郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

普仏戦争と前田正名 Vol3

2012年01月08日 | 前田正名&白山伯

 普仏戦争と前田正名 Vol2の続きです。
 
 前回書きました名倉予何人と三宅復一について、なんですが、モンブラン伯の明治維新に、日記の孫引きをしております。2006年初頭の記事で、ろくにモンブラン伯爵のことがわかっていなかったころのものなのですが、大きな訂正はありません。

 ただ、ちょっと、ですね。クリスチャン・ポラック氏が、「絹と光―知られざる日仏交流一〇〇年の歴史」に五代友厚をはじめとする薩摩視察団を「サンジェルマン・デプレの自邸に迎え入れる」と書いておられる件、いったいなにを資料とされているのか、いまもってわかりませんで、気にかかっています。

 普仏戦争とパリの薩摩人 Vol1に書きましたが、新納竹之助(武之助)少年が通っておりましたオルチュス塾は、パリ左岸サンジェルマン・デプレにあり、としますと、五代がパリを訪れていた当時、ジェラールド・ケンがいて、後に町田清蔵くんが住むことになりました下宿は、やはりサンジェルマン・デプレであろうかと推測されるわけなのですが、一方で、「優雅な生活―“トゥ=パリ”、パリ社交集団の成立 1815‐48」によりますと、セーヌ川をはさんで、テュイルリー宮殿とむかいあっておりましたフォブール・サン=ジェルマン地区、第二帝政期にオルチュス塾があった地域なんですけれども、その地区は、ルイ一五世時代に貴族が屋敷をかまえていたんだそうなんですね。
 大革命期には政府に没収されたりしたのですが、その後返還されたものも多く、復古王制期になりますと、新興貴族の中にもこの古いお屋敷町を好む者が増えて、品のいい貴族街になったんだそうなんです。

 モンブラン邸のありますショセ=ダンタン地区は、いわば成り上がりの街です。
 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編の後半に書いておりますが、モンブラン家が伯爵となったのは1841年のことで、7月王制下、「中産階級のごきげんとりをする俗悪なルイ・フィリップ王」によって、です。
 それより以前、おそらくはモンブランの父親がインゲルムンステル男爵となったころに、新しく開発されていましたヨーロッパ街区の高級住宅地を買って邸宅としたのではないか、と思われるのですが、例えば叔母さんの家とか、母親の持ち家とか、サンジェルマン・デプレにも屋敷があったとして、おかしくないような気がしないでもありません。

 ところで、ショセ=ダンタン通りは一時、モンブラン通りという名だったことがあります。
 モンブラン(山です)を領地としておりましたサルデーニャ王国(ピエモンテ王国とも)をフランスが占領し、モンブランがフランス領となりました記念に、です。しかし、1815年、ナポレオン失脚後のウィーン会議で、サルデーニャは旧領を回復し、モンブランもフランス領ではなくなりましたので、再びショセ=ダンタン通りとなりました。
 いったいなぜモンブラン伯爵家なのか、あるいはモンブラン家はサルデーニャ王国、サヴォイアの出身だったりしないのかなあ、と憶測してみたり、です。

黒衣の女ベルト・モリゾ―1841-95
ドミニク・ボナ
藤原書店


 ベルト・モリゾは、1874年の印象派の旗挙げに、ただ一人の女生として加わっていました画家です。
 ブルジョワのお嬢さんですが、マネはモデルとしてベルトを気に入り、この表紙の絵は、マネの筆になります。
 それはさておき、上の本から引用です。

 ティボリ公園の跡地に作られたヨーロッパ広場の界隈には個性がある。サン=ラザール駅に近いことから、画家たちは容易に田舎や、アルジャントゥーユやオンフルール、あるいはポントワーズに行くことができ、快適な季節には戸外で喜んで絵筆を握る。界隈は大きな建物と、小市民階級がとりわけ好む小庭のある家々が奇妙に混じりあい、パティニョル地区のように、裕福な雰囲気の中に「労働者階級の」様子をとどめている。年金生活者や小市民階級、商人たちが暮らし、豪奢な邸宅には妾が囲われている。パリの中心にあるという利点を提供しながら、家賃は左岸や、十七区のもっと貴族的でもっとスノッブな地区、つまりマルセル・プルーストの十七区、クールセル大通りやテルヌ大通りより安い。生涯のある時期に、ここにアトリエを持つことになる、マネやバジール、ヨンキント、モネ、シスレー、ルノワール、ホイッスラー、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌたちにとって、またさほど遠くないモンセー街に住んでいるゾラにとって、また、パティニョル街八十九番地、次にモスクワ街二十九番地、さらにローマ街八十九番地にひどく質素に暮らすことになるマラルメにとって、パティニョル地区は望外の幸せだ。十九世紀末に非常に多くの芸術家たちが集まる。やがて旗印と集合地点になるだろう。印象派という用語のもとに結集する前に、印象派の画家たちの大部分が「パティニョル派」、つまりマネの友人たちのグループに属していたといえるだろう。

 「十七区のもっと貴族的でもっとスノッブな地区」といいますのは、第二帝政期のオスマン大改造で開発されました、モンソー公園周辺の高級住宅分譲地です。
 引用文中にも名前が出てきますが、ボードレールに続き、マネを擁護しました文筆家、エミール・ゾラは、第二帝政期を舞台にして20巻におよびます小説、ルーゴン=マッカール叢書を書いております。ゾラはもともとジャーナリストでして、綿密な取材に基づき、風俗を描写してくれていますので、当時のパリを知るのにとても役立ちます。
 一番有名な9巻目の「ナナ」 (新潮文庫)については、喜歌劇が結ぶ東西に詳しく書いておりますが、パリ万博が始まった1867年4月から、普仏戦争開戦の1870年7月までのパリが舞台です。
 この主人公の高級娼婦・ナナの豪壮で最新の流行に彩られた邸宅が、モンソー地区にあったりします。



 マネが描きましたナナです。
 背景に日本画みたいな絵がありますよね。実際、原作にも、ナナの家の調度品として「気取った日本の屏風」があげられていまして、日本の美術工芸品は、当時の最新流行の調度品だった、と考えてよさそうです。
 マネは、作者ゾラの肖像も描いていますが、その背景には、あきらかに日本の屏風と浮世絵があります。




 この肖像画は、1867年から1868年に描かれていまして、これは、1867年のパリ万博に日本が出品したものを購入したのでは? とも思えるのです。
 リーズデイル卿とジャパニズム vol10 オックスフォードに書いておりますが、1862年の第二回ロンドン万博には、駐日イギリス公使ラザフォード・オールコックの手配で日本の美術工芸品が出品され、日本の文久遣欧使節団も会場に姿を見せておりました。
 この使節団には、夢の国の「シルクと幕末」に出てきます本間郡兵衛も通訳として加わっておりましたし、彼は北斎の弟子でした。
 また、奇書生ロニーはフリーメーソンだった!などに書いておりますが、使節団はフランスをも訪れていて、レオン・ド・ロニーが接待役を務め、関心を呼んでいますし、すでにこのころのパリには、日本の美術工芸品を専門に扱う店もあって、美術家たちには、絵草紙や浮世絵が非常な人気だったといわれます。

 
ジャポニスム入門
クリエーター情報なし
思文閣出版


 上の本によれば、「ジャポニスムという見地からマネが興味深いのは、日本美術からの造形的な刺激を自らの問題意識にそった形で作品の中に生かしているからである」ということでして、また、マネ自身は加わりませんでしたけれども、1874年にモネ、ドガ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、モリゾなど、マネの友人たちが開きました第一回印象派展を評して、カスタニャリは「印象派の画家たちは絵画の日本人たちと呼ばれている」と伝えているのだそうです。
 マネ、ゾラと親しく、印象派の擁護者だったテオドール・デュレもまた、「印象派の成り立ちを説明するにあたって日本美術からの影響を明確に指摘し、特に日本の絵冊子に見られる陽光の輝きに満ちた大胆で斬新な彩色からの刺激を協調した」と言います。

 マネは1864年から二年間ほどは、バティニョール大通り34蕃地に住んでいましたが、1866年から死ぬまで、サン・ペテルスブール街にアトリエと住居をかまえていました。このうちのサン・ペテルスブール街46蕃地のアパルトマンは、ベルン街とまじわるところにありまして、サン・ラザール駅のごくそば。モンブラン伯爵のティボリ街の邸宅からも、ほんの300メートルあまりの距離、といったところです。



 上のマネの絵は、マネが普仏戦争後の1873年(明治6年)に描いたものですが、「鉄道」という題名で、鉄格子の向こう、左手の建物がサン・ペテルスブール街46蕃地のマネのアパルトマン、右手にはさだかではありませんがヨーロッパ橋が描かれ、白い煙は機関車のもの。つまりは、サンラザール駅なのです。

 これまでに、ずっと書いてまいりましたが、1863年ころから、ティボリ街のモンブラン邸には、日本人ジェラールド・ケンが出入りしていまして、幕府関係の使節団員も姿を現し、慶応元年には新納久脩、五代友厚の薩摩使節団、次いで薩摩密航留学生たち、薩摩パリ万博要員と、数多くの日本人の姿が見られたはずなのです。
 同じ界隈にいましたマネやゾラが、果たしてそれを知らないでいたのでしょうか。

 ただ、ここで考えておかなければならないことは、この当時、ゾラは小説を書き始めたばかりの無名のジャーナリストですし、マネはスキャンダラスなばかりで一つも絵が売れない新米画家ですし、印象派は旗挙げさえしていなかったんです。
 彼らの本格的なデビューは、普仏戦争があって第二帝政が倒れ、第三共和制となってからのことなのです。
 モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌなど、現在では知らない者がないほどの印象派の巨匠ですが、当時は、均整のとれた古典美を無視する変な趣味の無名の若者たちでした。
 当時、パリでもっとも有名で売れていた画家といえば、ヨーロッパの王侯貴族御用達の肖像画家、フランツ・ヴィンターハルターじゃなかったでしょうか。wikiにページが立ち上がっていますね(wikiフランツ・ヴィンターハルター)。
 新古典なのか新ロココなのか、マネの絵とくらべてみてください。ものすごく典雅です。

 

 ヴィンターハルターによる、ウジェニー皇后(ナポレオン三世妃)と侍女たちです。
 描かれたのは1855年(安政二年)ですから、第二帝政の前期、篤姫が徳川家定に嫁ぐ一年前です。正名くんは、まだわずか5歳。

 日本の浮世絵は、マネとその友人たち、後の印象派にとっては大胆で斬新だったわけでして、既成のアカデミックな画壇からしますと、得体の知れない極東の島国の美術などというものは、けっこうそれだけで、スキャンダラスな要素を持ったものでした。
 
 モンブラン伯爵は、どういう立ち位置にいたのでしょうか。
 私がモンブランに興味を持ちました最大の理由は、モンブラン伯の日本観に書いておりますように、柔軟で自由なその日本観です。
 男爵な上に伯爵なお方ですが、双方、父親の代からのことでして、レオン・ド・ロニーに同じく、日本に深く興味を持つといいますことは、もうそれだけで、当時の欧州では、革新的な変わり者と見られる存在、だったのではないでしょうか。

 とすれば、マネとその友人たち、後の印象派の人々とも、けっこう親和性があったようにも思います。

 次回、ようやっとお話は、普仏戦争にまでもってゆけそうです。

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