年のピクニックで、ルイス・キャロルがアリスとその姉妹に語って聞かせた物語を、文章にしてくれとアリスにせがまれ、第二回ロンドン万博見物に向かう汽車の中で、下書きしたものでした。いうまでもなく、この万博には、駐日公使ラザフォード・オールコック(Rutherford Alcock 1809-97)の手配で日本の美術工芸品が出品され、日本の遣欧使節団も会場に姿を見せて、評判を呼んでいました。
 


 ルイス・キャロルは、ジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett Millais 1829-96)やダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti 1828-82)など、ラファエル前派の画家たちと親交を持っていましたし、第一、ラファエルル前派を理論的に応援していた美術評論家のジョン・ラスキン(John Ruskin 1819-1900)は、クライスト・チャーチの出身者なのですが、どうもこの時点で、バーティがそういった人々とつきあった形跡は見あたらないようなのです。

 で、ファンタジーに彩られたようなこのクライスト・チャーチで、バーティがなにをしていたかというと、どうも、非常に世俗的な遊びとスポーツに、熱中していたようです。
 ジャナサン・ギネスは、「クライスト・チャーチには、そうなったのはバーティが最初でもなく最後でもないが、屈服するような誘惑があった」と、えらくもってまわった言い方をしているのですが、要するに、当時の大学には男しかいませんし、若い独身の男たち、それも主に裕福な男たちがいっぱい集まっていましたから、当然のことながら、オックスフォードの町には、お金で愛を売る女性たちが、これまたたくさんいたわけです。

 1858年、バーティと入れ違うように、エドワード皇太子がオックスフォードへやってきます。一応、クライスト・チャーチ学寮に席は置きますが、実際には学寮に入らず、おつきの陸軍少将たちとともに学外の一軒屋を借りていました。皇太子はこのおつきの監視を受けて、学生たちとまったく交際できず、なんとも不幸な大学生活を送るのですが、これは、おそらく………、なんですが、「屈服するような誘惑」から皇太子を遠ざけようと、ヴィクトリア女王と夫君のアルバート殿下がはかったことだったんじゃないでしょうか。
 オックスフォードの学生で、聖職者や学者になる気などさらさらない貴族やジェントリーの子弟であれば、バーティのように、勉学よりも仲間との交流を楽しみ、遊ぶ方が普通だったでしょう。
 ヴィクトリア女王は、婚姻外の男女関係に非常に潔癖でして、アルバート殿下の方はといえば、これも王室スキャンダルを怖れたゆえなのか、夫婦で中産階級的なモラル意識をもち、長男の皇太子を律しようとしていました。あげく、独身の皇太子が金銭で片のつく女性を相手にすることさえ、怖れていたようなのです。
 クライスト・チャーチの学生たちは、さすがにお行儀がよく、あえて皇太子を誘おうとはしませんでしたが、1861年、今度は陸軍に身を置いた皇太子を、若い陸軍将校たちは放っておきませんでした。皇太子も自分たちの仲間なのだから、とばかりに、そういう女性を皇太子のベッドに送り込み、皇太子は大喜びで、以降もこの女性とつきあいを深めます。
 これを知ったアルバート殿下の心痛は、ちょっと信じがたいほどのものでして、この直後の殿下の死の引き金となった、ともいわれているほどです。
  
 さて、バーティが熱中したスポーツというのは、主にボクシングです。
 私、ボクシングがイギリスで生まれたスポーツであり、貴族が好んでいたものだったとは、これまでまったく、知りませんでした。Wikiをご参照いただきたいのですが、「現在のボクシングのルーツは18世紀のイギリスのテムズ川オックスフォードシア村で誕生したジェームス・フィグ(James Figg、レスリング、フェンシングとくに棍棒術を得意とする)が1718年にロンドンで「ボクシング・アカデミー」(ジムの原型か?)を設立して貴族などにボクシングを教え始めた」のだそうでして、バーティは、友人たちと共同でロンドンからボクシング教師を呼び、当時のオックスフォードには、スポーツ施設がありませんでしたから、魔法でも習った方が似合いそうな自分たちの部屋で、ボクシングを習いました。

 バーティの知的関心は、どうや東洋に向かっていたようでして、サンスクリット文献学者で、リグ・ヴェーダの翻訳者、フリードリヒ・マックス・ミュラー(Friedrich Max Muller、1823 - 1900)教授との出会いは、回想録にも特筆しているようです。ミュラーはドイツ人で、ベルリン大学、次いでフランスへ行きパリで、サンスクリットを学び、イギリスの東インド会社の招きで渡英し、1850年にオックスフォード大学教授となっていたのですが、詩と音楽が好きで、ドイツではメンデルスゾーンに音楽の才を認められていたそうですので、そういう面でも、バーティは話があったようです。
 ミットフォード家は、もちろん代々イギリス国教会で、だからこそバーティはイートン、オックスフォードとすんなり進学しているわけなのですが、父のヘンリー・レベリーはフランス人とのつきあいを好み、アーネスト・サトウ vol1に出てきます、リストの愛人・マリー・ダグー伯爵夫人の父親ように、西洋の教養の両輪だったヘレニズム(ギリシャ・ローマ古典思想)とヘブライズム(キリスト教思想)のうち、ヘレニズムに偏っていたように思えます。
 したがってバーティもまた、国教会への信仰は儀礼的なものと受け止めていた節があり、宗教思想に関しては、非常に自由で柔軟な受け止め方をして、後年、このオックスフォードで出会ったインド思想に傾倒し、仏教哲学を信奉することとなります。

 しかし、若き日のバーティは、スポーツ好きで、社交的な上に、多趣味でした。結局、遊びすぎまして、2年間かかってやるべき勉強を、試験前の6週間で速習し、それでも、オックスフォードの公式第1次試験では2番の成績をおさめましたが、クライスト・チャーチの奨学金受給資格は、満たすことができませんでした。
 どうもこの奨学金、よほど優秀でなければ継続して受けることができないようでして、卒業試験で主席だったルイス・キャロルも、途中、奨学金試験には失敗しています。
 で、ルイス・キャロルとちがってバーティは、自分が性格的に………、なにしろ行動的かつ社交好きですから、勉学に向いていないと思ったのか、あるいは英国外務省にあきができた機会をとらえたのか、あと2年、卒業試験までとどまることなく、1858年、さっさとオックスフォードを辞めて、外務省に勤務することにします。
 当時の英国外交は、首相と外務大臣が直接とりしきっていましたし、欧州では王国がほとんどでしたから、外交は上流社交の延長である要素も濃く、外交官は貴族やジェントリーの子弟のお飾り職的傾向があったわけでして、オックスブリッジの学位に意味はなく、イートン校卒業生である方が重要でした。

 一方、バーティの赤毛の従兄弟、アルジー・スウィンヴァーンは、バーティと同じく1853年いっぱいでイートンを卒業し、1855年には、母方のおじ、ですから、アッシュバーナム伯爵家のおじといっしょにドイツに旅行して、1856年の一月、オックスフォードのベリオール学寮(Balliol College)に入ります。
 ベリオール学寮は、1263年設立という歴史を誇り、やはり数人の英国首相を生んでいます。伝統的に国際色豊かで、学部生の政治活動が盛んな学寮だそうです。現代の話をするならば、雅子さまが外務官僚として留学されたのが、ここです。



 その学寮の雰囲気ゆえなのか、入寮したその年に、さっそくアルジーは共和国思想を抱くようになり、学生間の知的親睦を目的とする「人間倶楽部」の設立メンバーとなります。
 ボクシングと、そしてどうやら………、ヴィクトリア女王がお嫌いになるような、しかし年若い上流の男性としては一般的な、世俗的遊びに熱中していたバーティにくらべ、アルジーはさまざまな政治思想にふれ、宗教的な思索も深めて、ニヒリズム、つまりは無神論を受け入れるにいたったりもしたようです。
 もっとも、勉強をしなかった点ではバーティといっしょで、ただ、バーティのような器用さを持ち合わせず、1859年には古典の試験に落第し、結局、卒業することなく、1860年の6月に大学を辞めます。
 しかし、ベリオール学寮の学寮長であり、指導教師だったベンジャミン・ジャウィットには詩才を認められ、1858年、イタリア独立運動に共鳴するアルジーが、フランスのナポレオン3世を暗殺しようとしたテロリストを過激なまでに褒め称え、学内で問題視されたときにも、かばってもらいました。

 そして、なによりもアルジーにとって運命的だったのは、1857年、このオックスフォードで、ロセッティを中心とするラファエル前派の画家たちに出会ったことでした。
 ラファエル前派の中心にいたのは、いうまでもなく、常にダンテ・ガブリエル・ロセッティで、ロセッティ自身は、直接オックスフォードに関係していたわけではありません。
 しかし、ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレイ、ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt、1827 - 1910)を中心に、既成のアカデミズム画壇の古典的画風に異を唱えた前期ラファウェル前派を支持したのは、先に述べましたように、クライスト・チャーチ出身のジョン・ラスキンでした。
 そして、ミレイ、ハントが運動を離れた後、ロセッティのまわりには、オックスフォード、エクスター学寮出身のウィリアム・モリス(William Morris, 1834 - 96)、エドワード・バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones, 1833- 98)が集まって、後期ラファエル前派と呼ばれるようになります。
 アルジーがオックスフォードで出会ったのは、この後期ラファエル前派の面々で、ロセッティも二人の若手にひっぱられるように、オックスフォードを知ります。
 「中世の最後の魅惑」(マシュー・アーノルド)をたたえた学園都市、オックスフォードは、その「土地の霊」(ジョン・ヘンリー・ニューマン)の力………、これこそがオックスフォードの魔法なのですが、を、後期ラファエル前派の上におよぼしていました。
 ところで、デザイナーであり、詩人であり、思想家でもあったウィリアム・モリスは、大人向けのファンタジーも多数書き残しています。
 「 指輪物語 」の著者、J・R・R・トールキン((John Ronald Reuel Tolkien 1892 - 1973)は、20世紀のはじめに、エクスター学寮で学びましたが、学寮の数十年先輩である画家バーン=ジョーンズとモリスに、傾倒していたことで知られています。
 オックスフォードの「土地の霊」は、ファンタジーの誕生にも、力を及ぼしたのです。

 次回、オックスフォードとラファエル前派の関係を、もっと詳しく見ていきたいと思っています。

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