郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

広瀬常と森有礼 美女ありき15

2010年12月17日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき14の続きです。
 内容の上からは、今回も広瀬常と森有礼 美女ありき10広瀬常と森有礼 美女ありき11の続報になります。

 現在までのところ、慶応3年以降の広瀬寅五郎の動静がわかります史料に、私はめぐりあっていません。
 広瀬寅五郎=冨五郎、広瀬常の父であったと仮定して話を進めますと、冨五郎は「静岡県士族」とされているわけですから、一度は静岡へ行ったものと推測されます。
 おそらく、静岡では生活が成りたたなかったのでしょう。
 明治5年の開拓使「女学生徒入校願」によれば、広瀬冨五郎は娘の常とともに、「第五大區小三區下谷青石横町加藤泰秋長屋」に住んでいます。
 元大洲藩上屋敷、加藤泰秋邸の門長屋です。

 「力石本加藤家譜」によりますと、明治4年2月23日、大洲藩知事・加藤泰秋は上京していたようです。
 同年7月14日(1871年8月29日)、廃藩置県。
 元大洲藩上屋敷と中屋敷の処置について、以下、「力石本加藤家譜」より、fhさまに解読していただきました。

 同年同月廿三日右之通願書差出ス
   邸地振替願書
 今般諸県上邸被仰出候ニ付下谷和泉橋通大洲県邸地建家共私邸ニ拝領仕度依テ同所私邸右為代リト家作共奉還仕候間別紙絵図面二通相添右振替之儀御聞済被下置候様此段奉願候以
 
 上
  明治四年辛未十月廿三日 位 名
   東京府御中
 書面下谷和泉橋通私邸家作共可致返上同所大洲県元邸家作共引替下賜候事
  辛未十月   東京府


 明治4年9月、東京府は旧大名屋敷をすべて収公することになりましたが、元知事(藩主)に、一つは屋敷を下げ渡していたんですね。
 私、加藤泰秋は最初から元上屋敷を私邸にもらっていたのだと思い込んでいて、上の文章の意味がうまくとれなかったのですが、fhさまのご教授によりまして、最初、東京府から下げ渡されたのは元中屋敷であった、と考えれば、筋が通るのだと気づきました。

 goo古地図 江戸切絵図 東下谷-1

 上の切り絵図で見るとわかるのですが、元大洲藩上屋敷と中屋敷は、路地を隔ててすぐそばにあります。
 江戸時代の上屋敷を、明治になって私邸にした大名はほとんどいないようですから、あるいは一応、上屋敷は差し出すことにでもなっていたのでしょうか。
 もちろん、上屋敷の方が敷地が広く、建物もりっぱだったでしょうから、東京府の意向が中屋敷を私邸に、ということだったとしますと、加藤家としては承服できなかったでしょう。
 まず、加藤家から東京府への「邸地振替願書」の解釈です。

 「今般、諸県に江戸屋敷を差し出すようにと仰せがありましたが、下谷和泉橋通にある大洲県邸地と建物(上屋敷)を拝領したいと思います。これに代えまして、同所にある現在の私邸(中屋敷)を、地内の家作(貸家)とともに返還いたしますので、別紙の絵図面2通を添えて、振替許可をお願いいたします。

 これに対する東京府の返事です。

 「書面にある下谷和泉橋通の私邸及び家作を返上すれば、同所の大洲県元邸と家作をその引替として下賜する」

 大名屋敷には、長屋がたくさんありましたから、維新以降、大洲藩では、関係者で望む者に貸したりしていたんでしょうね。
 そして、どうも加藤家では、中屋敷も手放したくなかったらしいのです。
 翌11月、改めて中屋敷の払い下げを願っています。

 同年同月八日願書差出ス
  元私邸地御払下ケ願
  前月私邸振替ノ儀奉願候所御聞済被下置難有仕合奉存候就テハ又候私邸三千七百七十八坪余ノ地所別紙図面ノ通別段御用ノ筋無之候得者開拓ノ上地味相応ノ物品植付申度候間相当ノ価ヲ以御払下ケ被下度此段奉願候 以上
  十一月八日   位 氏 名
   東京府御中  図面此ニ略ス

 別紙地所払下ケ願ハ当時見合申尤場所姓名懸ニ留メ置書面差戻申候追テ一定ノ規則相立候上可及沙汰候此段申入候也
  十一月十四日   東京府


 「先月(10月)、私邸振替を願い出ましたところ、お聞き届けくださり、有難い幸せと存じます。つきましてはまた、私邸3778坪余の地所(中屋敷)について、別紙の図面の通り、別に官でご利用の予定がなければ、開拓して地味にふさわしいものを植えつけたいと思いますので、相当の価格でもって払い下げられますことを、このたびお願いいたします」

 これに対する東京府の回答は、拒否でした。

 別紙の地所払い下げについての願出は、今のところ見合わせ、当該の場所と(請願者の)姓名は、東京府の担当係(宅地係)に記録した上で、願書は差し戻す。追って(収公した土地についての)一定の規則が定まった上で、沙汰することを申し入れる」

 どうもこれは危ないと、加藤家では思ったみたいです。
 おそらく、なんですが、中屋敷のブロックの右隣、秋田藩佐竹氏の大きな上屋敷は、明治8年の地図では「陸軍造兵司御用地」になっていまして、一帯を陸軍省が狙っている、という情報をつかんでいたんじゃないでしょうか。
 誰から情報が入ったかって……、武田斐三郎からです。
 一ヶ月あまりの後、明治4年のうちに、加藤家は対策を講じています。

 竹門もと私邸昨冬御払下ケ願書差出ノ所当年ニテハ願意御採用難相成趣ニ付武田成章ヘ示談ノ上同人ヨリ願書差出ス但入用ノ節ハ引受候筈

 下谷和泉橋通名元私邸先般邸相成候由ニ付御用無之候得者私へ御払下ケ被成下度則図面相添此段奉願候、已上
  十二月廿三日  武田陸軍中佐
   東京府 邸宅懸御中

 願之家作金百八十五両二部二朱永五十五文八歩ニテ払下ケ候条当二月ヨリ十六ヶ月ニ割合可被致上納右地所ハ更ニ拝借相済候事但上納方相滞候節ハ仮令自費修繕相成候共地所家作其儘取揚可申事
 明治五年壬申正月


 竹門の元私邸(中屋敷)について、昨冬に払い下げ願いを提出したところ、当年は願いは採用されないとの趣旨だったので、武田成章(斐三郎)へ示談の上、武田から願書を提出した。もっとも経費についてはこちらで引き受ける予定である。

 下谷和泉橋通名の元私邸(中屋敷)について、先般収公されたそうですが、官でご利用の予定がなければ、私へ払い下げてくださるよう、図面を添えてお願いします。 12月23日  武田陸軍中佐
 東京府 邸宅懸御中


 中屋敷の家作、つまり借家人は、武田斐三郎だったんです。
 以前に書きましたが、大洲藩の上屋敷と中屋敷は隣にありながら、実は町名がちがい、明治8年の住所で、上屋敷は徒町、中屋敷は竹町です。明治以前の切り絵図でも、徒町は徒町なのですが、竹町は竹門になっています。佐竹藩邸の西門の扉が竹でできていたため、中屋敷のあるブロックと佐竹邸一帯は、竹門と呼ばれていたそうです。
 つまり、中屋敷は下谷和泉橋通を冠して呼ばれるゆえんはないのですが、振替と払い下げを有利に運ぼうとしたためでしょうか、中屋敷が上屋敷の付録であるかのように、東京府への願書では、上屋敷と同じく下谷和泉橋通の名を被せていたのではないでしょうか。加藤家の内部文書で、初めて「竹門」をだしてきてくれてまして、おかげで、これが中屋敷であることがはっきりします。

 陸軍中佐になっていました借家人の武田斐三郎に願書を出させて、費用を加藤家が出すことで、実質的に中屋敷も手元に残そうとしたんですね。
 この企ては、うまくいきました。以下、東京都の回答部分です。

 払い下げを願い出た家作が、金185両2歩2朱・永55文8歩で払い下げとなったことについて、この2月から16ヶ月の月賦にして上納させることで、右地所は再び拝借済みとする。ただし、上納が滞ったときには、たとえ自費で修繕をしていたとしても、地所および家作はそのまま取り上げる。明治五年壬申正月

 広瀬一家は、この明治4年、おそらくは廃藩置県の前後に、静岡を引き払って、江戸へ帰ったのではないでしょうか。
 冨五郎は、旧知の武田斐三郎を頼り、斐三郎は陸軍省に勤めて、中屋敷を借りて住んでいたようですから、当初は、中屋敷の長屋に住まわせてもらったのでしょう。
 そして、この大名屋敷収公に出くわし、斐三郎を通じて、加藤家に知恵を貸したのではないかと思われます。
 斐三郎が中屋敷すべてを使うことはなかったでしょうし、多数あっただろう長屋は、そのまま借家にもなったでしょう。

 実は広瀬冨五郎は、娘の常が森有礼と結婚した後、森家の土地の売り買いに、かかわっているんです。
 森有礼夫人・広瀬常の謎 後編上に書いていますが、有礼は特命全権公使として清国にいる間に、木挽町の屋敷を引き払い、新しく外務省から払い下げを受けて、麹町区永田町1丁目14蕃地の大邸宅に引っ越す手配をしているのですが、この土地の取得、不用地の売却を、広瀬冨五郎がしているようなのです。
 明治10年の有礼の家族宛書簡には、「永田町も広瀬様御配慮にて追々片付候趣」(1月24日付)とか、「永田町東方二三千坪賈払之儀広瀬氏へ頼入候」(2月15日付)とかの文言が見えて、冨五郎が不動産の扱いに長けていたことを、裏付けてくれます。

 当初、斐三郎の居候であった広瀬一家は、冨五郎が加藤家の財産管理にかかわったことで、明治5年当時、加藤家の私邸となった上屋敷の門長屋に無料で住まわせてもらえることになったのではないか、というのが、私の推測です。

 このシリーズ、続きます。


人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広瀬常と森有礼 美女ありき14

2010年12月15日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき13の続きです。
 内容の上からは、広瀬常と森有礼 美女ありき10広瀬常と森有礼 美女ありき11の続報です。

 まず、北海道文書館に頼んでおりました広瀬寅五郎に関する資料の複写2点が届きました。
 2点とも箱館奉行所文書からですが、うち慶応2年の履歴明細短冊は、「江戸幕臣人名事典」収録の短冊とほぼ同内容なのですが、年齢はこちらが二つ年長になっています。保存状態がよく、虫食いもないようで、わからなかった部分が全部判明しました。
 以下、北海道立文書館による解読文です。

 子四月十五日講武所勤番ニ仰付候

 まず冒頭、上の赤字の部分が大きく書かれて、線で消されています。
 
 祖父田口小十郎死 元小川道伯家来 
 父田口喜兵衛死 同断

 紋所井桁花菱
 函館奉行支配定役
 広瀬寅五郎 子年四十五

 高三十俵三人扶持 本国生国共下野
 内 三十俵二人扶持元高 一人扶持御足扶持
 外 役扶持三人扶持 

 嘉永七寅年十一月 
  御先手紅林勘解由組同心高木銓太郎明跡江御抱入被
 安政四巳年 九月 
  箱館奉行支配調役下役出役過人被仰付
 文久元酉年 九月 
  定役被仰付 
 元治元子年 四月 
  講武所勤番被仰付候旨田安仮御殿於焼火之間替席若年寄衆出座諏訪因幡守殿被仰渡 
 同年    五月 
  講武所勤番組頭勤方見習被仰付候旨井上河内守殿以御書付被仰渡候段沢左近将監申渡 
 同年    八月(十七日) 
  箱館奉行支配定役被仰付候旨水野和泉守殿以御書付被仰渡候段赤松左衛門尉申渡候


 広瀬寅五郎=冨五郎と仮定しますと、広瀬常の父・寅五郎は、安政3年(1856)に紅林勘解由が病気引退しました翌年、常が満2歳の年に箱館奉行所勤務を志願したことになります。このときの寅五郎の勤務先は、おそらくは函館ではなかった、と思われるのですが、妻と幼い娘を連れて室蘭、様似、厚岸、寿都、石狩、留萌、宗谷、国後島、択捉島、クシュコタン(樺太)などへ赴任したとも思えず、しかし、箱館奉行所勤務は7年とけっこう長くて、その間に次女も生まれているようですから、家族は函館にいたのではないか、と推測されます。
 元治元年(1864)4月、武田斐三郎とともに迅速丸で江戸に向かいましたとき、寅五郎は講武所転勤が決まっていて、斐三郎の方が、当初は江戸出張だったみたいです。
 しかし、斐三郎が7月23日付けで開成所教授に任じられ、挨拶と引っ越しのため箱館へ戻ったとき、寅五郎は共をしたと思われ、そしてそのまま、箱館奉行所勤務にもどったわけです。

 箱館奉行所文書には。もう一つ、広瀬寅五郎の名前のある文書がありまして、これは、「慶応二年十一月十五日付 航海書並ニ字引、送付ノ件」という文書でして、箱館奉行所当番のうち、広瀬寅五郎と宮塚三平が主務者となって、箱館から江戸へ、航海書30冊、英語字引2冊、地理字引5冊、貿易方字引5冊を送付したときの書類です。
 江戸の側で印鑑を押しています上席の「伊賀守」は、老中板倉勝静でしょうか。
 連署は河津三郎太郎 安間純之進の二人です。
 
 河津三郎太郎とは、河津伊豆守祐邦のことです。「モンブラン伯の長崎憲法講義」で書いたんですが、文久三年の幕府横浜鎖港談判池田使節団の副使で、最後の長崎奉行です。
 彼の職歴なんですが、安政元年徒歩目付として蝦夷調査。箱館奉行支配調役、やがて組頭に出世。
 武田斐三郎が設計した五稜郭の普請掛です。
 文久2年新徴組組頭、翌3年外国奉行となり、鎖港使節副使。帰国後免職、逼塞。
 許されて歩兵頭並となり、この慶応2年11月は関東郡代です。

(追記)うへー!!! 河津三郎太郎が五稜郭の普請掛であったことは確かなんですが、「文久三年の幕府横浜鎖港談判池田使節団の副使で最後の長崎奉行・河津伊豆守祐邦と同一人物かどうかは、わからなくなりました。どうも鳥羽伏見の伝習隊指揮官に、河津三郎太郎という人物がいるようなんです。これから、ちゃんと調べてみます。


 安間純之進についても、函館市史(デジタル版)によれば、安政元年のペリーの箱館来港時、外国通の支配勘定役として、応接の一行の中にいます。そしてこの一行の中には、通訳として武田斐三郎がいました。

 つまり、もしかしまして、この航海書や字引は、武田斐三郎のもので、その要望により、函館から江戸に送られたのではなかったんでしょうか。
 この三日後、慶応2年11月18日、講武所が廃止になり、講武所の砲術部は陸軍所砲術部になっています。
 そして武田斐三郎は、陸軍所の大砲製造頭取に就任するんです。
 また、広瀬寅五郎が当初属していた紅林勘解由の後継者も、砲術教授方として、こちらにいたようです。

 憶測でしかないんですが、同年8月の時点で、すでに講武所廃止の方向はうちだされていて、広瀬寅五郎は、武田斐三郎が箱館で開いていました諸術調所の後始末のためにも、とりあえず箱館奉行所勤務に戻ったのではないでしょうか。
 としますと、間もなく陸軍所勤務になり、江戸へ帰ったのではないかと推測され、とりあえず杉浦梅潭(誠)の「箱館奉行日記」で、慶応2年の11月と12月を、見てみる必用がありそうです。

 次回、fhさまのご協力によりまして、「力石本加藤家譜」をもとに、武田斐三郎と広瀬冨五郎の関係を追ってみたいと思います。



人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続・いろは丸と大洲と龍馬

2010年12月09日 | 幕末土佐
 いろは丸と大洲と龍馬 上いろは丸と大洲と龍馬 下の続きです。
 「龍馬史」が描く坂本龍馬にも、関係します。
 真紅さまのご紹介により。下の本を買って読みました。

いろは丸事件と竜馬―史実と伝説のはざま
鈴木 邦裕
海文堂出版


 いや、もうなんといいますか……、ともかくおもしろい!!!のですが、これもしかして、副題を「『竜馬がゆく』の真っ赤な嘘」と変えた方が、インパクトがあっていいのではないか、と。
 著者の鈴木邦裕氏は、外国航路の船長という経歴をお持ちの海事の専門家でおられ、弓削商船や神戸商船大学で非常勤講師をなさったご経験からでしょうか、非常に簡潔で、読みやすい文章を書かれます。
 おどろきましたことに、現在、松山ご在住です。
 もしかして……、伊予の人間はけっこう「歯に衣着せず批判する」性癖があるんでしょうか。いえ、私も含めてのことなんですが(笑) そういえば、正岡子規の歌論や俳句論って、ずけずけと、既成の歌壇、俳壇批判をしておりましたっけ。

 司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」は、司馬氏の幕末ものの中では初期の作品でして、先に書きましたが娯楽に撤した結果、ほとんど史実にはかまっておられないんですね。
 私は本来、これを史実だと受け取るのは、受け取る方がまちがっているのだ、という見解です。
 また、史実にそったものではなく、伝説の集成であったにしましても、「時代の雰囲気を映している」という意味でのリアリティにおいて、司馬作品には、他と隔絶した、といえるほどのすばらしさがあり、これはもう、脱帽するしかありません。

 しかし、ですね。
 とはいうもの、世間一般で司馬作品がそのまま史実のように受け入れられていますことには、腹立たしくなることもあり、私の場合、それは「翔ぶが如く」である場合が多かったんです。
 「竜馬がゆく」はまだしも、一読して伝説の集成、なんですが、「翔ぶが如く」になってきますと、史伝風の書き方をなさっていて、「だ・か・ら、あれはフィクションですっ!!!!!」と叫んだことが、過去、数えきれず、です(笑)

 大昔の話です。
 おそらく、大河ドラマで「翔ぶが如く」をやった直後くらい、だったと思うんですが、漫画家の卵だとおっしゃる男性の方からお手紙をいただき(当時はまだネットはありません)、「『翔ぶが如く』を読んで、中村半次郎に興味を持ちました。差別された郷士が、人斬りを重ねてのしあがっていく、そんな姿を作品にしたいんです」とまあ、おおよそ、そんな内容だったと思うのですが、「まず、桐野(中村半次郎)は郷士じゃありません。城下士です」とお返事を書いてもなかなか信じてもらえませんで、「えーと、ですね。『翔ぶが如く』に木戸孝允が欧州から帰ってきて、山内容堂と話す場面がありますよね。でも、ありえないんです。容堂は明治5年に死去していますから。『翔ぶが如く』は、史伝風に書かれている部分も、都合によっては死人が蘇っているフィクションです」と説明して、ようやくわかってもらえたんですが、当時、司馬さんの戦国ものを参考に、ある漫画家さんが作品を描きましたところ、たまたまそれが司馬さんの創作部分で、盗作問題に発展した、というような噂話もありまして、「他人の創作物を資料にすること」の危険性をご説明したような次第でした。

 しかし私、昔から坂本龍馬には、それほど関心がありませんで、「過大評価されすぎだよなあ。しかし、桐野のお友達だから、性格が悪い人じゃなさげ」(笑)くらいのところで、まじめに「竜馬がゆく」と史実の関係を追求しようと思ったことはなく、またまたしかし、昨今の「あれもこれも、なにもかもが龍馬のしたこと」みたいな風潮に、うんざりしていたことも事実です。
 (えー、桐野が龍馬とお友達だった、ことについては、「桐野利秋と龍馬暗殺 前編」「桐野利秋と龍馬暗殺 後編」「中井桜洲と桐野利秋」を御覧下さい。海援隊の客分で、大政奉還の建白書に手を入れた中井桜洲と桐野はお友達で、龍馬の野辺送りでは、高松太郎(龍馬の甥・海援隊)、坂元清次郎(龍馬の姪の夫)といっしょにいたんです。さらに大正年間の回想ですが、桐野の正妻の久さんは、寺田屋事件の後、薩摩に滞在した龍馬を歓待した、と語り残しています。小松帯刀書簡により、桐野が神戸海軍操練所で学ぶことを希望していたことはわかりますし、薩長同盟は桐野の悲願でしたから、信憑性のある回想です)

 「龍馬史」が描く坂本龍馬で書きましたように、特に海軍と交易に関して、なんですが、昨今の龍馬と海援隊への過大評価は著しく、鈴木邦裕氏がばっさりと斬って捨てておられますのには、胸がすきます。
 いやほんと、素人が見ましても、ワイルウェフ号といろは丸と、砲撃されたわけでもなんでもなく、通常の運行で、短期間に二隻も船をおしゃかにしています龍馬と亀山社中(海援隊)は、ろくに航海の技量を持っていなかったのではないか、としか思えなかったのですが、海事の専門家でおられます鈴木邦裕氏が、それを裏付けてくださったわけです。

 私、いろは丸と紀州藩船・明光丸の衝突事件そのものにつきましては、「竜馬がゆく」の著述内容でさえ、忘れこけておりました。
 鈴木氏によって思い出させていただいたのですが、司馬氏は、明光丸船長・高柳楠之助について、以下のように書いておられます。

 若いころ蘭学を志し、有名な伊東玄朴を師として蘭学と医学を学び、その後箱館(函館)へゆき、そこで西洋人からすこし航海術を学んだという。医術はさておき、航海術となると心細い経歴である。
 しかしこの程度の者が、「西洋機械熟練之者」ということで十分に通用した時代であった。


 鈴木氏によりますと、高柳は函館で武田斐三郎に航海術を学んでいるんだそうなんです。
 ひいーっ!!! なんで司馬さんは、武田斐三郎がお嫌いなんでしょ。
 たしか、「燃えよ剣」だったと思うんですが、五稜郭の設計者として、ぼろくそけなしておられた記憶が、鮮明にあります。
 しかし、広瀬常と森有礼 美女ありき10に書いておりますが、五稜郭が中途半端なものだったのは、まったくもって斐三郎の責任ではないですし、鈴木氏も指摘され、いろは丸と大洲と龍馬 上で私も書いておりますが、斐三郎は船長としてニコラエフスクまで出かけたほどの航海者でして、実践的な教え方をしたようなのですね。
 鈴木氏は、高柳はその後、明光丸の船長として、上海や香港にまで、無事航海を重ねていると述べておられまして、おっしゃるように、龍馬やその他海援隊の面々よりは、はるかに航海術に長けていたわけです。

 いや、ですね。
 武田斐三郎にしろ、高柳楠之助にしろ、勝海舟や坂本龍馬のような、政治的な周旋(取り持ち)の才はありませんわね。
 しかし、実践的な技術者としての才能は、彼らよりはるかに上ですのに、なぜ司馬さんは、そこをけなしてしまわれるんでしょうか。
 作家にとっての龍馬が、非常に魅力のある素材であったことはわかりますし、娯楽のためには万能の英雄に仕立てることもあり、なんでしょうけれども、そのために他を貶めるのはいかがなものかと、私も思います。

 鈴木氏は、龍馬暗殺の黒幕話にも触れられ、これもばっさり、斬って捨てられています。
 これ、私、昔から思っていたんですけど、龍馬は寺田屋で伏見奉行所の同心を撃ち殺しているんです。現在で言えば、警官殺しです。 
 同じことを鈴木氏が書いておられて、なぜ龍馬暗殺において、それが語られないことが多いのか、不思議です。

 鈴木氏に教えていただいたことが、もう一つ。龍馬英雄伝説の素地が「維新土佐勤王史」に、すでにあった、ということです。
 いえ、私、まったく読んだことがないわけじゃあないんですが、ごく一部を読んだだけでして。
 考えてみれば、「汗血千里駒」の著者、坂崎紫瀾が著者なんですものねえ、ふう。

 話は変わりますが、この「いろは丸事件と竜馬―史実と伝説のはざま」には、新資料、ポルトガル語のいろは丸購入契約書の写真が載せられていて、岡美穂子氏の翻訳文も全文収録されております。
 私、大洲へ出かけましたときに、Mr.K氏にお聞きしたのですが、この資料の出所は確かで、一級の一次資料なんです。
 ただ、ですね。
 鈴木氏は愛媛新聞・平成22年4月23日の記事を典拠に、40000メキシコパタカ(ドル)=一万両とされていまして、これって、非常に、この契約書の信憑性を疑わせる記述なんですね。
 慶應義塾大学学術情報リポジトリ: KOARAに、西川俊作氏の幕末期貨幣流出高の藤野推計について : 批判的覚書があります。

修好通商条約(第5条)において同種同量の原則により定められた協定レートは、メキシコ・ドルまたは洋銀1枚(1ドル)=一分銀3個(3分(ぶ))であった。一分銀4個.(4分)・小判1枚(1両)であったから、メキシコ・ドル4枚で小判3枚(3両)と交換できることになる。
 
 ということですから、40000メキシコドルは、この公定レートで3万両なんです。
 いろは丸と大洲と龍馬 下でご紹介しました紀州藩の資料「南紀徳川史」によりますと、ボードウィンとの借金契約におけるレートは、100メキシコドル(銀貨)=77両2歩で、=75両の公定レートと少々ちがうものですから、3万1千両になるわけです。

 鈴木氏は一方で、これまで基本資料の一つ、とされてきました豊川沙の「いろは丸終始始末」も「信用ができない」と全面的に斬って捨てておられまして、後世にまとめたもので、伝聞が相当にまじっていますし、正確とはいえないのは確かなんですが、唯一の一次資料といえます購入契約書と、照らし合わせてみる価値は、あるでしょう。
 それを全部斬って捨てられた上で、「新聞を典拠に一万両」は玉に傷だよなあ、と思いまして、私、鈴木氏にお電話してみました。
 快く応じてくださいました鈴木氏がおっしゃるには、「岡美穂子先生のチェックを受けている」ということなんです。

 私、もう、どびっくりしまして、いったい愛媛新聞の記事の「40000メキシコドル=一万両」がどこから出た話なのか、今度は、愛媛新聞社に電話をかけました。
 ちょっと存じ上げている記者の方が電話に出られまして、おっしゃるには「大洲で書かれた記事なので、大洲の駐在記者に聞かないとわかりません」ということなんですが、「大洲市側から出た話なんでしょうか?」という私の問いには、「大洲側から出なければ書きません、普通」ということでしたので、Mr.K氏にお聞きするべきなのか、と迷ったのですが、同じく関係者でおられます大洲市立博物館学芸員の山田さまにお電話しました。
 その結果が、これまた驚くべき、でして、「あれは、契約書発見発表の記者会見で質問が出て、岡先生が回答されことです」とのこと。
 ひいーっ!!!!! 先生………

 (追記)愛媛新聞社大洲支局の記者さんと連絡がつき、確認がとれました。山田さまのおっしゃった通りの経緯で、記者会見の内容をそのまま記事にし、独自の検証はなさらなかったそうです。

 えー、「教えてgoo」にある話なんですが、通商条約以前の長崎で、オランダ商人との取り引きは、メキシコドル銀貨が一分銀と等価だったそうですから、南蛮がご専門の先生は、とっさに古いレートでお答えになられたんでしょうか。
 それがそのまま新聞記事になって、ひろまってしまったわけなんですかね、ふう。

 山田さまから、もう一つ、「いろは丸終始始末」の記事中、「国島六左衛門が自刃したときに龍馬が訪れた」といいます、もっとも印象的な場面は、「龍馬はそのとき長崎にいないので、ありえない」という話をお聞きしました。
 鈴木氏もその旨を書いておられまして、私、とりあえず龍馬の書簡を見てみたのですが、その限りにおいては、長崎にいないことの裏付けはとれませんでした。
 山田さまがおっしゃるには、長府博物館が、証拠を持っているとかでして、今度は長府に電話してみるべきなんでしょうかしらん。

 この点以外、「いろは丸と大洲と龍馬 上下」で書いたことにつきましては、私、いまのところ、それほど訂正の必要はないと思っているんですが、大洲でMr.K氏にいただきました「大洲歴史懐古帖 第三版」や、契約書翻訳全文を見まして、一つ、もしかして、と思いましたのは、あるいは、「大洲藩はボードウィンから金を借りていろは丸を買った」のではなく、「もともと薩摩藩がボードウィンに全額立て替え払いしてもらっていて、その借金が残っていた」のかも、と思います。

 これにつきましては、fhさまが寺島宗則について調べておられましたとき、『鹿児島県史料 玉里島津家史料1』を見ておられて、幕府の文久の遣欧使節団に参加していました寺島が、なぜか欧州で薩摩藩の船を買うのに奔走していまして、ボードウィンの周旋でスコットランドに船を発注した旨の資料を発見されたそうなんです。ただ、その船は、いろは丸よりは大きなものだったそうなんですが。

 しかし、契約書におきます船主・ロウレイロの属するデント商会と、立会人のアデリアン商会が、安行丸=いろは丸にどうからむのかは、あいかわらず謎でして、とりあえず、来年の岡先生の論文を楽しみに待たせていただきます。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広瀬常と森有礼 美女ありき13

2010年12月03日 | 森有礼夫人・広瀬常
 広瀬常と森有礼 美女ありき12の続きです。

 えーと、まず。
 広瀬常と森有礼 美女ありき1において、「広瀬姓の幕臣で、旗本は一家しかない」ということが判明いたしまして、以下のように書きました。

「これ(寛政重修諸家譜 )に載っている広瀬家は、一家だけです。初代が、延宝8年師走(1681年1月)に召し抱えられ、徒歩目付。4代目から名前に「吉」がつくようになりまして、勘定吟味方改役。小禄ながら旗本です。
 5代目の広瀬吉利(吉之丞)も勘定吟味方改役で、この人は、「江戸幕府諸藩人名総鑑 文化武鑑索引 下」に出てきます。評定所留役勘定です。
 この家の後継者は、安政3年(1857)の東都青山絵図(goo古地図 江戸切絵図23 東都青山)で、青山善光寺門前の百人町に見える「広瀬吉平」じゃないかと思います。善光寺は現存していまして、現在でいうならば地下鉄表参道駅付近です」


 この広瀬吉利(吉之丞)の後継者なんですが、「寛政譜以降 旗本家百科事典」という本が図書館にあり、おおよそのことが、わかりました。

 広瀬伊八郎、70俵5人扶持。居屋敷・深川伊勢崎町254坪。拝領屋敷・深川寺町通57坪余。安政(1855)小普請戸川支配。

 伊八郎の父親は広瀬茂十郎(小普請)だそうでして、とすれば、広瀬吉利(吉之丞)の孫になるのか、と思えます。
 伊八郎は明治元年帰商。静岡へ行かず、江戸に残ったんですね。
 しかし明治3年、病気になって、養子の専三郎に家督をゆずります。
 専三郎は徳川家に帰藩し、相良勤番組之頭支配、5人扶持になりました。

 この本によっても、広瀬姓の旗本は、この一家しかありません。広瀬吉利(吉之丞)の本国が「下野」とされているのが、ちょっと気にかかりまして、もう一度、「寛政重修諸家譜」で確かめてみる必要があるんですが、ともかく、広瀬常の父・広瀬冨五郎(秀雄)が、旗本ではなかったことは、これではっきりしたと思います。

 広瀬常と森有礼 美女ありき10で書いたことなんですが、広瀬冨五郎=寅五郎としまして、慶応2年以降の寅五郎の動向は、杉浦梅潭(誠)の「箱館奉行日記」、慶応3年の前半も読んでみる必要がありそうです。あと、北海道立文書館の箱館奉行所文書に、ネットにあがっています以外の文書はないのか、というところでしょうか。
 静岡県士族ということは、新政府に仕える道も、帰農(あるいは帰商)の道も選ばず、一度は駿府へ行ったと思われ、静岡へ行った幕臣の史料がないものか、という点も気になっていました。「寛政譜以降 旗本家百科事典」の参考文献により、「駿遠に移住した徳川家臣団」という本があることがわかったのですが、これも国会図書館で見るしかなさそうな文献です。

 また私、広瀬常と森有礼 美女ありき11の内容を裏付ける史料をさがして、大洲まででかけたのですが、ひいーっ!!!なんと、「力石本加藤家譜」の写本を、伊予史談会が所有していまして、近くの図書館にあったんです!!! といいますか、現存する史料では、この写本にしか、明治2年以降の加藤家の話は載っていないようです。
 さっそく、見に行きました。
 明治4年10月、大洲藩上屋敷を加藤家私邸としたい旨を東京府に願った「邸地振替願書」や、中屋敷の処分に触れている同年12月の武田斐三郎(成章)の文書とかあり、私、広瀬冨五郎は、もしかして、大洲藩中屋敷の処分にかかわっていたのではないだろうか、と憶測していたのですが、その可能性が、ありそうな感じなんです。
 ただ、私、この明治のくずし字がろくに読めません!!!
 なにやら、あやしい読み取りでして、母にも読んでもらったのですが、いまひとつ。またまたfhさまと中村さまに解読をお願いしちゃいましたので、また後日。

 本日は、お常さんを主人公にしました短編小説二編の感想を、手短に。

へび女房
蜂谷 涼
文藝春秋


 上の本に収録されています「うらみ葛の葉」は、お雇い外国人でドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツと結婚しました花の視点から、青い目の子を産んだばかりの森有礼夫人・常を描いています。
 ちょっと怪談じみた書き方なんですが、ともかく上手い!!!
 「秋霖譜―森有礼とその妻」の創作ともいえます藪重雄義兄弟説を踏襲なさるなど、ろくに資料を読まれていないんですけれども、思わず引き込まれてしまいますところが、すごい筆力です。
 しかし、さすがに、最後の種明かしには、笑い転げてしまいました。
 有礼はえらい変人ですが、ピューリタニズムとシンクロしたモラリストの薩摩隼人です。絶対に、そんな「倫理」にはずれたこと、しませんってば!!!
 確かに上手いんですが、現実離れのしすぎ、です。
 フィクションはフィクションとしても、時代を映している、という意味のリアリティが、ありません。
 だけど、上手いから、困るんですよね。いくらなんでも、やくざな悪鬼にされたのでは、有礼もうかばれませんわ。鮫ちゃん、怒ってやって!(笑)
 
 史実離れのおとぎ話風お常さんの物語でありながら、時代を映している、という意味での傑作としては、山田風太郎氏の「エドの舞踏会」をあげることができます。


鹿鳴館の肖像
東 秀紀
新人物往来社


 上も開化ものの連作小説なんですが、冒頭の「鹿鳴館の肖像」が、お常さんのお話です。
 これはまた、だれもかれもが苦悩する善人でして、「うらみ葛の葉」を読んだ後では、ほっとするのですが、いくらなんでも、ジョサイア・コンドルの妻・おくめさんが実はお常さんだったって……、荒唐無稽にすぎまして、ちょっと真面目に読む気になれませんでした。

 このシリーズ、続きます。

人気blogランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログへ  にほんブログ村 歴史ブログ 幕末・明治維新へ
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする