郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

アーネスト・サトウ  vol1

2008年04月07日 | アーネスト・サトウ
 アーネスト・サトウは、これまでに幾度か、名前だけは出しましたが、ちゃんと取り上げたことはなかったように記憶しています。
 ここ2、3年、モンブラン伯爵にはまりこんで、fhさまをはじめ、さまざまな方のおかげもあり、少しづつ、輪郭が見えてくるようになり、驚きの連続です。
 調べ初めて最初のころ、モンブラン伯爵王政復古黒幕説において、鹿島茂氏の『妖人白山伯』という小説が、「王政復古はモンブラン伯の筋書きで大久保利通が行った」というようなパロディ小説であることをご紹介したのですが、いや、調べていくにつれ、現実にモンブラン伯が大きく明治維新にかかわっていたことがわかってまいりました。
 フランス艦長の見た堺事件は、フランス軍艦デュプレクス号のプティ・トゥアール艦長が、1868年2月10日(慶応4年1月17日)、鳥羽伏見の戦いの直後、横浜に到着してから、翌1869年6月19日(明治2年5月10日)、ブリュネ大尉をはじめとする函館戦争に参加したフランス軍人を乗せて離日するまで、一年間の見聞を記したものです。
 艦長は、来日からまだ一年もたたない1868年11月14日(明治元年10月1日)、以下のような、実に的確な感慨を述べています。

 われわれ(フランス)の外交政策は、将軍制度というぐらついた構築物の上に、排他と独占に基づく貿易制度の土台を築いたのである。
 それ故これが、イギリス人の敵意を、そして国事に関して外国人が干渉するのを感じて、憤怒している古い考えの日本人や宗教団体の憎悪を、タイクン(将軍)に向けさせることになった。
 薩摩と長門は、このような様々の要因を利用し、イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しを得て、もはや不可避となってしまっていた災難を早めさせたのであった。


 イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しです。
 フランスの外交政策が、「排他と独占に基づく貿易」を指向するようになったのは、ロッシュ公使が来日した元治元年以降のことですから、長州は禁門の変で朝敵となり、幕府と戦うことしか道はなかったわけでして、対外を意識し、外交的に幕府を追い詰めたのは、薩摩です。
 そして、それは鹿島氏のパロディのように、モンブラン伯の筋書きに薩摩が乗せられたのではなく、薩摩が主体的に、イギリス人とモンブラン伯爵を利用したのです。

 で、そのイギリス人です。
 以前にも書いたと思うのですが、慶応3年の10月ですから、ちょうど大政奉還のころ、イギリス海軍伝習団が来日し、築地の幕府海軍操練所において伝習を開始しますし、またこの年、プリンス昭武、動乱の京からパリへ。などでたびたび紹介しましたパリ万国博覧会幕府使節団、プリンス昭武一行を、イギリスは執拗に誘い、自国にて大歓迎してみせますし、当時、幕府が送り出していた留学生の数をいうならば、イギリス留学生が一番多いのです。
 つまり、当時の、といますのは、鳥羽伏見の戦いまでの、ですが、イギリスの公式外交政策は、あくまでも幕府支持がメインであり、かならずしも薩長を支援していたわけではないのですね。

 では、イギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しのイギリス人とはだれか、ということなのですが、これは明白です。
 イギリス本国においては、来日経験を持ち、薩摩密航留学生の面倒をみていたイギリス下院議員ローレンス・オリファントであり、日本においては、在日イギリス公使館の若き日本語通訳官であったアーネスト・サトウなんです。もちろん、二人の活動の後ろには、フランスと幕府の提携による排他と独占に基づく貿易に不満をもった、多数の在日イギリス商人がいたわけなのですが。
 慶応3年後半から明治元年にかけて、大政奉還から王政復古のクーデター、そして鳥羽伏見の戦いへと続く、幕末維新のいきづまるような政治闘争の裏をいうならば、実際にその現場にいて、薩摩の後押しをしたイギリス人とは、薩道愛之助とも名乗ったアーネスト・サトウにほかならず、プティ・トゥアール艦長のいうイギリス人とド・モンブラン伯爵の後押しとは、薩道愛之助と白山伯の後押しと言い換えることも、可能でしょう。

旅立ち 遠い崖1 アーネスト・サトウ日記抄 (朝日文庫 (は29-1)) (朝日文庫 (は29-1))
萩原 延壽
朝日新聞社

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 まずは主に、上記、萩原延壽氏の名著をもとに、アーネスト・サトウ(ErnestSatow)について、語ってみたいと思います。

 サトウ(Satow)という名字は、日本の「佐藤」に音が似ていて、イギリスでは珍しい名字です。
 かつて、萩原延壽氏がロンドンの電話帳で調べたところ、サトウ姓は二人しかいなくて、それはアーネスト・サトウの甥のクリストファ・サトウと、その長男ポール・サトウだったそうです。
 
 アーネスト・サトウの父、デーヴィッド・サトウは、実は、現在のドイツ東部、バルト海に面したハンザ同盟都市・ヴィスマールという港町の出身でした。つまり、移民だったのです。
 ヴィスマールの近くにSatowという村があり、「種蒔く人」というスラブ系の地名なのだそうです。このあたりではごくありふれた名字で、中世西スラブ系のウェンド人かソルブ人によってもたらされたものだろう、という推測です。
 中世のハンザ同盟都市ヴィスマールは、17世紀の半ばからスウェーデン王の統治下に入っていましたが、デーヴィッド・サトウの父、つまりアーネスト・サトウの祖父は、この港町で、ロンドンと取り引きをする貿易業者でした。
 ややっこしい話なのですが、「スウェーデン王の統治下」といいましても、ヴィスマールが神聖ローマ帝国の一都市であることに変化はなく、スウェーデン王はヴィスマールなどを所有することによって神聖ローマ帝国諸侯となりましたので、あくまでもドイツ文化圏の都市であった、ということは、いえると思います。

 フランス革命によって、話はますますややっこしくなります。
 フランス革命とスウェーデンといいますと、もうこれはベルバラの世界、といいますか、シュテファン・ツヴァイクが描いたフランス王妃マリー・アントワネットとスウェーデン貴族フェルゼン伯爵の恋を思い出すんですが、当時、伝統的に親フランス外交によって安定を得て、ロシア帝国に対していたスウェーデン王は、革命に困惑し、ロシアと同盟を結ぶにいたります。
 しかし、ナポレオンの台頭により、経済的混乱に見舞われると同時に、ロシアとの同盟も破れ、戦争はさけられない情勢となって、1803年、ヴィスマールは、神聖ローマ帝国諸侯の一人であったメクレンブルグ大公に売り払われます。
 このメクレンブルグ大公がナポレオンの同盟軍に加わったため、1806年、ヴィスマールは大陸封鎖令にまきこまれるんです。ナポレオンのイギリス封じ込め作戦です。ロンドンとの取り引きを家業としていたサトウ家は、これでは食べていけません。
 1808年かあるいはその翌年、サトウ家は、先祖代々住み慣れたヴィスマールを後に、ラトヴィアのリガに移住します。リガにはドイツ人が多く住み、ドイツ語が通用していたんです。このとき、アーネスト・サトウの父、デーヴィッド・サトウは、兄が4人、姉が1人、弟が3人という大家族の一員で、7、8歳でした。
 1812年、ナポレオンがロシアに侵攻し、サトウ家はさらなる避難を余儀なくされ、11歳のデーヴィッドは、2年間、商船に乗り込んで世界をまわります。船長のボーイをしていたのだろう、というのが、アーネスト・サトウの推測です。
 デーヴィッドは14歳でリガの実家に帰り、数年間の学校教育を受け、シュナッケンブルグという人物の経営する商会で、貿易業を見習います。1825年、24歳になった年、雇い主のシュナッケンブルグと兄の出資を得て、ロンドンへ渡り、やがて金融業、不動産業を営むこととなりました。
 8年の後、デーヴィッドは、イギリス人で、法律関係の代書人の娘であるマーガレット・メイスンと結婚し、ヴィクトリア朝のロンドンにおいて、中流といえる一家を築き、イギリスに帰化します。

 アーネスト・サトウは、1843年(天保14年)6月30日、ロンドンのサトウ家の三男として生まれました。
 早世した者も含めますと、兄2人のほかに姉が5人いますし、弟が3人。11人兄弟という大家族です。
 西郷従道、伊東祐亨、品川弥二郎、田中光顕などと同じ年です。
 桐野利秋よりは5つ年下、1833(天保4年)生まれのモンブラン伯爵より10歳若いことになります。

 サトウ家が、かならずしも典型的なロンドン中流家庭、といいきれないのは、やはり家主デーヴィッドが移民であったことと無縁ではありません。デーヴィッドは、マルティン・ルターにはじまるドイツ・プロテスタント、ルーテル会派の熱心な信者だったのです。
 18世紀から19世紀ヨーロッパの宗教観は、国といいますか、地域と階級によって、かなり大きなちがいがあったように感じられます。
 フランツ・リストの愛人であったマリー・ダグー伯爵夫人は、フランス革命を逃れてドイツに亡命したフランス王党派のフラヴィニ子爵と、フランクフルトの銀行家ベトマン家の娘との間に、1805年といいますから、デーヴィッド・サトウに4年遅れて生まれますが、フランス貴族の父親について、以下のように記しています。坂本千代氏著「マリー・ダグー 19世紀フランス 伯爵夫人の孤独と熱情」よりの引用です。
 
 彼は気質的にまったくのガリア人であり、夢想にも、熱狂にも、形而上学にも、音楽にも縁がなかった。信仰心にはそれ以上に縁がなかった。そんなものは当時の貴族のものではなかったのだ。彼の読む作家はホラティウス、オヴィディウス、ラブレー、モンテーニュ、ラ・フォンテーヌ、そしてなによりヴォルテールだった。わたしに書き取りをさせるために彼が一部分を選び取り出すのは、異教のあるいは世俗のこのような作品からであって、けっして聖書からではなかった。私は神話を書きながら字を習ったのである。聖母マリアの受胎告知を知るずっと前にプロセルピナの誘拐を知った、まぐさ桶と幼な子イエスをまだ知らぬ頃すでに幼いヘラクレスの驚くべき揺りかごに感激していた。

 つまり、聖書より先に、ギリシャ・ローマ神話を知ったわけですね。
 マリー・ダグーはフランクフルトで生まれ、ほどなくフランスに帰国しますが、フランスで生きる以上、カトリックでなければ将来よい結婚は望めない、という父方の祖父母の意見にしたがい、カトリックの洗礼を受けます。信仰心ではなく、いわば冠婚葬祭のためのカトリック、日本の葬式仏教に近い感じがします。
 ところが、これに異議を唱えたのが、母方、フランクフルトのベトマン家の祖母でした。
 ベトマン家はルーテル会派で、一家の女主人である祖母は、「聖書の教えと信仰箇条を厳守」する熱心な信者だったのです。ベトマン家は大ブルジョアで、中流商人のサトウ家と階層はちがいますけれども、ドイツ語圏のルーテル会派という点では同じで、無信仰に近いフランス貴族とは、大きく宗教意識がちがっていたことがわかります。

 ロンドン東北部クラプトン地区。公共緑地がひろがり、テラスハウスが並ぶ、品のいい中流階級の住宅地で、アーネスト・サトウは生まれました。ヴィクトリア女王が18歳で即位して、6年後のことです。
 サトウ家は大家族でしたが、兄弟姉妹、みな幼少のころから家庭教師について、ドイツ語、フランス語はもちろん、ギリシャ語、ラテン語という古典の基礎を学んでいたといいますから、両親は教育熱心であり、中流といえるだけの財力はあったようです。

 わたしの父は非常にしつけがきびしく、われわれは父のいいつけには絶対に服従しなければならなかった。父のいいつけをひどく無視するようなことをした場合、われわれはかならず鞭でたたかれるという罰をうけた。

 と、後年、アーネスト・サトウは回顧しています。
 そして、「本当に信仰心のあつい父と母」でもありました。
 毎日、朝晩、聖書の一章を家族で読み、日曜日にはそろって教会へ出かけた後、「すべての玩具が取りあげられ、平日のような読書は禁じられ、ただモーゼの『十戒』をくりかえし暗唱し、さらに聖書を読みつづける」ような、家庭だったのです。
 これが、イギリスの典型的な中流家庭とちがっていたことは、サトウ家において「国教徒は、宗教にあまり関心のない、世俗的な人々である」と、見られていたことでもわかります。
 イギリスでは、上流階級をはじめとして、イギリス国教会、つまりは「国教徒」が主流であったからです。

 アーネストは、ほっそりとした利発な少年で、教育熱心な父母の期待の星でした。
 近所の私立塾で初等教育を受けた後、13歳で、ミル・ヒル・スクールへ進学します。
 ミル・ヒル・スクールは、現在では名門パブリック・スクールの仲間入りをしているそうですが、当時はそうではありませんでした。イートン、ハロー、ウインチェスターなど、ジェントルマン階級の子弟を教育する名門パブリック・スクールには、国教徒でなければ入学できず、そういう教育の場からはみだした、非国教徒の子弟の教育の受け皿が、ミル・ヒルだったんです。
 同じ理由で、非国教徒の移民の子であるアーネストには、オックスフォード、ケンブリッジという名門大学への道が、事実上閉ざされていました。この二校が非国教徒に開かれたのは、1871(明治3年)からのことです。
 ミル・ヒルでの教育は、ラテン語、ギリシャ語を中心とする古典で、しかも宗教的な規律がきびしく、早熟だったらしいアーネストにとっては、「退屈な学校生活」でした。
 1859年、16歳のアーネストは主席でミル・ヒルを卒業し、ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジ(UCL)の奨学金を得て、進学します。UCLは、非国教徒の優秀な子弟を積極的に受け入れていた自由主義的な大学で、後に、森有礼などの薩摩藩イギリス密航留学生たちも、この大学で学ぶことになります。
 荻原氏は、当時、「神不在の大学」といわれていたUCLの学風から、アーネストは父母の教えを離れて、無神論者に近くなったのではないか、と推測されています。

 1861年(文久元年)アーネスト18歳、イギリス外務省は、中国と日本の領事部門に所属する通訳生の推薦を、いくつかの大学に求め、UCLにも3名がわりあてられました。推薦を受けた後、さらに採用試験を受けるのですが、アーネストは、これに最年少で応募し、主席で合格します。
 これが、生涯にわたるアーネスト・サトウと日本の縁のはじまりだったのですが、なぜ彼が、まだ欧州ではよくは知られていなかった極東の島国へ渡る決心をしたのか、次回vol2では、そこらあたりから、語っていきたいと思います。


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コメント (33)
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