郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

楠本イネと大村益次郎

2017年01月02日 | シーボルトの娘
 あけましておめでとうございます。

 昨年、桐野利秋in宝塚『桜華に舞え』観劇録で躓きまして、ブログを書くのがおっくうになり、肝心のことを書きそびれました。
 防府の山本栄一郎氏が、大村益次郎の伝記を出されました。



 上は、東京都世田谷区の松陰神社のお祭りで、本が売られていた様子です。
 発行者は以下ですので、読んで見られたいと思われましたら、お問い合わせください。

 大村益次郎没後一五〇年事業実行委員会
 TEL050-5207-1118
 Eメール:suzenjik@c-able.ne.jp
 〒747-1221 山口市鋳銭司5435-1

 本の表紙は大村神社なんですが、その案内動画がありました。

大村益次郎墓所 鋳銭司郷土館と大村神社



 私は以前、山本氏のご案内で、お参りしたことがあるのですが、車がなければ、行くのがけっこう不便な場所にあります。

 新資料で変わる楠本イネ像でも書いたのですが、みなもと太郎氏の「風雲児たち」幕末編・第8巻には、宇和島時代の村田蔵六(大村益次郎)とおイネさんが出てきます。

風雲児たち 幕末編 8巻
みなもと太郎
リイド社


 このコミックでは、同居するイネと蔵六に、あらぬ噂が立ったため、蔵六はイネを卯之町の二宮敬作邸から通わせることとし、妻のお琴さんを呼び寄せます。
 お琴さんの実像は、山本氏に言わせますと「情熱的に恋する妻」だそうなんですね。
 山本氏は、宇和島で調べた史料も加味し、「蔵六に村医者としての生活能力がなかったため、琴の実家は無理矢理離婚させたが、蔵六を愛してやまない琴は親の言うことを聞かず、宇和島まで後を追って押しかけてきた」と結論づけておられます。うーん。蔵六のどこがよかったんでしょうか? 私にはまったく理解ができません。きっと、おイネさんも理解ができなかったはず、です(笑)

 もう一つ、大村益次郎とおイネさんには、接点があります。

浅丘ルリ子vs加賀まりこ ご臨終の蔵六先生


 NHK大河「花神」の名場面です。いや、私はまったく見ていないので知りませんでしたが、加賀まりこさんがお琴さんを演じてたんですね。
 
 ところで、新資料で変わる楠本イネ像のコメント欄に書いておりますが、私は「イネが蔵六の最後を看取った」 というのは司馬遼太郎氏の作り話ではないかと思っていました。
 いや、蔵六は大阪病院に入院してボードウィンの治療を受け、その大阪病院には、イネの娘高子の夫で、二宮敬作の甥である三瀬周三が、ボードウィンの通訳として勤務していたわけですし、三瀬周三もイネとともに、蔵六に学んだことがあるわけですから、どうやら当時、神戸に住んでいたらしいイネさんは、見舞いにくらいは行ったのではないかと思われます。しかし、イネさんは産婦人科医であって、看護婦ではありません。恋愛関係が嘘なら、看護をしたことも嘘でしょう。

 ところが、山本氏によれば、昭和19年に書かれました大村益次郎の伝記には、「瀕死の蔵六のもとにイネが駆けつけ、献身的な看護に務めた」とあるのだそうです。
 で、私、いろいろ調べましたところ、どうやら、昭和3年に大洲の史家・長井音次郎が刊行しました「蘭学大家 三瀬諸淵先生」が、「イネが横浜から駆けつけ献身看護した」説の初出だったようです。長井音次郎は、高子さんにいろいろ手紙で問い合わせたりしているのですが、それは昭和3年よりあとの話ですし、現存します高子さんの語り残しや書翰で、イネさんが蔵六を看護したことを裏付けるものは、まったくありません。いえ、見舞ったということさえも、裏付けられてはいないんです。

 追記
 詳しくはコメント欄を見ていただきたいのですが、あらためて資料を検討してみました結果、イネが、宇和島から神戸経由でかけつけ、蔵六臨終の最期の3日間、大阪病院で看護した可能性は、かなり高いのでは、と思います!


 山本氏の「大村益次郎」は、これまで活用されていませんでした宇和島の史料を使うなど、非常に興味深いものなのですが、ご本人いわく、まだまだ発展途上の産物だそうでして、軍事的な業績なども、従来説に囚われないご研究が待たれます。
 私、桐野の指切断の件で、ちょっと上野戦争の史料を調べかかったんですが、ほんと、大変ですわ。

 一つだけ。上野戦争に際して、なんですが、作戦会議を仕切った蔵六が、薩摩藩を黒門口にまわしたことに対して、西郷が「薩摩藩兵を皆殺しにするおつもりか」と聞き、蔵六が「そうだ」と言ったというエピソードがあります。
「防長回天史」に出てくるもので、山本氏も引用されています。

 ただ、私、なぜこの時期、西郷隆盛が身を引いて、蔵六を立てたのか、について、最近、ある推測をするようになりました。
 「消された歴史」薩摩藩の幕末維新に書きました以下の部分。

 「その篤姫さんが、70万石で駿府移住という決定に愕然としまして、西郷を呼びつけても逃げられ、怒り心頭に発して、仙台藩主やら輪王寺宮さまやら会津藩主などに、「悪辣な薩長を討って!」と手紙を書きまくっていましたことは、私、この安藤氏の著作で初めて知りまして、どびっくりしました」

 私、篤姫のその書翰が活字化されています天璋院篤姫展の図録(発行・2008年 NHK、NHKプロモーション)を古書で手に入れ、見てみたのですが、いやはや、もう、びっくりの2乗です。実物はすべて、仙台市博物館所蔵ですが、博物館での刊行物には載ってないみたいです。
 図録に収録されています、書翰類を利用した藤田英昭氏の論文「知られざる戊辰戦争期の天璋院」は、もっと注目されてしかるべき、です。

 あくまでも仮説ですが、篤姫の激怒に接して、西郷は、すっと身をひいたのではないんでしょうか。
 で、蔵六の遠慮の無いやり口と篤姫の間に入って、海江田信義は一人で苦労し、蔵六への怒りを募らせていった、と考えれば、当時の状況が読み解けるように思います。
 しかし……、すごいです! 篤姫。
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楠本イネinミステリアス宇和島

2016年05月18日 | シーボルトの娘

 楠本イネとイギリス医学の続きです。

 この5月、宇和島へ泊まりがけで史料撮影に行くことは、早くから計画していました。
 イネさんの宇和島での活躍について、財団法人・伊達文化保存会さんに史料があり、事前に許可願いを出し、出向いていって写真撮影するしかない、とわかったものですから、ついでに、評判の木屋旅館に泊まれたらなあ、と思ったんですね。



 ちょうど、山本栄一郎氏も、大村益次郎の宇和島時代の史料を撮影なさりたい、と言っておられましたので、お誘いし、いつものように中村さまもお誘いしました。なにしろ木屋旅館さんは、一棟貸し切りで、最高10人泊まれる広さです。人数は多い方がいいと、妹も誘いました。
 なんとか2泊、木屋旅館を押さえることができまして、となれば、ついでにイネさんが住んでいた場所がわかればなあ、と、なにげに検索をかけたんです。

 

 その結果、宇和島に「オランダおイネの三角屋敷跡」という看板があるということを知ったことが、すべての始まりでした。
 立てられたのは平成24年。4年前ですから比較的新しく、宇和島市観光協会が立てたもののようでした。
 おイネさんが「三角屋敷」に住んでいた、なんて、聞いたことがなく、私、まずは宇和島市観光協会に電話して、「看板の典拠はなんなんでしょうか?」と聞いてみました。
 最初、電話に出られた女性は、「テンキョ? なんのことですか?」と、なにを問われているのかわからない様子だったのですが、押し問答の結果、「南予文化会館の館長にお聞きになってください」との返答が得られました。

 さっそく、電話をかけましたところが、「呉秀三の『シーボルト先生 其生涯及功業』に出てきます」とのお答え。
 「えっ?」驚きでした。
 呉秀三は、母親が箕作阮甫の娘、父が広島藩支藩新田藩の御殿医で、明治、東京大学で医学を学び、ドイツ留学を果たして、東京大学医学部精神科の教授だった人です。シーボルトの息子たち、アレクサンダー、ハインリッヒと親交があり、明治29年、シーボルトの生誕百周年に、『シーボルト先生 其生涯及功業』という小冊子を出版しました。大正になってその改訂版の発行が、渡来百周年記念ということで企画されたのですが、関東大震災で遅れ、大正15年に発行されました。
 そして、その大正版そのままの体裁で(だと思います)、昭和54年に復刊されたのですが、このときはなんの記念だったのか、私は存じません。

 
シーボルト先生 其生涯及功業
呉 秀三
柳原書店


 ともかく、この大層な装丁の本は、シーボルトに関します基本文献でして、現在、内容の誤りもちらほら、発見されてきてはいるのですけれども、イネさんの伝記を書こうと思えば、絶対、目を通しておくべき本なんですね。
 よっこらしょと、重たい本を取り上げ、見返してみましたところが、館長さんのおっしゃる通りに、ありましたっ!(P540)

 (イネは)毎年宇和島に赴きて侯夫人の湯薬に侍したりといふ。この時富澤町の三角屋敷に住まひたり。 

 
 「この館長さん、ただ者じゃない!」と、私、いろいろと質問をさせていただきまして、新資料で変わる楠本イネ像で書きました新資料、「卯之町に約7カ月間滞在していたことを示す書翰」の件を教わりました。
 こちらにつきましては、西予市卯之町の講演で発表された資料ですので、卯之町紀行 シーボルトの娘がいた街 前編の最後に出てまいります先哲記念館で詳しいことを聞かせてもらえるとのこと。電話しましたところ、「来ていただければ資料を差し上げます」と いう話でした。
 結局、宇和島へ行く初日、西予市に寄りまして、中村さまを案内しがてら、先哲記念館で資料をいただき、お話もうかがったような次第です。

 で、南予文化会館の館長さんには、いろいろと情報をいただきましたし、宇和島で合流しました山本氏も誘い、中村さまもご一緒に、伊達文化保存会での資料撮影をすませた後に、御礼に出かけました。
 そのとき、名刺をいただいたのは、私一人です。
 で、私、名刺の裏を返してみることをしませんで、すっとしまいこみました。

 

 伊達文化保存会は、上の伊達博物館のすぐそばにあります。パークス来航150周年の旗がひるがえっておりますが、パークス宇和島来航時には、おイネさんの娘の高子さんも宇和島にいて、伊達家の奥の夫人や姫君方とともに、一行を迎えました。
 
 

 これまたそのそばにあります伊達家の幕末の庭園、天赦園です。やはり、もう少し早く、藤の季節に来たかったなあ、と。

 翌日、私と妹と山本氏は、午前中のバスで帰途へ。
 中村さまは、お一人、「せっかくここまで来たからもう一泊して、愛南町の紫電改展示館へ行きたい」ということだったんですね。
 そしてその翌日、松山空港から夜の飛行機で東京へ帰られる中村さまが、わが家に寄ってくださいました。

 前日の夕方、もう一度、宇和島の街を見物していらした中村さまは、偶然、南予文化会館の館長さんにお会いしたんだそうです。
 「えーと、なんてお名前でしたっけ? ちょっと、あんまり聞いたことのない名字の方ですよね」とおっしゃる中村さまに、「そうです。名刺をいただきましたので、お見せします」と私。
 取り出した名刺を、中村さまはひっくり返し、「あら、作家でいらしたんですか!」
 「えっ? えええええっっっ!!!」と、仰天しましたのは、私です。

 名刺の裏には、「宇神幸男」というペンネームに、代表作まで印刷されていまして、そのときまで気づかなかった自分に呆然としながら、検索をかけました。

宇和島藩 (シリーズ藩物語)
宇神 幸男
現代書館


 もともと、「郷土史家の館長さん」と思い込んでいたほどですので、上の「宇和島藩」には驚きません。しかし。

神宿る手
宇神 幸男
講談社


 30年ほど前に出版されました処女作は音楽ミステリー。デジタル版が出ていましたので、さっそく読んで見ました。
 ミステリー、というよりも、個性的で、世に入れられないピアニストをなにより浮き彫りにしたかったのでは、と思われる作品なんですが、最近、小説嫌いになった私が、いっきに読んでしまったほど、熱意が満ちていました。
 アマゾンのレビューに書いている方がおられますが、現実に「宇神幸男」氏が、同時進行で、「幻のピアニスト」エリック・ハイドシェックを宇和島に迎え、南予文化会館でのコンサートを成功させ、ライブ録音して、名盤の誉れ高いCD発売にまで関係しておられたんです。

伝説の宇和島ライブ1 テンペスト・版画
クリエーター情報なし
キングレコード


 上の盤のテンペストは名演として有名だそうですが、下の「月光」もすばらしいです。

月光 ハイドシェック 1989年宇和島市ライブ公演


 宇和島は、四国の端の小都市で、伝説のライブが行われた当時、人口10万そこそこ。現在は、86000人ほどです。
 にもかかわらず、迎え入れる文化の輝かしさは、いったい、なんなんでしょうか。
 イギリス公使パークスが来航した150年前にも、わずか10万石ながら、奥の侍医としてイネさんを迎え入れ、奥の女性たちは自由闊達にイギリス人に話しかけ、殿様と家老がスコットランド・ダンスを踊って宴席を盛り上げたわけですが、こんな藩は他にありませんでした。

 司馬遼太郎や吉村昭も泊まったという老舗、木屋旅館は、平成24年、ハイセンスに生まれ変わりました。



 玄関です。



 一部、透明のアクリル板なのが、なんとも新鮮です。




 洗面所、お風呂などの水回りは、モダンで、使い勝手も悪くありません。



 司馬さんが好きだったという2階の部屋は、居心地のいいライブラリーに。



 朝食のパンは日替わりです。この日はサンドイッチでした。
 夕食はついていなくて、食べに出るのですが、すぐ近くの桃太郎という割烹の魚介料理が、超美味でした。

 みなさまもぜひ一度、宇和島へお越しください。

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楠本イネとイギリス医学

2016年04月26日 | シーボルトの娘

 新資料で変わる楠本イネ像の続きです。

 最近、「井上武子」の検索で、アクセスが急増していまして、どうも、NHKBSプレミアム「英雄たちの選択 明治トップレディーたちの華麗なる変身~条約改正に挑んだ女たち」に井上武子が登場したから、ではないか、と思うのですが、いや、鹿鳴館外交はものの見事な失敗でしたのに、よくやりますねえ、NHK。
 実のところ、武子さんに関しましては、ほとんど史料がないんです。
 数冊にわたります大層な井上馨の伝記「世外井上公伝」に、ですね。外交で活躍したはずの武子夫人が、ほとんど、まったく、登場しません。

 えー、これ、けっして普通じゃありません。
 薩摩川内出身の外交官・園田孝吉は、井上馨の世話で、外交官夫人として活躍できそうな二度目の妻・けいを娶るのですが、大正15年発行の「園田孝吉傳」は、けい夫人の記述に一章、かなりなページをさいています。
 詳しくは、広瀬常と森有礼 美女ありき4をご覧ください。

 まあ、それでなのか、どーなのか、井上武子のことをブログに書いている人もあまりいなくて、ものすごく古い記事なのですが、このブログがヒットしたようです。いまさらですが、ついでに読んでいただけないものかと、「生糸と舞踏会」 のカテゴリーを新設しました。いや、なにしろ、生糸とモンブラン伯爵とフランスと小栗上野介とバロン・キャットと井上馨の汚職は、ひとつながりで、私がこのブログで追求していますテーマです。

 それは、ともかく。
 今回は、おイネさんとイギリス医学のお話です。
 おイネさんは、父・シーボルトの弟子たちから医学を学び、再来日したシーボルトからも直接教わっていますから、ドイツ医学の人です。
 にもかかわらず、その晩年、楠本家の跡取りに決めました孫の周三を、慈恵医科大学に進学させようと、精力を傾けたようなのですね。

 えーと。
 慈恵医科大学の創立者は高木兼寛。
 薩摩藩郷士だった高木兼寛は、同藩の蘭方医・石神良策に師事し、石神とともに戊辰戦争に従軍。
 帰藩後、藩の開成所洋学局で学んでいました。

 石神良策は、戊辰戦争で、薩摩藩の要請を受けて派遣され、従軍していたイギリス公使館の医官・ウィリアム・ウィリスがに出会い、心酔します。
 このときの功績により、明治新政府は、ウィリスを東京医学校(後の東大医学部)教授として招くのですが、当時、西洋医学を学んだ大方の日本人医師は蘭方医で、イギリス医学になじみがありません。
 蘭方、といいましても、オランダ医学とは、イコールドイツ医学なわけでして、結局、ドイツから教授を招いた方がいい、という話になったんですね。
 ウィリスは、自発的に退職し、かねてからイギリス医学を取り入れようとしていた薩摩藩に招かれて、鹿児島医学校長となります。
 もちろん、石神はウィリスとともに鹿児島へ帰るのですが、まもなく石神は、中央の海軍病院に呼び返されます。

 薩摩閥が中心となりました海軍は、全面的にイギリス式を取り入れようとしていまして、病院だけドイツ式では、なにかと不自由だったんですね。
 陸海分離が議論されていた時期でして、同時に医学も分離し、ドイツ医学が東大、陸軍を席巻します中で、海軍だけはイギリス式にしようと石神は奮闘し、それを成し遂げます。
 そのころ、高木兼寛は、鹿児島医学校でウィリスに認められ、教授になっていたのですが、石神に呼ばれて中央の海軍病院に移り、イギリス留学を果たして、結果的に西南戦争の時期、日本にいませんでした。

 それで、以前にも書いたような気がするのですが、高木兼寛の最大の功績は、海軍における脚気の撲滅です。
 原因がわかっている現在、脚気は恐ろしい病気ではありませんが、当時は死者も多く、和宮さまもその夫の将軍家茂も、若くしての死因は脚気です。
 高木兼寛は、観察の結果、栄養の偏りによるものと見て、兵食を白米から麦飯に転換することで、劇的に海軍の脚気を減らします。
 ところが陸軍と東大医学部は、脚気細菌原因説をとって、日清、日露戦争で、膨大な脚気による戦病死者を出すんですね。
 
新装版 白い航跡(上) (講談社文庫)
吉村 昭
講談社


新装版 白い航跡(下) (講談社文庫)
吉村 昭
講談社


 高木兼寛の活躍につきましては、吉村氏の「白い航路」が詳しいのですが、なぜかこの本、石神良策のことはほとんど出てきませんし、なぜ日本がドイツ医学一辺倒になってしまったのか、という点も、詳しくは書かれていません。

胡蝶の夢(一)~(四) 合本版
司馬 遼太郎
新潮社


 司馬遼太郎氏の「胡蝶の夢」も、幕末から明治初期にかけての西洋医学導入の物語なのですが、石神良策については、あまり出てきません。
 石神は明治8年に病没しているのですが、実は、おイネさんと二人並んで映った写真があるんですね。おそらくは石神の晩年、海軍病院時代、と思われ、二人ともかなり年がいった感じです。
 その写真と石神良策の生涯について、太田妙子氏が論文を書いておられるのですが、発表の場が、「医譚」といいますあまり一般の目に触れない雑誌なんです。
 このたび、中村さまがそれを、国会図書館で見つけてくださったような次第で、私は、イネと石神の交友関係に目を開かれました。

 おイネさんの異母弟、アレクサンダー・フォン・シーボルトは、在日イギリス公使館に、通訳官として勤めていまして、ウィリアム・ウィリスとは、とても仲が良かったようなんです。なにしろウィリスは、イギリスへ渡ったアレクサンダーが訪ねていくから歓迎してやってくれと、兄嫁に手紙を書いているほどです。
 さらには、イネさんが宇和島で、パークスイギリス公使とともに来訪してきました弟のアレキサンダー、そしてウィリスと会っている記録もあります。
 当初私は、そこらあたりからのみ、おイネさんとイギリス医学の関係を考えていたのですが、なるほど石神良策の線もありか、とびっくりです。

 ところで、太田妙子氏によりますと、アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」下巻p223に、「石神はシーボルトの娘イネを娶った」という明らかなまちがいがある、とのことで見てみましたら、本当にそう書いてありました。
 サトウは、これ以前、長崎でおイネさんに会っていますし、アレクサンダーから、かなり立ち入った話を聞いていた可能性も高いんですね。
 私は、サトウが石神に会って、高子さんの父・石井宗賢と勘違いしたのではないか、と思います。

一外交官の見た明治維新〈下〉 (岩波文庫 青 425-2)
アーネスト サトウ
岩波書店



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新資料で変わる楠本イネ像

2016年04月13日 | シーボルトの娘

 『オランダおいね』と戦後民主主義の続きです。

 みなもと太郎氏の「風雲児たち」に、おイネさんが出てくることは、オランダおイネと楠本イネで書きました。


風雲児たち 幕末編 (8) (SPコミックス)
みなもと 太郎
リイド社


 上の8巻は宇和島の話でして、イネはオランダ語解読を深く教わるために、大村益次郎と同居しておりましたところが、あらぬ噂がたつんですね。これは、大村益次郎の伝記でそんなことを書いているものもありますので、まあ、いいんですが、その対策として大村はイネに、「卯之町の二宮敬作のところに住まわせてもらって、宇和島まで通ってこい。卯之町は近い」と言い、イネは毎日通った、というんです。
 「卯之町から宇和島まで毎日通ったなんて、ありえん!!!」と、私、のけぞりました。

 よくは知らないのですが、旧道でいえば片道20数キロ、あるはずです。しかも、法華津峠というとんでもない難所を通ります。私、車でですが、旧道の峠の展望台に行ったことがあります。
 西村清雄という松山藩士の息子が、クリスチャンになっていまして、明治37年、宇和島へ宣教に行った帰り道、この法華津峠を通って、日も暮れかかり、あまりの心細さに、自分を励まそうと、「山路こえて、ひとりゆけど、主の手にすがれる身はやすけし」という賛美歌を作ったことで、有名な峠です。

法華津峠パノラマビユ-


 往復すれば、十分マラソンの距離。しかも、狼でもでかねない山道です。毎日通うって、はあ。
 いや、これにあきれたあとで、吉村昭氏の「「ふぉん・しいほるとの娘」を読みかえしていましたら、すっかり忘れていたのですが、実はこれに、卯之町から宇和島まで毎日通った、というようなことが書いてあったので、どびっくりです。ただ、吉村氏は、イネ一人ではなく、三瀬周三を用心棒にして二人で通ったような書き方で、まあ、昔の人ならば、十分に歩ける距離ではあるのでしょうけれども、それにしても、毎日というのは、ねえ。ありえません。
 
吉村昭「ふぉん・しいほるとの娘」(長崎県観光)



 まあ、ですね。そういった創作部分は置いておきましても、現在、吉村昭氏のイネ像も、相当な変更を迫られているように思います。
 実は、ですね。ブランデンシュタイン家所蔵シーボルト関係文書、という史料群がドイツにあります。
 シーボルトの男系の血筋は、ドイツでは絶えているのですが、シーボルトの末娘がグスタフ・フォン・ブランデンシュタインと結婚しまして、その息子のアレキサンダーが、ヘレネ-・フォン・ツェッペリン伯爵令嬢と結婚し、子孫を残しました。結局、シーボルト家の多くの史料が、この末娘の血筋に引き継がれ、残っているのですが、長く未整理のままに置かれ、現在まだ、研究者の方々が解読中、なんですね。

 ブランデンシュタイン家所蔵シーボルト書簡の調査解読研究

 上のリンクにもありますように、シーボルトがフリーメーソンだったことがはっきりしましたし、まあ、私としましては、モンブラン伯爵とシーボルトの接点はそれなのではないかな、と興味が尽きませんが、この史料の中には、滝さんの手紙など、イネさんに関する情報も含まれ、これまで伝えられてきたことが、ちがっていたり、するんですね。

 楠本イネの卯之町滞在裏付け 新史料の手紙発 2016年01月17日(愛媛新聞オンライン)

 愛媛県西予市などは16日、日本初の産科女医、楠本イネ(1827~1903年)が、18歳の時に同市宇和町卯之町に約7カ月間滞在していたことを示す新史料が見つかったと発表した。イネの母タキがシーボルトへ送った手紙をシーボルト研究者の石山禎一さん(79)=相模原市=が読み解いた。イネは13~18歳の5年間、医学を志して卯之町にいたとされてきたが、公文書などの記録はなかった。西予市は「(新史料は)定説を大きく改める」としている。
 市などによると、手紙は1845年11月1日付。オランダ語で表記され、タキが口答したものを通訳者が記述したとみられる。手紙には「45年2月におイネは伊予国へ1人で旅立ちました。その国はあなた様の門人二宮敬作がおります」とあり、続けて「備前国の(産科医師の)石井宗謙に会いに行き、確か60日滞在している」と書かれていることから、45年2月ごろから約7カ月間、卯之町にいたことがうかがえるとしている。
 

 まあ、そんなこんなで、来月、宇卯之町と宇和島に、史料さがしに出かける予定です。

 
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『オランダおいね』と戦後民主主義

2016年03月20日 | シーボルトの娘

 オランダおイネと楠本イネの続きです。

 「まんが日本絵巻」の「おらんだおいね」を見つけました!

おらんだおいね/他一編



「まんが日本絵巻」は、1977年(昭和52年)から1978年(昭和53年)、TBSの放送だそうでして、前回ご紹介しました1970年(昭和45年)のポーラテレビ小説、実写版「オランダおいね」に似ているといえば似た感じです。
 どこからどー思いついたものなのか、見当もつきませんが、両方とも、幼いイネは自分の父がだれなのか知らず、オランダ人であることも知らず、しかし、容姿が普通の日本人とはちがうので、他の子供たちから「あいのこ」と呼ばれ、いじめられたりします。
 もしかして、「あいのこ」が差別用語のような使われ方をしはじめたのは、敗戦後の米軍占領期からのような気がするのですが、ちがうのでしょうか。
 どうも、幕末の日本が混血児いじめ蔓延の封建社会のように描きますTBSのまんがとドラマは、占領期のコンプレックスとウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムから生まれた、現代的で通俗的な混血児像をもとに、幕末の物語を作っているような気がします。

 双方、シーボルト事件で長崎払になっていたはずの二宮敬作が、長崎に住んでイネのめんどーをみていたりのどっびくり設定が多いのですが、案外案外、ちゃんと調べている、かもしれない部分もありまして、「中山作之進」通詞を出してきているのには、びっくりです。

 えーと。
 シーボルト記念館館長・織田毅氏の論文によりますと、長崎の通詞・中山作三郎(1785年の生まれなので、シーボルトより十ほど年上です)は、シーボルトと相当に深いつきあいがあり、二宮敬作とも懇意だったみたいなんですが、シーボルト事件にはかかわっていません。
 一方、小通詞並の堀儀左衛門は、シーボルト事件にかかわって、押し込め、免職となるんですが、作三郎の五男・達之助(文政6年・1823年生まれで、イネより四つ年上)が堀儀左衛門の養子になって、堀達之助と名乗るんです。

開国と英和辞書 評伝・堀達之助
堀孝彦
港の人


 上がちゃんとした評伝ですが、ちょっと高価です。
 読みやすくて、手頃な堀達之助の伝記といえば、小説ですが、吉村昭氏の「黒船」でしょうか。


黒船 (中公文庫)
吉村 昭
中央公論社


 
  実は私、堀達之助、ちらっとですが、以前、モンブランがらみで書いたことがあります。
 明治初頭の樺太交渉 仏から米へ 後編下です。
 
 モンブランが短時間なりとも函館に滞在したとしましたら、おそらく、堀達之助に会ったでしょう。
 堀達之助は、長崎通詞の家に生まれ、ペリー来航時に活躍しました洋学者で、慶応元年(1865年)から箱館奉行所で通訳を務め、そのまま新政府に奉職。明治2年には開拓使権少主典として、函館にいました。彼の次男・堀孝之は五代友厚と親しく、薩摩藩士となって、幕末留学生を伴いました五代の渡欧に同行し、通訳を務めて、モンブランのインゲルムンステル城に滞在したんです。
 

 堀家は、薩摩とのつながりが深くて、分家が薩摩藩士になっているくらいでして、堀達之助の次男・孝之も薩摩藩士になっているというわけです。

 おイネさんが、中山作三郎および、その実子の堀達之助と知り合いだった可能性は、相当に高いのですが、証拠はありません。

 幕末の長崎におきまして、オランダ人との混血でありますことは、それほど珍しいことではなく、いじめられる幕末の混血児像は、戦後民主主義が生んだ幻のように、私には思えます。


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オランダおイネと楠本イネ

2016年03月14日 | シーボルトの娘

 卯之町紀行 シーボルトの娘がいた街 後編の続き、ということになります。

 先年から、近藤長次郎本挫折、文さん本挫折と続きました。どちらもあきらめたわけではなく、なんとかしなければと思いつつ、前へ進まなくなりましたところで、昨年の暮れ、山本栄一郎氏から、シーボルトの娘・楠本イネに関します、あっと驚くような情報をいただきました。それがどのような情報かは、書きません。なにしろ山本氏に、「なにもかもブログに書くのはやめてください!」と戒められておりますし、さらに私、どうもブログに書きますと、それで満足して、本の原稿を書かなくなりますし(笑)
 山本氏のご指摘を受け、他にもいろいろと調べてみましたところが、近年、いままで知られておりませんでした史料も紹介され、どーやら、司馬遼太郎氏の『花神』とも吉村昭氏の『ふぉん・しいほるとの娘』とも、まったくちがう楠本イネ像を掘り起こせそうな気がしてまいりました。


花神(上中下) 合本版
司馬 遼太郎
新潮社


吉村昭歴史小説集成〈6〉ふぉん・しいほるとの娘
吉村 昭
岩波書店


 おイネさんを書くことの利点は、愛媛に関係する人物ですので、地元から出版できることです。
 これまで私、趣味の集大成として本を出そうと思っていたのですが、おイネさんならば、仕事の集大成にもなりえます。
 まずはおイネさんだわと、正月そうそう知り合いの出版社に話を持ち込み、OKをいただきました。

 えーと、それでまあ、原稿を書きかけてはいるのですが、なににとまどうって、このブログは最近、あきらかにオタク向けになっておりまして、私、幕末の一般的な出来事を説明しないですましてしまっているわけなのですが、一般向けの本を一冊書くとなりますと、きっちりと、しかもわかりやすく、時代の概要を提示しなければならないんですね。
 あらためて説明しようとしますと、知ってたような気でいて、実はよくわかっていなかった事柄も多く、自分がわかっていなければ説明のしようもありませんし、まして、臨場感をもたせるなんて至難のわざです。
 つくづく、司馬遼太郎氏はすごいですわ。

 そんなこんなで、私、書き始める前にまず、身近な女性たちに「シーボルトの娘のおイネさんについて、どんなイメージを持ってる? そのイメージのもとはなに?」と聞いてまわりました。
 それが、意外にも、ですね。『花神』も『ふぉん・しいほるとの娘』も、だれも読んではいなくって、私の知らなかったドラマが二つ、あがりました。
 一つは、宮沢りえがイネさんを演じたNHKドラマ『おいね 父の名はシーボルト』で、調べてみましたら十数年前の作品でした。
 忙しかったんでしょうか。私、さっぱりその存在自体を知らなかったのですが、妹に聞けば、相当に暗い話だったそうで、「で、あのドラマみたいに、おイネさんは本当に強姦されたの?」と聞き返されました。
 
 もう一つは、TBSのポーラテレビ小説『オランダおいね』でして、四十数年前に放送されたものです。
 この当時、松山には確かTBSがなかったはずでして、放送されていなかったのではないか、と思います。
 しかし、『オランダおイネ』という呼び方は、幾度も耳にしたような気がしまして、もしかしてこのドラマゆえなのか、とも思え、どーしても内容を知りたくなり、ノベライズの古本を手に入れました。
 これが、もう、荒唐無稽の作り話で、唖然としました。
 
 まあ、ともかく、ですね。みなもと太郎氏の『風雲児たち』にも、かなり頻繁にイネさんが登場するとは、今回、初めて知りました。

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 「風雲児たち コスプレ美女コンテスト」というのもありまして、シーボルト・イネは一位です! いや、シーボルト・イネって‥‥‥、そんな名乗り、本人がしたことないんですけどね。
 楠本イネが、本人が望んだ正式な名です。
 イメージとしましては、『花神』と『ふぉん・しいほるとの娘』をごちゃまぜにして、しかし『花神』テイストが強い、という感じで、楽しくも強烈なイネさんです。

 これからときどき、原稿にはならないイネさん周辺の話題を、ひろっていくつもりでおります。


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卯之町紀行 シーボルトの娘がいた街 後編

2013年11月26日 | シーボルトの娘

 卯之町紀行 シーボルトの娘がいた街 前編の続きです。

 えーと。池田使節団の横浜鎖港談判です。
 シーボルトとモンブランが嚙んでいたらしい、このときの池田使節団とフランス政府の密約とは、以下のようなものです。

 モンブラン伯と「海軍」をめぐる欧州の暗闘vol2より
 この池田使節団なのですが、フランスで「秘密条約」なるものを結んでいまして、それが「下関における長州の外国船砲撃を防ぐため、幕府が航路を警備するのであれば、フランス海軍はそれを助ける」というものでした。これを後世、尾佐竹猛氏が「フランス海軍の指揮下に幕府が長州征伐をする」というような文脈で解釈なさり、昭和初期の排外思想の中で、「外国軍隊を引き入れて植民地化の道をひらく危険な条約だった」ということになったのですが、どんなものでしょう。 

 6年前にこれを書いたとき、私は、密約が後世に拡大解釈されたのでは? と思っていたのですが、どうも、ですね、沓沢氏の論文を読んでおりますと、再来日したのち、幕府顧問になったシーボルトですが、そのときの行動自体が、幕府から相当に不審の目で見られていたようですね。
 で、シーボルトの通訳を務めました三瀬周三が、文久2年のシーボルト解雇後、投獄されたにつきまして、その理由がよくはわかっていないのですが、沓沢氏はハンス・ケルナー氏の「シーボルト父子伝」から、シーボルトの依頼で周三が従った翻訳が幕府に見咎められた、としておられます。長井音次郎の伝記とあわせて考えますと、シーボルトの日本のあり方にまつわる、なんらかの見解が幕府の気に入らず、周三がオランダ語に訳した日本史関係の史料がその基になっているとして、腹立ち紛れに周三を投獄しましたものの、周三は、幕府が雇っていましたシーボルトの指示で翻訳しただけのことでして、結局、「町人身分なのに武士身分だと偽った」というだけの嫌疑で5年間の投獄、という、理不尽な扱いになったもののようです。ちょっと、ひどすぎましたね。

 実は、長崎でシーボルトに学んでいたといわれます長岡謙吉も、このとき長崎奉行所からなんらかの嫌疑を受けて国元へ追放されていて、キリシタンの嫌疑だとかいわれているのですが、私は、シーボルトにまつわるのではないのか、と推測しています。シーボルトはヴュルツブルク司教領生まれのカトリック教徒でして、父親を早くに亡くして、聖職者の叔父に育てられましたし、日本のキリシタンに関心を持つのは自然でしょう。日本も開国したことだしと、キリシタン関係の文献の翻訳を長岡謙吉に依頼していて、それを奉行所が見咎めたんじゃないんでしょうか。

幕末日本と対外戦争の危機―下関戦争の舞台裏 (歴史文化ライブラリー)
保谷 徹
吉川弘文館


 以前から、保谷徹氏の「幕末日本と対外戦争の危機―下関戦争の舞台裏」、気になっていたのですが、今回、読んで見る気になりました。フランスの武力行使の可能性は、果たしてどれほどのものだったのか、ということになろうかと思うのですが、柴田剛中が、「モンブラン伯爵とシーボルトは同じ穴のムジナで信用ならない」としていたにつきましては、やはり、それなりの理由がありそうな気がします。



 卯之町(うのまち)中町(なかんちょう)のメインストリートです。
 訪れたのが水曜日(11月20日)だったものですから、商店は休みだったのですが、古民家が喫茶店になっていたりと、以前にはまだあまり整備されていませんでした町並みに、ゆっくり散策できそうな雰囲気ができていまして、いい意味で様変わりしていました。高野長英が隠れていたこともある、と伝えられます庄屋館が、補修なのか、工事中の幕でおおわれていたのが残念で、また、今度ゆっっくりと訪れたいものです。

 つくづく思うのですが、今の卯之町は四国の愛媛の田舎町で、ここで世界を考え、日本の国のあり方を考えるきっかけなんて、あんまり見いだせるような気がしないのですが、幕末にはおイネさんがこの街を歩いていて、高野長英が隠れ住んでいたこともあり、世界史と日本史の交わりの片鱗を、見ることが出来た街だったんですよねえ。藩政時代の地方分権のあり方は、幕末維新史の解釈の仕方において、そしてこれからの日本の形を模索するにおいて、見直されてしかるべき、と、思います。




 上は、二宮敬作の住居跡地の表示でして、場所としましては、ここにおイネさんも住まっていたはずです。
 下の2枚の写真は、その裏手の方なんですが、二宮家の離れだったといいます建物が、一部だけ残っています。高野長英が隠れ住んでいたといわれ、また郷土史家の門多正志氏の著作では、イネが住んでいたのもこの離れだったのではないか、と推測されています。
 次いで、お墓の方へ。


 


 中町から開明学校へ向かい、その手前を左に折れますと、光教寺の墓地があり、そこに、二宮敬作と妻いわと息子の逸二と、三人いっしょの墓石が建てられててます。
 私、まったくうっかりしておりましたが、以前に仕事の取材で、宇和町教育委員会発行の「宇和の人物伝」という本と、「イネと敬作 その時代展」というパンフレットを手に入れていまして、そこに、門多正志氏と、長崎シーボルト記念館・福井英俊氏の論文が載っていまして、すでにイネの戸籍の話や敬作のお墓の話も出ていたんですね。読んでいたはずなんですが、すっかり、忘れこけておりましたわ!



 長崎・晧臺寺のお墓、私、左側の墓石の側面、裏面の銘文が摩滅で読めませんで、よくわからず、右側のものがそうなのだろうと思い込んでしまいまして、「二宮敬作先生之墓なんて、妙な墓石だなあ」と思いつつ、お参りしたのですが、門田正志の「宇和の人物伝」に、ちゃんと長崎の墓石の写真が載っておりまして、左のものがイネが建てた墓石でした。戒名が二つあるのは、妻いわといっしょの夫婦墓だから、です。いわは敬作よりも早く(織田毅氏碑文に「已に妻西氏先一年没」とあり、門多氏は「妻の西氏は四年前に先立った」としていますが、どちらをとるべきかわかりません。四年前なら卯之町で死んだ可能性が高そうですが、一年前となると長崎へ来ていて死んだのかもしれず、その方がありそうなのですが)、逝去していまして、夫婦墓にしたのは、おそらく、なんですが、墓石を建てたイネさんが、いわをも慕っていて、長崎で夫婦いっしょに眠ってもらいたい、と願った結果なのでしょう。
 文久2年3月12日、病死しました敬作を葬ったのは、敬作の息子・逸二なのですが、同年7月24日、後を追いますように逸二は没し、一説には、殺された、ともいわれるそうです。長岡謙吉、岩崎弥太郎と箸拳、ナンコをしていた人でして、あるいはこれも、シーボルトにまつわっているんじゃないのかなあ、と憶測してみたくなります。

 ともかく。
 卯之町のものと長崎のものと、敬作の戒名は同じで、晧臺寺でいただいたもののようですが、いわの方は、卯之町の墓石の戒名と、長崎の墓石のそれとは、少しちがっています。光教寺は臨済宗妙心寺派で、晧臺寺は曹洞宗。そのちがいなのか、あるいは、単純に伝え間違い、なのかもしれません。

 

 二宮敬作は農民でしたが、その姉の息子でした三瀬周三も、旧家ながら大洲の町人の子でした。
 同じ大洲中町出身で、大洲の国学者・常磐井厳戈同門で、勤王歌人・巣内式部(すのうちしきぶ)がいるんですが、周三も、祖父の血を受け継いだのか、かなりな歌人だったようです。しかし、それにいたしましても、大村益次郎が襲われましたとき、周三は恩師の命を助けようと病院で奮闘し、巣内式部は襲撃に関与したとのあらぬ疑いをかけられ禁固。なんとも、奇妙な縁です。

 周三とイネは、大村益次郎が宇和島城下で塾を開いていましたときの教え子で、司馬遼太郎氏は、このとき、イネと益次郎の間に恋愛感情が生まれたのではないか、という想定で「花神」を書かれているのですが、このとき益次郎は、宇和島に妻を伴って来ていまして、状況からして、また、話がややこしくなりますので詳細は省きますが、イネさんの心情からして、ありえない話です。
 イネさんは、いわゆるシングル・マザーですが、そのただ一人の娘のタダ(改名して高子)さん本人が、「私の父だった人物を母は嫌っていて、望まない妊娠だった」というようなことを語っています。高子さんの回想には、思い違いも多いのですが、母親の心情に関して言えば、信憑性があるのではないでしょうか。

 上の写真は、左が高子さん、右が周三さんですが、もっと若いころの写真もありまして、ものすごい美人です。
 戦時中、松本零士は、大洲藩の支藩領だった新谷が母親の里だったため、疎開して来ていまして、高子さんの古写真を見たんだそうです。
 シーボルトの血を受け継ぎます高子さんの面影が印象に残り、「銀河鉄道999」のメーテルのモデルの一人となった、という話もあります。

銀河鉄道999(予告編)


 「銀河鉄道999」は、亡き母の面影を追う男の子の話、ともいえると思うのですが、イネさんの物語は、父の面影を追って生きた女の子のそれ、なのではないでしょうか。
 所詮、まぶたの父だったシーボルトは異国の人で、後年のおイネさんは、二宮敬作を第二の父として、ともにすごした思い出を心のよりどころとし、その思いが、長崎・晧臺寺の墓地に込められているような気がします。

 追記 吉村昭氏の「ふぉん・しいほるとの娘」、ざざっと読み返してみたのですが、久しぶりに読んで見ましたら、案外、事実とちがう部分も多いみたいです。高子さんの回顧談に頼りすぎで、墓碑銘や過去帳などは見ておられないようです。一番悩ましいのは、イネの母のお瀧さんが遊女であったかどうか、なのですが、「オランダ人の妾になるには形式的に遊女になるしかなかっただけで、遊女ではなかった」とする高子さんの回想を、なぜか吉村氏はこの部分だけは完全否定しているんです。しかし私、ピエール・ロチの「お菊さん (岩波文庫)」なんぞを読んでおりますと、長崎には、藩政時代から、遊女としてではなく、素人娘という触れ込みで、オランダ人の仮の妻となるような習わしがあったのではないか、と思うんですね。一応、キリスト教が根底にあります欧米諸国では、一般に娼館の娼婦は道徳的にさげすまれる傾向があり、日本のように「おいらんをしていて商家の妻として身請けされる」というようなことは、あまり考えられないことです。欧米の男性が好色ではなかったというのではなく、メイドさんに手を出すのはけっこう平気だったりしますから、なんとも偽善的なんですが、唐人お吉のように、「身の回りの世話を素人娘にさせる」というような形で、まずはそばに置きますことが、欧米人が日本女性に手をつける場合には、一般的じゃないでしょうか。とすれば、吉村氏が描きますような最初からの遊女ではなく、高子さんの回想にありますように、商人の家の小間使いとしてさりげなく顔見せし、気に入られたら、遊女の籍に入って妾となる、といった形もあったのではないかと、思ったりしています。

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卯之町紀行 シーボルトの娘がいた街 前編

2013年11月22日 | シーボルトの娘

 長崎、近藤長次郎紀行 後編の続きでしょうか。

 11月3日(日曜日)、長崎は朝から雨だったんですが、午前中はシーボルト記念館を訪れていました。




 実は、以前に長崎へ行きましたときにも訪れたんですが、母がいっしょだったために、よく見ることができませんでした。今回、中村さまがごいっしょで、堪能させていただきました。
 そのシーボルト記念館にもポスターが貼ってあったのですが、現在(2013年10月9日~12月1日)、愛媛県西予市の愛媛県歴史文化博物館で「三瀬諸淵 -シーボルト最後の門人-」特別展示を見ることができます。
 
 三瀬諸淵(諸淵は雅号で、本名は周三です)については、ごく簡単に、ですが、幾度か取り上げたことがあります。
 
幕末残照・長州紀行より
 大村益次郎は、適塾で福沢諭吉と肩を並べて学びました蘭学者で、長州を勝利に導いた陸軍の改革者、日本陸軍の創始者的存在です。靖国神社に巨大な像があります。
 最初は生まれ育った鋳銭司の村医者だったんですが、伊予宇和島藩の蘭癖大名・伊達宗城に取り立てられましたことが出世のとっかかりでしたし、宇和島ではシーボルトの娘・イネに蘭学を教え、縁あって、その最後を看取ったのは、イネとその娘婿で伊予大洲藩出身の三瀬周三でしたから、愛媛県にゆかりの人物です。


『八重の桜』第19回と王政復古 前編より
 常の最初の子をとりあげたのはイネではなかったか、という話は、広瀬常と森有礼 美女ありき15に書きましたように、常が父親とともに元大洲藩上屋敷の門長屋に住んでいたことは確かで、どうやら常の父親は、武田斐三郎の紹介で、元大洲藩主・加藤家の財産管理の手伝いをしていたわけですから、可能性が大きくなります。
 なぜならば、イネの娘・タダの夫だった三瀬周三は、大洲藩領の出身で、武田斐三郎と三瀬周三は、大洲の国学者・常磐井厳戈の同門だったりするからです。


普仏戦争と前田正名 Vol9より
 といいますのも、おイネさんが女医さんになるための最初のめんどうを見ましたのが、シーボルトの弟子で、伊予宇和島藩領で開業していました蘭方医・二宮敬作でした。四賢侯の一人で、長面侯といわれました宇和島藩主・伊達宗城は蘭学好きで、おイネさんを奥の女医さんとして迎え、おイネさんの娘・タダを、奥女中として処遇したりもしています。
 そして、二宮敬作の甥で、大洲藩に生まれました三瀬周三(諸淵)は、再来日しましたシーボルトに師事し、やがてタダと結婚します。
 そんなわけで、愛媛県限定のローカルな仕事をしておりました私は、おイネさんについて、書くことが多かったんです。


 つまるところ、ごく簡単にまとめますと、「三瀬周三はシーボルトの弟子・二宮敬作の甥で、シーボルトの娘・楠本イネの娘婿で、シーボルトの最後の弟子と成り、大村益次郎の最後に立ち会った人」です。
 前回もご紹介しましたが、吉村昭氏の「ふぉん・しいほるとの娘」は、かなり史料に忠実でして、イネとその周辺の人物について詳しく書かれていますので、お勧めです。デジタルもありますので、iPad Airでぜひ。

ふぉん・しいほるとの娘〈上〉 (新潮文庫)
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 シーボルトの来日は文政6(1823年)。明治維新の45年前です。
 いつからを幕末と呼ぶべきかにつきましては、さまざまな意見があるのですが、私は、文化3年(1806年)文化露寇の衝撃から、という見解をとっていまして、そう考えると、ロシアとのつながりも持ちますシーボルトは、けっこうなキーパーソンです。そして、普仏戦争と前田正名シリーズでその片鱗に触れておりますが、日本史と世界史の接点を意識しますと、シーボルトを追って幕末を語ることは、非常に興味深く、なおかつ楽しいことなんです~♪

 また、「ふぉん・しいほるとの娘」が詳しいのですが、前回にもご紹介しました長崎のおもしろい歴史というサイトさんに、シーボルトの孫 ”山脇たか” が語った 祖母タキの事  母いねの事  わたしの事といいますイネの娘で見瀬周三の妻でしたタカさんの回顧談がありまして、基本、「ふぉん・しいほるとの娘」もこの回顧談に基づいて書かれているのですが、シーボルトが離日しましたとき、わずか3歳で、産科医として明治天皇の御子を取り上げるまでになりましたイネさんの生涯は、劇的です。
 まあ、あれです。現在の大河ドラマ……、キリスト教に対します考察もまったくなしで、なんでキリスト教にかかわっているのか、あの不便な洋装を喜んでいるらしいことに同じく、コスプレ気分としか思えません八重さんドラマよりははるかに、幕末を語るにふさわしいドラマの人材になりうると思うんですけどねえ。

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 かつての大河ドラマ「花神」では、浅丘ルリ子がおイネさんを演じたそうですが、私、まったく見ておりません。つい最近、時代劇チャンネルで一回分だけ放送され、原作は「花神」だけではなく、同じく司馬作品で長州を舞台にしました「世に棲む日日」と「十一番目の志士」もミックスしたドラマだそうでして、そこそこおもしろそうに思ったのですが、あの時代の大河は、ほとんど録画が残っていないんだそうです。

 それにいたしましても、「花神」は1977年の大河ドラマで、すでに36年も前です。もう一回、少女時代からおイネさんを、と思うのですが、なんと、再来年の大河は松蔭の妹!という情報もありまして、えー、松蔭の妹って、叔父の玉木文之進(明治の終焉・乃木殉死と士族反乱 vol2に出てきます乃木希典の実弟・玉木正誼の義父です。教え子だった玉木正誼、吉田小太郎など、多くの若い英才が萩の乱に参加した責任をとって割腹しました)を介錯した気丈な妹、なんですかね??? まあ、それはそれで、どう描くのか楽しみではありますが、現在のNHKがやることだけに、多大な危惧もあります。

 えーと。話がそれましたが、シーボルトとイネ、そしてその周辺の人々は、幕末の政治劇の中枢近くにいて、あまり知られていないことなのですが、海援隊の長岡健吉も、長崎で二宮敬作に学び、再来日しましたシーボルトに師事したといわれますので、三瀬周三と相弟子です。
 そのことにつきましては、桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1に、以下のように書いております。

 小龍は学者ではないのですが、蘭学を学んでいましたし、「漂巽紀畧」を記したくらいで学識もありますし、ずっと近所の少年に学問を教えていたようなのですが、その才能で小龍をうならせておりましたのが、同じ浦戸町内の医者の息子、長岡謙吉です。
 浦戸といいましても、この当時の浦戸とは、現在のはりまや町のことでして、小龍の家は、はりまや橋観光バスターミナルの裏手、高知市消防団南街分団の向かい側あたりにあったそうです。
 
 
 長岡謙吉って、長崎で再来日したシーボルトに師事し、息子のアレクサンダーくんが少年だったころから、知り合いだったんですねえ。

 長岡謙吉は後に海援隊に入りまして、大政奉還の建白書の草案を起草したのではないかと言われております。これに手を入れましたのが欧州帰りの中井弘(桜洲)で、中井桜洲と桐野利秋に書いておりますように、中井は桐野と仲がよさげで、時期はちょっとちがうんですけれども、桐野と海援隊のつながりにリンクしている話のようにも思われます。

 長岡謙吉は、龍馬よりは二つ、近藤長次よりは四つ年上です。
 小龍に学問を教わっておりましたのは十二、三歳のころで、その後大阪、江戸で、医者になる勉強をしました。
 大地震のころ、謙吉は高知に帰ってきていて、謙吉の親戚だった坂本龍馬も、そうでした。
 

 長岡健吉は、龍馬の継母の親戚で、龍馬と幼なじみでした。河田小龍の塾では、近藤昶次郎の先輩になりますし、昶次郎亡き後、小龍が龍馬のもとに送り込んだ参謀だった、という解釈も成り立つでしょう。
 
 最近、仕方なく大河ドラマ「龍馬伝」の再放送を見ているんですけれども、長岡謙吉はまったく出てこないんだそうですよねえ。要するに、大嘘ドラマにもったいのつけすぎ、でして、なにしろ、近藤昶次郎がどう描かれているかを確かめるためにのみ見ていますので、スーパーミックス超人「龍馬伝」のときのように突き放した気分にもなれず、「なんで、こんなつまらない大嘘ドラマを作るのかしら」とため息です。いや、大嘘はいいんですよ、おもしろければ、ね。 

 で、話がそれまくっておりますが、長崎へ行く以前から、「歴博で三瀬周三展! 見たいっ!!!」と思ってはいたのですが、なぜか知りませんが愛媛県は、県庁所在地の松山市からははるかに遠い西予市卯之町に歴史文化博物館を作っておりまして、HPには「高速で松山から50分」 なんぞと書いておりますが、それはインターに入って後のこと。こんな田舎の高速は、決して渋滞したりはいたしませんから、乗ってしまえばすいすい行くのですが、松山はいわゆる中核都市。高速に乗るまでに時間がかかるんですよねえ。おまけに私は、自動車の運転をしません。

 えー、行くとすれば高速バスですが、数少ない特急で片道1時間半、往復3時間。母の昼食を用意し、帰って夕食を作ることを考えますと、けっこうわずらわしい距離です。
 「図録を通販で買えばいいか」とあきらめかかっておりましたところへ、突然、古くからのお知り合いのひとみ嬢から、「卯之町へ行きませんか」とのお誘いがありました。いえ、別に、「歴博で三瀬周三展を見ませんか?」というお誘いだったわけではないのですが。

 ひとみ嬢は、かつて私が一時、ラジオ局でアルバイトをしておりましたときに知り合いました才媛ですが、偶然にも、早くに亡くなられた彼女のお父上は、私の父が若い頃に赴任しておりました高校で事務職についておられました。彼女の母上の葬儀の席で、彼女のお父上と非常に親しく、うちの父も知っていたとおっしゃいます、卯之町在住の先生ご夫妻と知り合い、父の思い出を聞かせていただいたりしたような次第です。
 ひとみ嬢とそのお友達、私、妹が、以前にも卯之町へ遊びにうかがったことがございましたが、今回、その 先生の教え子で、うちの父も知っている、という方が卯之町へ見えられるので、またいっしょにお食事はいかがでしょうか? ということだったんです。

 そこは、それ。図々しい私です。これこそ、神のお導きよっ!!! 天にましますわれらが父よ、願わくば御名の尊まれんことを!って、私、キリスト教徒ではございませんが、思春期にお経に親しまず、主の祈りの方に親しんでいたものですから、つい、とっさに口をつきますのは、これです。
 まあ、ともかく。図々しくも、「喜んでうかがいますが、歴博で三瀬周三展を見る時間をください!」とさけび、先生ご夫妻とひとみ嬢の多大なご配慮により、天にものぼる気持ちで、出かける運びとなりました。

 前にも書きましたが、卯之町はシーボルトの弟子でした二宮敬作が開業していました街で、敬作がイネをひきとっていた時期もあり、イネが暮らした街でもあります。私は、幾度か、仕事の取材で訪れ、郷土史家の先生からお話をうかがったこともあるのですが、仕事ぬきで史跡を訪れるのは、今回が始めてです。
 藩政時代には、宇和島藩領でした。物資の集積地として、宇和島城下に次ぐ人口を誇ったといいます。
 しかし、街歩きは後にまわしまして、まずは丘の上の歴博へ。

 

 せっかくですから、常設展も見ました。
 実は、開館当初の話を関係した方からお聞きしたことがありまして、江戸東京博物館を大いに参考にしたのだそうです。
 つまるところが、レプリカばかりでして、小学生の見学にはいいのかもしれませんが、やっとのことで文書館が出来るのかと喜んでおりました当時の私にとりましては、がっかりする代物でした。
 展示はもちろん、古代からありますが、一番のお気に入りは、昭和30年ころの松山の町並み、です。





 一転、「三瀬諸淵 -シーボルト最後の門人-」展の方は、数々の本物が並んでおりまして、圧巻でした。
 ひとみ嬢と妹に、もっとも受けましたのが、シーボルト宛オランダ語の三瀬周三書簡(日本語訳の解説がそえられていました)。要するに、「やる気がなくて、出来が悪いアレクサンダーくん(シーボルトの長男)に、日本語を教えることに、私は疲れ切りました。これでは、私の勉強に支障が出ます」 といいますような、「周三くん、ずいぶんはっきりものを言うよねえ!」という内容のものでした。残念ながら、下の図録には収録されていなかったのですけれども。



 とはいいますものの、この図録、すぐれものです。写真のほか、関係資料集も在り、周三の書簡から、イネの娘で周三の妻となっていました美人の高さんが、後年、郷土史家の質問に答えてしたためました回想書簡まで、活字にしてくれているんです。
 シーボルト記念館館長・織田毅氏の「二宮敬作の一側面」といいます短い論文もあり、晧臺寺で見てきました墓碑の銘文を載せてくださっています。私、うっかり、銘文の写真を撮っていなかったのですが、はっきりと、イネさんがこの碑を建てた旨、書いているみたいです。
 そしてもう一つ、岩崎弥太郎の安政7年の日記によりますと、長崎において、弥太郎は二宮敬作をたびたび訪ねているんだそうでして、二宮親子と弥太郎と長岡謙吉と、親しく箸拳(と思います)をしたんだとか。実は、ごく最近、弥太郎の日記は買いましたので、読んでみるつもりでおります。

 


 丘の上の歴博から、卯之町の中心街・中町(なかんちょう)へは、徒歩でしかたどれない近道があります。
 強風の中、紅葉の山道を下りますと、二宮敬作翁碑と、敬作をしのぶ薬草園が。実際に、卯之町で開業しておりました幕末、敬作は薬草園を作っていたそうでして、それを復元したものです。
 薬草園から中町はほど近く、その入り口に先哲記念館があります。




 ちょうど、「イネと弟ハインリッヒ展」をやっていまして、入ったのですが、ハインリッヒはシーボルトの次男です。明治になってから来日し、オーストリア=ハンガリー帝国在日大使館に奉職して、日本女性と結婚していて、日本にご子孫がおられます。なんという幸運でしょう! そのご子孫・関口忠志が出されております小冊子を希望者にくださるといいますので、さっそく、事務所へいただきに参りました。
 まだとばし読みしかしていないんですけれども、これがまた、すぐれもの。
 
 実は、ですね。私、普仏戦争と前田正名 Vol9におきまして、以下のように書いております。
 「仏英行」7月20日条に、柴田は、モンブランの従者・斎藤健次郎(ジェラールド・ケン)がもってきた新聞を見ての感想としまして、「アールコック(初代駐日イギリス公使オールコック)、シーボルト、出水泉蔵(薩摩の密航使節団の一員としてイギリス滞在中の寺島宗則)、ロニ(レオン・ド・ロニー)等一穴狐となるの勢あり」と、すべてモンブランの仲間で、同じ穴の狢となってなにかを企んでいる、というような、ものすごい感想……といいますか、ある程度、正鵠を射ていますような、そんな見方を柴田は書き付けていまして、モンブランもぼろくそにけなしていますが、シーボルトに対しても、まったくもっていい感情は抱いていません。 

 要するに、モンブラン伯爵とシーボルトとの間には、連絡があったのではないのか、というような感触を持っていたのですが、シーボルト記念館の展示に、ミュンヘン国立民族学博物館所蔵の伝・鳴滝塾模型の解説パネルがありまして、そこに「(ミュンヘン国立博物館のシーボルトコレクション)所蔵品目録の記述は、シーボルトの長男アレクサンダーとサイトウ・ケンシロウによってまとめられた」というようなことが、書いてあるんですね。
 「サイトウ・ケンシロウって、斎藤健次郎(ジェラールド・ケン)よねっ!!!」と目を見張ったんですが、いただいた関口忠志の小冊子には、池田遣仏使節団とシーボルトが関係していたことが、「沓澤論文」を参考に述べられていたんです。

 さっそくCiniiでさがして見ましたら、ありましたっ! 沓沢宣賢氏著「一八六三年ヨーロッパ帰国後のシーボルトの外交的活動について」で、無料で公開されていますし、沓沢氏の論文はもう一つ、「シーボルト第二次来日時の外交的活動について」も読むことが出来まして、ほんとうに大収穫ですっ!!!

 要するに、池田遣仏使節団、つまりは横浜鎖港談判使節団にモンブラン伯爵が接触していたことは確かでして、それにシーボルトも深くからんでいた、ということになるんです! モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? 番外編に書き、wikiーシャルル・ド・モンブランにも追記しておりますが、モンブラン伯爵の父親は、ベルギー領となりましたインゲルムンステル男爵領を、ドイツ系で、ハプスブルグ帝国の名家・プロート家から受け継いでいまして、祖父がハプスブルグ帝国からフォンの尊称を得ていたシーボルトとは、おたがいに日本マニアでもありますし、十分に接点がありえたのでしょう。

 天使のようなみなさんのおかげで実現しました、大収穫の卯之町紀行ですが、長くなりましたので、次回に続きます。

 
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コメント (2)
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