郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

松本良順と家茂と篤姫

2008年10月20日 | 幕末の大奥と薩摩
 また、ちょっと脱線します。
 大河の「篤姫」なんですが、将軍家定が、実は馬鹿ではなかった!設定になったあたりから、堺雅人の好演も手伝って、「なかなか、やるじゃないの」と思って見ていましたが、夫が死んで、篤姫が未亡人になってからというもの、あるわけない………とあくびが出るほど、ホームドラマ部分がつまらなくなってしまい、そうするといやでも史実を描いた部分の方へ目がいってしまいまして、まあ、当然なんですが、これがまたあるわけない………の連続で、最初の印象、「まあ、小松帯刀の名が世に知れわたるだけでもいいんでないかい」という境地に、落ち着いてまいりました。

 にしても前回は、実にひどかった、としか。小松帯刀、似合わなすぎ!です、総髪が。
 つーか、事実としては病気のときの「さかやき剃らなくていいですか」願いをたてに、外国人に髷が珍しがられてうるさいから総髪って、馬鹿馬鹿しすぎ!です。帯刀は外国に行っているわけじゃないんですから。
 アーネスト・サトウやミットフォードやグラバーやボードウィンなどが、髷を珍しがるわけがないでしょうがっ!!! 日本にいるんですから。
 だいたい、総髪は王政復古の象徴なんです。その昔、武士が政権をとる以前、朝廷に実権があった古代には、さかやきなどなくって総髪だったのだからと、勤王の志士は総髪を好んだんです。みんなでお公家さんのまねをしようってことで、外国人は関係ありません。

 まあ、文句をいえばきりがなく、例えばですね、家茂の実母・実成院が、酒好きで、賑やかなことの好きな人だった、という話を、本寿院におっかぶせていましたが、そもそも実成院を出していないのですから、仕方がないといえば仕方がないんですが、ますます本寿院が、あんまりにもありえない……状態。

 しかし、そんなことよりもなによりも、家茂将軍が勝海舟に抱かれて死んだ!!!という呆然とするような作り話に、心底うんざりしたのは、やはり、昔これを読んで、思わず松本良順に感情移入し、まあ、なんとおいたわしい上さま……と、ほろっとした記憶が鮮明だったせいでしょう。

松本順自伝・長与専斎自伝 (東洋文庫 386)
松本 順,長与 専斎,小川 鼎三
平凡社

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 松本良順は、将軍家の奥医師で、蘭方医です。勝海舟が長崎でオランダ海軍伝習を受けていたと同時期に、やはり長崎で、オランダ海軍軍医だったポンペ・ファン・メーデルフォールトから、医学伝習を受けました。
 実父は佐倉藩の蘭方医だった佐藤泰然で、日英同盟時のイギリス公使だった林董は、実の弟です。
 林董は、幕末のイギリス留学生で、帰国後、榎本武揚の脱走艦隊に身を投じて、函館戦争に参加していますが、兄の松本良順は幕府の脱走陸軍の治療にあたり、会津入りしています。良順は、結局、土方歳三とともに会津を出て仙台まで行き、そこから横浜へ帰ります。
 そもそもは、近藤勇が良順のもとを訪れて親交がはじまり、京都では良順が新撰組の屯所を訪れて土方にも会いましたし、良順は後年、この二人の顕彰に心を尽くしましたので、新撰組ファンには必読の自叙伝です。

 しかし、この自叙伝でどこが最も感動的かというと、将軍家茂の最後を看取る場面です。
 大阪城で病の床に伏した、21歳(満20)の若き将軍家茂は、無能な老中にかこまれ、次々に入る第二次征長の敗戦の報に心痛ひとかたならず、赤子が母親にすがるように良順をひきとめます。奥医師が、2時間ごとに交代でそばにつめることになっていたのですが、良順は三週間の間、ずっとつめきりで、その間、横になって眠ることはできませんから、朦朧としてきて、ついに「1,2時間の休息を賜え」と家茂に願います。しかし家茂は、良順がそばからいなくなることを怖れ、「ここに入っていっしょに眠れ」と、良順を自分の寝床に入れたんだそうです。
 良順は、「恩命の重き、辞することあたわず」、将軍の寝床に入りましたが、もちろん、眠れるわけがありません。
 「君上と同衾するの苦は、百日眠らざるよりくるしかりし」
 それから2、3日のうちに、良順に看取られながら、家茂はこの世を去りました。
 「これ順が終天無窮の恨事にして、公に尽くせし最後のことなり」
 
 そして、松本良順は、こうも記しています。
 「予は将軍家茂公に仕え、恩遇をこうむり、最も心を尽くしければ、そのことおのずから内殿に伝わり聞こえ、天璋院殿大いに予を信ぜられたり」
 つまるところ、実成院の逸話を本寿院のことにしてしまうと同時に、松本良順の回顧録を妙なぐあいに脚色して、勝海舟のことにしてしまったわけなのですが。

 なお、この場面は、司馬遼太郎氏が、実にみごとな脚色で、「胡蝶の夢〈第3巻〉」 (新潮文庫)において、描かれています。


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アーネスト・サトウと龍馬暗殺

2008年10月17日 | アーネスト・サトウ
 またまた突然ですが、ちょっと気にかかるものを発見しまして。
 お題なんですが、サトウと龍馬暗殺が直接関係するか、といえば、直接ではないんです。
 このふたつを結びつけるのは、西尾秋風氏です。
 西尾秋風氏は、坂本龍馬暗殺犯は中村半次郎と土佐脱藩士だった!という、突拍子もない説で有名なお方です。
 私、ご本人が出されていたのだと思うのですが、小冊子「龍馬謀殺秘聞余話」の部分コピーしかもっていませんで、なんでコピーを持っているかといいますと、関西在住の久坂ファンさんが、なにかの会合でご本人にお会いして、いただいたかなんかで、桐野の話が出てくる部分だけ、コピーして送ってくださったのです。
 説としてはとんでもないんですが、きっちりくずし字の読める方で、こう、まあ、身軽に取材しようという意欲のあった方のようでして、桐野の京都時代の愛人、村田サトさんの実家の村田煙草店のご子孫の方に取材しておられまして、いや、いったいサトさんのお身内のご子孫が、なんで龍馬暗殺に関係するのかは、私にはさっぱりわからなかったのですが、ともかく、その部分があったために、私はコピーをずっととっておいたようなわけです。

 部分しか読んでいませんので、まちがっていたらごめんなさい。しかし、西尾秋風氏の大意としては、桐野利秋と龍馬暗殺 前編 後編に出てくる土佐人なんですが、三条制札事件で逃げ延びて、薩摩藩邸にかくまわれていた松島和助、豊永貫一郎、本川安太郎、岡山貞六、前嶋吉平が、桐野とともに、坂本龍馬と中岡慎太郎を斬ったんだろうというのです。
いや、あの、そのー、どこからどう見ても、5人は薩摩藩邸を出た後、陸援隊に属してまして、そのうちの4人までが、龍馬と中岡の仇討ちをめざした天満屋事件に参加しています。
 ものすごい発想です!!! 久しぶりに読んで、頭痛がしてきました。
 あー、まあ、いいんですけど。世の中には、いろいろな方がおられますから。

 その西尾秋風氏が、です。「中岡慎太郎全集」(えらいお値段ですが、私は知人から安くゆずってもらいました)で、山本頼蔵の「洛陽日記」の読み下しをなさっている、と知ったときには、少々ショックでした。しかし、まあ、発想が突拍子もないことと、くずし字を読み解く能力はまた別の話ですから、いいんでないのか、と納得していたのです。

 しかし、なんでよりにもよって、山本頼蔵の「洛陽日記」なのか、と思いはしたのですが。といいますのも、京都時代の桐野、つまり中村半次郎、それも薩長同盟締結まで、については、同時代の日記や手紙、といった確実な史料が、ほとんどなにもありませんで、この山本頼蔵の「洛陽日記」、元治元年(1864年)4月16日条に、「当日石清(中岡慎太郎の変名、石川清之助の略)、薩ノ肝付十郎、中村半二郎ニ逢テ問答ノヨシ。此両人ハ随分正義ノ趣ナリ」、つまり「中岡慎太郎が薩摩藩の肝付十郎、中村半次郎に会って話した。この二人は、(薩人には珍しく)ずいぶん正義の趣だったよ」とあるのが、一番早い時期のものだったのです。今回、いつものfhさまが、もっと早い時期のものを松方日記から発見してくださいまして、それは次回に詳細を書きます。

 ところで、山本頼蔵というお方は、中岡と同郷の土佐郷士ですが、名前の知れた方ではありませんので、その日記も注目されていたわけではないんですが、「洛陽日記」が活字になったのは、なにも「中岡慎太郎全集」が最初、ではありません。戦前から平尾道雄氏が注目なさって、ご著書の「中岡慎太郎」と「陸援隊始末記」に、一部抜粋して載せておられるんです。中岡慎太郎が、早くから薩摩との連携を模索していた、という話で、桐野が出てくる部分も活字化してくださっていましたので、たとえ西尾秋風氏が、少々変わった読み方をなさったにしても、その部分は動かせない、という安心感はありました。

 で、今回、松方日記との関係で、「中岡慎太郎全集」を読み返していましたら、西尾秋風氏の「洛陽日記」論考、という論文がありまして、その中で、本文部分におさめきれなかった山本頼蔵の日記の断片、雑文などが一部、収録されているのですが、そこになんと、アーネスト・サトウが出てくるんです!!! いえ、名前は出てきません。英夷となっていますが、あきらかにサトウなんです。

「外国交際 遠い崖5 アーネスト・サトウ日記抄」 (朝日文庫 は 29-5)
萩原 延壽
朝日新聞社

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 「遠い崖」のこの5巻に出てまいりまして、再び8巻で解説がくりかえされる、西郷隆盛の書簡があります。萩原延壽氏は、明治2年の1月、サトウが6年半滞在した日本を離れ、初めての休暇でイギリスに帰る際、サトウが流した涙、そして帰国後、同僚に「つくづく日本がいやになった」と書いているその心情を、懇切丁寧に解説なさっているんですが、その焦点となるのが、この西郷書簡なのです。

 若き日の通訳官サトウは、維新を傍観していたのではなく、あきらかに一方の側、つまりは薩摩に、ですが、荷担して、身をもって維新を体験しました。この手紙は、それを象徴していまして、後年、老練な外交官となったサトウの外交官としての立場からすれば、消してしまいたい過去であったことは確かでしょう。
 サトウは、北京公使を最後に、明治39年、62歳で外交官を引退し、帰国の途上、日英同盟のもと日露戦争に勝利したばかりの日本を訪れ、大歓迎を受けます。40年近くの昔、サトウが語り合った多くの日本人は、すでにこの世の人ではありませんでしたが、それでも生き残りはいて、サトウは薩摩出身の松方正義から、「あなたの名前が出てくるから」と、西郷の大久保宛手紙の写しをもらうんですね。
 その手紙のサトウが出てくる部分なのですが。

「さて、薩道(サトウ)へ逢いとり見候処、まったく已前(以前)の通りの訳にて、かくべつなにも替わり候向きとは相見え申さず、依然たる次第にて、柴山(良助)の疑迷とは大いに違い申し候ゆえ、先日よりおはなし申し上げおり候通り、大阪商社仏人(フランス人)と取り結び、大いに利をはかり候趣くわしく申し聞け、仏人のつかわれものと御話しの通りいいかけ、いささか腹を立てさせて見たきつもりに御座候ゆえ、仏に憤激いたし候様説きこみ候ところ、おおいによく乗り、思い通りにおこらせ候処、だんだん意底をはなし出し申し候間、左の通りに御座候」

 これと同じことを、西郷は桂久武(西郷と仲が良かった薩摩の家老)宛の手紙にはもっと詳しく書いていまして、それとあわせた萩原氏の解釈を参考にしまして、簡単に解説しますと、以下のようです。
「サトウに会ってみたところ、以前にあったときと変わった様子もなく、柴山(良助)が心配していたようなこともなさそうだったので、今度の兵庫・大阪開港で、幕府は大阪商社を作って、横浜でやっているのと同じように、フランス人と独占取り引きをしようとしているようだが、と詳しく語り、兵庫開港に骨を折ったのはイギリスだが、利はフランスにさらわれる結果になるとは、結局、イギリスはフランスのつかわれもの(召使い)ではないのか、と、腹を立てるように話してみたところ、サトウはこちらの思ったように怒って、だんだんと正直な胸の内を話すようになったよ」

 柴山良助は、慶応はじめころからの江戸藩邸の留守居役です。寺田屋事件で謹慎をくらった人ですが、西郷復帰によって、重要な役をこなすようになったんですね。サトウは、この柴山と、とても親しくしていたようで、この年の暮れ、柴山は庄内藩の攻撃で捕らえられ拳銃自殺したのですが、サトウは柴山が打ち首になったと聞いて、「仇を討ってやりたいものだ」とまで、日記に書きつけています。

 しかし、それにしても。私、松方正義って、なんだか鈍感な人のようなイメージがあるんですが、いくら名前が出てくるからって、そして、いくら40年も前の手紙だからって、これって、見せられて嬉しい文面ですかねえ。サトウにとっては、手玉にとられた、って話なんですから。鳥羽伏見の直後に、モンブラン伯爵がとびだしてきて、まあ、サトウはそのときから、つくづく、薩摩藩の外交感覚には舌をまいたでしょうし、手玉にとられた、とも感じていたでしょうし、それでもその数年は、サトウにとって「本当に生きた」と実感できる充実した日々で、西郷に好意をよせていたサトウです。そして………、すべては遠い過去ですし、笑えたのかもしれませんけれど。

 この手紙が書かれたのは、慶応3年の7月27日です。これがどんな時期だったかといえば、大政奉還と桐野利秋の暗殺を見ていただければわかりやすいのですが、7月2日、後藤象二郎は、小松帯刀、大久保利通と会合し、土佐の藩論を大政奉還論に統一し、10日後には兵力を率いて再び上京することを約束し、帰国したのですが、そこでイカロス号事件が起こり、約束は守られませんでした。
 このイカロス号事件、長崎でイギリス船の水夫二人が殺されたもので、疑いは海援隊にかかり、イギリス公使館は土佐への態度を硬化させていました。

 「柴山良助の疑迷」について、荻原氏は、この春、将軍慶喜公が、大阪城で各国公使を謁見し、パークス公使が非常な感銘を受けた上に、慶喜が兵庫・大阪開港を実現させたことで、イギリス公使館自体が幕府支持にかたむきかけていることなのではないか、と推測されていますが、私は、それもあったでしょうけれども、タイミングとしては、イカロス号事件が大きかったと思います。大政奉還から倒幕へと事を運ぶには、土佐藩は、どうしても同志として引き入れる必要のある存在であり、その土佐藩がイギリス公使館から嫌われ、イギリスが積極的な幕府支持にまわったのでは、事がなりようもありません。

 モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3で詳しく書きましたが、薩摩藩は、モンブラン伯爵にフランスの地理学会で「日本は天皇をいただく諸侯連合で、幕府が諸侯の自由貿易をはばんでいる。諸侯は幕府の独占体制をはばみ、西洋諸国と友好を深めたいと思っている」という発表をさせ、しかもちょうどこの時期にパリで開かれています万博で、琉球王を名目に、独立国然と交易の意欲を示し、おそらくはモンブランの地理学会演説をアーネスト・サトウに提示する形で「英国策」を書かせて、それをまた和訳して、「英国は天皇を頂く諸侯連合政府を認めるだろう」という感触を、ひろめていました。

 私は、おそらく薩摩藩は、大阪・兵庫開港をにらんで、王政復古のクーデター、鳥羽伏見の戦いを、起こしたのだと思っています。開港時には各国公使が京都の近くに集まりますから、新政府への承認をとりつけることが容易、だからです。
 つまり薩摩が、慶喜公に、執拗に納地を迫ったのは、慶喜が納地に応じないままでは、幕府から外交権が奪えないから、なのです。長崎も横浜も函館も、そして大阪も兵庫も、開港地はすべて幕府の領地であり、それをかかえたまま、幕府に独立されてしまったのでは、諸外国に新政府を承認させることは、不可能でした。
 そして実際に慶喜公は、鳥羽伏見の開戦まで、開港地と外交権を握って離さなかったのです。

 で、まあ、そんな薩摩藩ですから、宣伝のつもりで、話を流すこともありえるかなあ、とも思うのですが、驚いたことに、西尾秋風氏によれば、慶応3年7月27日朝、「西郷がサトウを訪れ、わざと怒らせて本音をはかせた」話が、それから一ヶ月もたたない8月22日、大阪から土佐の片田舎の山本頼蔵に届いた手紙に、書かれていた、というのです。
 西尾秋風氏が読み解かれたという、その「浪花よりの書簡ぬき書き」を、「中岡慎太郎全集」より、以下、引用してみます。(あー、とはいえ、漢字、カタカナをひらがなに直したり、旧かなを新かなにしたりで、正確ではありませんので、悪しからず)

「西郷、過日下坂の節、英人に接しいう。英国は世界第一の強国と聞こえしに、今日をもって見れば英に人無しと。英夷おおいに憤激、そのいはれ何にとおおいに迫り来る。吉(西郷吉之助)、しかればいい聞かすべし。なんじ、さきに我横浜を開く。今は仏のために使役せらる。人無しというべしと。英、いよいよ怒り、なんぞかの小仏に役せらるる事をせんや。そのいわれ如何。吉、いわく、なんじ知らざるか、仏の日本に来る、なんじに遅るる事ひさし。江戸始め兵庫に至るまで、好市場みな仏に取られてその役に従う。これ、その人なきいわれなりと。英、おおいに憤慨して退くという。英仏離間の策なるべし」

 うーん。こうして、書き写していますと、なにしろイカロス号事件がありますから、心配する土佐の同志、中岡慎太郎かだれか、を、安心させるために西郷がわかりやすく語ったことを、その中岡かだれか、が、国許に書き送った、のかもしれないんですが、「英(サトウ)が憤慨」したままでは、あまり意味がなさげな気もしないではないのです。
 とはいえこの話、最後まで出しますと、サトウが「薩摩側にイギリスは軍事支援してもいい」とまで言ってしまい、西郷が「日本の政体改革は自分たちだけの力でする」と応じた、という、見方によっては、「薩摩はイギリスと通じている」と、とられかねない結末でして、「幕府はフランスに日本を売りかけている」といったような、それまでさんざん薩摩藩がくりひろげた宣伝とちがって、これは宣伝することなのか、という気がしたわけなのです。
 まあ、ありえる道筋としては、西郷は、土佐の同志を安心させるつもりで語り、それを聞いた中岡なりが、国許の攘夷気分にあった語り代えをして、手紙に書いた、ということでしょうか。

 ともかく、土佐の田舎の文書にアーネスト・サトウ登場!!!とは、偽もの???と思わず疑ってしまったほど、驚きました!!! 桂久武宛の書簡には、かなり詳しく、これに近い感じで書かれていますし、萩原氏の解説のしめが、西郷が狙ったのは「英仏離間」だった、ということでしたので、私はつい、疑ってしまったのです。

 世の中には、奇妙な創作意欲で偽文書を作る方がいて、また学者さんが簡単にそれに騙されることについては、松本 健一氏の「真贋―中居屋重兵衛のまぼろし」 (幻冬舎アウトロー文庫)を読んで、「いかにもありそう」と思ったりもしまして、まあ、あれです。どうも最近の学者さんは、ご自分でくずし字がちゃんと読めない方がけっこういて、それで騙される場合がけっこうありげな感じですが、しかし今回、私が疑ってしまったことには、もちろん、私の西尾氏への偏見があります(笑)

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夢の国の「シルクと幕末」

2008年10月09日 | 生糸と舞踏会・井上伯爵夫人
見ようかどうしようか、相当に迷ったのですが、シルク幕末フランスとお題がそろいまして、この私が、見ないわけにもいかないような気になってしまい、つい、見てしまいました………。この映画。


シルク スペシャル・エディション

角川エンタテインメント

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レッド・バイオリンの監督さんとは、知りませんでした………。ちがいすぎ!!!
キーラ・ナイトレイが出ていたとは、知りませんでした………。似合わない!!!
主人公の妻役なんですが、古典的な「待つ女」。柄じゃありません。



もう、なんといえばいいんでしょうか、「ファンタジーだと思えというのね」と自分に言い聞かせてはいたのですが、いけません。
だって冒頭から1862年と、はっきり実年が出てくるんです。文久2年生麦事件の年ですよねえ。

ヨーロッパの蚕が病気という、これもとてもリアルな話を出してきておいて、エジプトまで元気な蚕の卵をさがしに行った主人公のフランス青年(元陸軍士官)が、そこの蚕もだめなので、日本へ行きます。冒頭から2年くらいはたっていそうなので、元治元年(1864年)くらいかなあ、という感じです。
レオン・ロッシュが公使として来日し、横須賀製鉄所建設と引き替えに、蚕と生糸の日仏独占交易を試みようとする、ちょうどそのあたりのはず。

それが………、日本は蚕交易を禁じているので密入国して秘密の取り引きをしなければいけないって、なんなんでしょうか、いったい!!! 日仏通商修好条約は安政5年(1858年)に結ばれ、万延元年(1860年)の日本の輸出総額395万のうち蚕種と生糸が259万にのぼりますけど、もしもし???

たしかに、いっとき、幕府が生糸と蚕種の取り引きに制限をかけたことはありましたが、すぐにやめさせられていますし、なぜに、シベリアを横断してウラジオストックから密入国??? 文久3年(1863年)には英国の定期客船が横浜まできてるんです!!! 慶応元年(1865年)にはフランス郵船も日本への定期航路を開設しているんだから、普通にマルセイユから客船に乗ればいいでしょうがっ!!! 

その後も内乱が勃発するって、戊辰戦争のことですか、もしもし???

たしかに、戊辰戦争で生糸や蚕種の生産地が戦闘にまきこまれ、交通の遮断もあって、横浜で品薄になり、いっときだけですが開港直前直後の新潟港に、生糸商人が押し寄せ、みたいなことはあったみたいですが、桃源郷のような蚕の村が内乱で壊滅って、どこの藩のことですか、もしもし???

内乱が収まって日本は蚕種取り引きを解禁し、スエズ運河が開通したって、スエズ運河開通は明治2年(1869)ですが、慶応元年(1865年)には幕府はきっちり商標までつけた蚕種をナポレオン3世に贈り、2年後にお礼のアラビア馬をもらってますが、もしもし???

 そして、普仏戦争はどこへ消えたの!!!!! いったい???? 明治3年(1870年)にはじまった普仏戦争で、フランスの生産活動は滞り、生糸も蚕種も買ってもらえなくなって、横浜の生糸商人は大損をするんですけれど。
 ともかく、ただただ疲れました。



 ただ、どうもこの映画の原作「絹 」(白水Uブックス 169 海外小説の誘惑)の著者は、イタリア人みたいなのです。
 だとすれば………、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol3などで、ちょっと触れていますが、フランス公使レオン・ロッシュは、友人の銀行家フリューリ・エラールとともに、絹織物の産地リヨンから出資をつのって「フランス輸出入会社」(ソシエテ・ジェネラール)を結成し、幕府との独占貿易を意図し、良質の生糸と蚕種が、イギリスの仲買業者も含めて、他の商人の手には渡らないように、巧妙に工作していた節があるんですね。「この独占にイタリア人も怒っている」というような証言もありまして、ちょうどこの映画の時期、フランス人、それもロッシュの息のかかった商人以外は、良質の蚕種は、手に入れられなくなっていた、はずなんです。
 良質の生糸、蚕種の産地は、そのほとんどが幕府の天領でして、これも以前にバロン・キャットと小栗上野介などで書きましたが、重税をかけられ、人心が幕府から離反しました。戊辰戦争で、その幕府の生糸、蚕種政策が崩壊したのはいいのですが、従来のルートには乗らなくなった上に、戦乱で横浜への荷出しがとまり………、といったようなこともありましたし、主にイタリアの生糸商人が、というのもイタリアも絹織物産業が盛んで、蚕の病気に苦しめられていましたから、新しい取り引きを求めて、新潟開港に期待をかけるんです。
 どうも、エドワルド・スネルが画策したようなのですが、奥羽列藩同盟の各藩に自分が武器を売り、同時に列藩同盟各藩が、自藩領の蚕種や生糸をイタリア商人に売ってその支払いにあてる、というような試みで、開港前から新潟に商人が集まったんです。
 まあ、ですから、まだイタリア人が主人公であれば、話はわからないでもないのですが、フランス人なばかりに、おい、独占交易しといてなにをいう!!!、なんです。

 うーん。ちょっと気になって追記しているんですが、「フランス輸出入会社」にはとてもまぜてもらえない南仏の弱小生糸生産地帯が、ですね、良質の日本産蚕種が市場に出回らなくなったのは、日本が禁輸したのだと思いこんでいて、つまり自国の公使がやっていることだとは知らないで(つーか、知らなかったでしょうけどね、普通)、直接買い付けに人を送ったとしたら、この映画に近い話になるんですかね。
 ただ、シベリア超えて密入国はありえんですし、マルセイユから客船で長崎か横浜まで来て、自国の策謀を知って、どこかに良質の蚕種を密売する藩はないかとさぐったところ、庄内藩が売ろうとしていると知って……、ひそかに庄内領に入る。
 これなら、ありえない話じゃなさげ、ですね。おい、レオン・ロッシュ!!!

 つーか、薩摩藩の開成所で洋学教授をしていた本間郡兵衛は、庄内の人ですわね。文久2年(1862年)の幕府の訪欧使節団とともにパリも訪れていますし、薩摩から幕府の独占交易の情報は入ったでしょうし、庄内藩で蚕種を密売するくらいのこと、考えつきそうなんですが。
 役所広司演じる原十兵衛は本間郡兵衛、ですかね。英語ぺらぺら、もしかしたらフランス語もしゃべってたかもしれませんし。
 ちなみに、本間郡兵衛は慶応3年(1867年)、薩摩のスパイだったとして捕らえられ、その後、庄内藩庁の手で殺されています。



 庄内日報社 洋学者 日本最初の株式会社創立 本間郡兵衛

  郡兵衛は文久2年欧米各国や清国を巡遊し、西洋諸国の経済発達と、その経済侵略を東洋に向けていることを目の当たりに見て、このままでは日本は外国資本にやられる。それを防ぐには国家としての統一はもちろんだが、株式会社を作り、巨大産業を起こす事が何よりも急務と考えた。
 廻船問屋に生まれた郡兵衛は、経済に敏感だったにちがいない。
 ちょうどこのころ、薩摩の名家老・小松帯刀が英語教師をグラバーに求めたことから郡兵衛が推薦され、開成所の英語教師となった。郡兵衛は早速「薩州商社草案」をつくり帯刀に上書した。というのはこの草案が彼の生家である恒輔家に残っていて、郡兵衛が日本で一番早く株式会社を考えたことを物語る史料となっている。
 開明的な帯刀は大いに共鳴し、大坂に設けてあった薩摩交易の拠点、大和交易方を拡張し、大和方コンパ二―という株式会社を組織することにした。大和方コンパ二―は別名、薩州商社ともいった。
 慶応2年、郡兵衛は大和方コンパ二―に本間家の参加を求めるため、酒田に帰ってきた。彼は本間家から資本を出させるだけでなく、酒田港を東北の拠点としようと計画していた。従ってもしこれが実現していたら、酒田港が幕末の開港場に指定され、明治維新以降の立ち遅れをみないですんだかもしれない。


 これはまちがいなく、原十兵衛は本間郡兵衛、でしょう。
 いや、なんだか、モンブラン伯爵も関係していそうな気が。
 薩摩と庄内の関係悪化で、本間郡兵衛の商社活動が差し止められて、庄内藩が弾圧にまわったのですから、これは映画がいうように「内乱」ですわね。
 あー、いまさらなんですが、この映画を見てよかった!!!かも、しれません。

 すみません。さらに妄想がわいてきて、続けます。中谷美紀演じる謎の日本人マダム・ブランシュ、ですが、ブランシュ、白、ねえ。マダム・モンブラン(白い山)、の伝え間違いだったりしまして。つまり、モンブラン伯爵の愛人フランスお政(笑)。



 主人公の青年エルヴェのモデルにも、心当たりが(笑) モンブランが薩摩に連れてきて、雇うことを断られたフランスの元陸軍士官「アントワン」ですけれどね、薩摩は雇うのは断ったかわりに、たっぷり違約金を支払ったのに、その後もモンブラン伯爵が、どこかに押し込んでやろうと必死に画策して、結局、おそらく後藤象次郎の世話だと思いますが、フランス式を選択した土佐藩の陸軍教師に雇われます。
 と、ここまでは証拠のある話で、「アントワン」くん、よほど日本にとどまりたかった、みたいなんですけど、実は南仏の生糸生産地帯の出身だったりしまして……、どうもモンブラン伯爵家は南仏の出身みたいですし、伯爵の母親はモンガイヤール家の出で、これも南仏貴族みたいですから、良質蚕種品薄騒ぎの裏を知るモンブラン伯爵が、縁の深い南仏の村がそれで困っているのを知り、陸軍士官だったその村の青年「アントワン」くんを日本に送ることを勧め、薩摩の縁から庄内の本間郡兵衛に紹介し、「アントワン」くんは一度庄内に行って買い付けをしますが、庄内だか長崎だか横浜だかそれはわかりませんが、日本人の愛人ができて、どーしてももう一度日本に行きたい!、とモンブラン伯爵にねだって、今度は元陸軍士官の経歴を生かすつもりで来日。愛人と再会した、とか(笑)





 ところで、気のせいかもしれないんですが、確か一昨日は、「生麦事件 横切った」でぐぐったら、生麦事件と攘夷のページが、けっこう上の方にあがっていたように思ったんです。なんか書いたばっかりなのに、早すぎる気もしたのですが。ところが昨日から、どんな言葉を入れてぐぐっても、出てこなくなたんです。な、な、なんなんでしょ??? Google検索 怖いです!!!

なんだか今日は、変なお話ばっかりでしたので、最後に、大先輩からうかがった、素敵なお話を。
つい先日、大先輩が桐野のお墓参りをなさいましたところ、なんとお墓には、薩摩切子のぐいのみと、きれいな香水瓶が、捧げられていたのだとか。さすが桐野、豪勢ですよねえ。

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生麦事件と攘夷

2008年10月06日 | 生麦事件
 またまた更新が滞っております。すみません。なぜか生麦事件に迷っていってしまい、なぜか一生懸命wikiの記事書きに取り組んでおりました。あー、まあ、一つは、「薩藩海軍史」という基本資料を持っていまして、なぜ持っているかといいますと、モンブラン伯爵について調べるためだったんですが、あんまり役に立ったともいえず、ここらでちょっと役立ててみようかと、生麦事件のあたりを読んでみたため、というのもありました。
 ちょうど、大河の「篤姫」で生麦事件をやっていたりもしまして、よく考えてみましたら、私、生麦事件の現場では、実際になにがどうなったのか、という事実関係については、きっちり知ってはいませんでした。

 えーと、話がそれるんですが、なんなんでしょうか。「篤姫」が描く禁門の変の小松帯刀は!!! 資料で見る方がはるかにさっそうとしている、というのは、ドラマとしていかがなものかと。まあ、手間をかけたくなかったんでしょうが、小松さんの場合、慶喜公をひっぱって、御所の中をかけずりまわったんですから、ちゃんと史実を描いても、合戦シーンは金がかかる、という話でもないと思うのですが。説明がめんどかったんでしょうか。政治劇をろくに描かず、お茶をにごされても、ねえ。

 話をもとにもどしまして、以前に書いたことがあるんですが、まずこの生麦事件は、いわゆる単純な攘夷ではなく、「無礼者!」ということから起こっているわけです。個人が起こした事件ではなく、大名(正確には島津久光は藩主じゃありませんが、それに準じる存在です)行列の供回りが、主従関係の中で、無礼を咎めて外国人を殺傷したわけですから、当然、これは久光の意志のうちです。
 そういう認識があったものですから、誰がどうしたとか、どこがどういうふうに無礼だっただとか、細かなことは気にしていませんで、なんといえばいいのでしょうか、えーと、事実関係については、いろいろな見方があるんだろうなあ、と、なにを読んでも読み飛ばしていた、といいますか。

 しかし、今回調べて、「いったい、なんなのお???」と、とても疑問に思ったことがあります。それは、生麦事件を簡単に説明する場合、よく、「島津久光の行列を、イギリス人が横切って、薩摩藩士に斬り殺された」としていることです。検索をかけてみましたところ、現在の高校の日本史の教科書も、多くが横切ったになっているんだそうですが、横切ったのではありません!!!
 生麦村の住人で、一部始終を見ていた勘左衛門の当日の届けと神奈川奉行所の役人の覚書を総合しますと、「神奈川方面から女1人を含む外国人4人が騎馬で来て、島津久光の行列に行きあい、先方の藩士たちが下馬するようにいったにもかかわらず、外国人たちは聞き入れず、(久光の)駕籠の脇まで乗り入れてしまったので、供回りの数人の藩士が抜刀して斬りかかった」ということであり、真正面から行きあって、イギリス人たちは、どんどんと久光の駕籠のそばまで乗り入れたのです。これは、アーネスト・サトウの日記、つまりはイギリス側の資料から見ても同じなのです。行列を横切ったのではなく、真正面から行列に乗り入れたのです。
 後世の談話も含めて、日本側にもイギリス側にも、横切ったという資料は、ただの一つもありません。いったい、どこから出てきた言葉なのでしょう。

 久光の行列は、往路でも騎馬で横に並んで傍若無人にいく外国人に出会っているんです。それでも、なにもしていません。長い行列です。久光の駕籠から離れた場所を外国人が横切ったくらのことで、薩摩藩士も抜刀はしなかったのです。久光の駕籠のごくそばまで、平気で乗り入れたから、なのです。リチャードソンが馬主をめぐらそうとして、駕籠をかつぐ棒に触れた、という話もあり、ほんとうにごくそばまで乗り入れていたのです。

 よく、後の神戸事件(備前事件)で、………いえ、この事件の後始末にはモンブラン伯爵がかかわり、事件の責任をとった滝善三郎の切腹をバーティ・ミットフォードが描いていますから、多少調べているのですが………、識者の方々が、「行軍をフランス人水夫が横切ったことは、「供割」(ともわり)と呼ばれる非常に無礼な行為で、生麦事件と同じ」とか書かれていますが、ちがいます!!!
生麦事件は、横切ったどころか、真正面からずんずんと乗り入れられたのであり、それでも鉄砲隊が発砲したりはしていません。


生麦事件
吉村 昭
新潮社

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 吉村昭氏の小説は、いつもとてもリアルで、実証的なのですが、今回はちょっと、疑問でした。イギリス人の4人の行動については、「ロンドン・タイムズ」や「ヘラルド」の記事を参照になさったようで、私も生き残った確かクラークだったかの談話を読んだことがありますが、当事者が自己弁護で、自国新聞に語った話が、どれだけ信用ができるのでしょうか? アーネスト・サトウが日記に書きつけた程度のこと、つまり「わきによれといわれたのでわきを進んだ」、つまり当人たちは「わきによれ」といわれたと思いこんで、わきによったつもりだった、ということしか言えないと思います。少なくとも、目撃した生麦村住人の目には、「脇によって遠慮深く進んでいた」とは、とても見えなかったのです。
 まあ、とはいえ、小説ですから、「冷や汗たらたらで、なんとなく引き寄せられるように遠慮深く進んだ」とでも書かなければ、劇的にならないかもしれないのですが、しかし。ほんとうに「二本差しの侍たちが怖くて、おびえつつ」だったのなら、なにもそんな恐ろしい侍たちの中をつっきって、前へ進む必要はなかったのです。彼らは乗馬を楽しんでいただけで、前方に用事があったわけでもなんでもなかったのですから。それとも、肝試しを楽しんでいたのでしょうか。
 ここは、やはり、事件現場へ真っ先にかけつけたイギリス公使館医官、ウィリアム・ウィリスの以下の言葉が、真実でしょう。

「取るに足らぬ外国人の官吏が、もしそれが同国人であったならば故国のならわしに従って血闘に価するほどの態度で、各省の次官に相当する日本の高官をののしったりします。また、英国人は威張りちらして下層の人たちを打擲し、上流階級の人々にもけっして敬意を払いません。ー中略ー誇り高い日本人にとって、もっとも凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるにちがいありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです」

 つまり彼ら極東のイギリス商人たちは、幕府の役人がおとなしく彼らの罵声に従うので、二本差しをまったく怖がってはおらず、軽んじていたのです。
 ウィリスによれば、さらに彼の知人は、別に特別残忍な男というわけでもないのに、毎日、なんの罪もない日本人の下僕を鞭で打ち据えていたそうです。
 斬り殺されたリチャードソンは、上海で「罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑」を受けていたそうでして、こういう話を知りますと、当時、一般庶民が攘夷を歓迎していた、という話も、頷けてきます。
 いくら身分が低くとも、日本人にとって、鞭打たれるというのは、相当な屈辱です。同じ日本人が、理由もなく牛馬のように鞭打たれるのを見ることも、また、屈辱的なことだったでしょう。

 まあ、あれです。例えるならば、米軍基地の人々が、基地の中で日本人使用人を鞭打つことを常とし、基地の外へ出ては、日本の警官の静止などはものともせず、交通違反、ひき逃げを繰り返し、交通規制がかかっているときに、自分たちは特別だからと、ドライブに出かけて、行列に真正面から出くわしても、スピードをゆるめるだけで、どんどん行列にわけいっていく。例え、それが皇太子殿下のご成婚パレードであっても、です。
 もしも、そんな状態だったとすれば、「頼んで来てもらったわけでもないのに、何様のつもり?」と、憤慨するのが普通でしょう。

 明治16年、事件現場近くの住人が、事件を記念し、また事件で一人命を落としたリチャードソンの魂をなぐさめようと、碑をたてることを思いつきます。碑文は、元幕臣で幕末のイギリス留学生だった中村敬宇に頼みました。

 君、この海壖に流血す。わが邦の変進もまた、それに源す。
 強藩起ちて王室ふるう。耳目新たに民権を唱ふ。
 擾々たる生死、疇か知聞す。萬國に史有り、君が名傳はる。
 われ今、歌を作りて貞珉を勒す。君、それ笑を九源に含めよ。

 「君(リチャードソン)は、この海辺のあたりで血を流した。日本の国の変革は、この事件に源があるんだよ。強藩がしっかりと立ち上がって皇室を盛り立て、民権を唱える世の中になった。君が命を落とした生麦事件を、みんな知っているだろうか。どの国にも歴史があって、君の名は後世に伝わるよ。私はいま、歌を作って石碑に刻んでいる。君はあの世で、それを笑って受けてくれ」

 明治16年の時点から振り返って見れば、幕臣であった敬宇にも、イギリスに戦いを挑む薩摩の気概が、維新の変革をもたらしたのであり、その原点は生麦事件であったと、思えたのですね。
 以前にもご紹介した、中岡慎太郎の以下の文章。

「それ攘夷というは皇国の私語にあらず。そのやむを得ざるにいたっては、宇内各国、みなこれを行ふものなり。メリケンはかつて英の属国なり。ときにイギリス王、利をむさぼること日々に多く、米民ますます苦む。よってワシントンなる者、民の疾苦を訴へ、税利を減ぜん等の類、十数箇条を乞う。英王、許さず。ここにおいてワシントン、米地十三邦の民をひきい、英人を拒絶し、鎖港攘夷を行う。これより英米、連戦7年、英遂に勝たざるを知り、和を乞い、メリケン爰において英属を免れ独立し、十三地同盟して合衆国と号し、一強国となる。実に今を去ること80年前なり」


 攘夷感情が、抵抗のナショナリズムとなり、民権論にもつながっていった、その歴史の原点が、生麦事件だというのならば、生麦事件の結果で起こった薩英戦争こそ、真の攘夷であったと、あるいは、いえるのかもしれません。


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コメント (26)
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